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「卵巣(ovary)は、それぞれの卵が生体を形成する能力がある点で、たしかに『等能』である。だが、卵巣と胞胚とでは、論理的に大きな違いがある。卵巣においては、系の個々の要素が、<それ自身のために同じ複雑な全体>、いわば生体を、同等に作り出す能力をもっている。このケースを、われわれは『複合等能系(complex-equipotential system)』と呼びたい。一方、胞胚の場合、それぞれの要素は同じように、<1つの全体を構成する単一部分の役割を、すべてが>担うことができる。もし胞胚をある方向から切ったとすれば、あらゆる個々の細胞が他の単一の役を担うことになるだろう。必要とされるあらゆる部分になりうるのである。しかも個別のケースごとに、それが正常な場合であれ異常な場合であれ、これを担う細胞は常に<調和>がとれており、それぞれに同等の多大な能力を維持している。このような胞胚を、<調和等能系>(harmonious-equipotential system)と名づけることにする」244頁

社会システム理論の起源はこのあたりにあるような気するなあ

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「ワイズマン[ヴァイスマン]学説の類の理論は、これらの事実を前に成立しえなくなる。確実に、卵は細胞分割の度ごとに分解されていく機械ではない。というのも、単一の分割細胞から、完全な生物が生まれるからである。これは、現形質と核との関係にも当てはまる。
…胞胚の部分は、ごく無規則に切り刻まれても、常に完全な胚を作り出す。これは、卵割初期の2つや4つの細胞の能力が同じであることを証明するものであり、それは胞胚を形成する千個の細胞の予定可能性が同一である場合にのみ、可能な事態である。ここで、<等能個体発生系>(equipotential ontogenetic system)という表現を、同等の予定可能性、つまり同じ可能な運命をもつ細胞からなる発生現象すべてを指すもの、としよう。かくして胞胚は、つづめて<等能系>(equipotential system)であることになる」243頁

やっとequipotentialに込められた意味がわかりました😅

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「分割胚における予定運命が固定されている事実は、ワイズマン学説とはまったく逆に、核に多様性はまったくなく、卵割が始まる以前には原形質の中では予定運命のいかなる特定化も起こらないこと、むしろ、いわゆる成熟以前には、これは確実に維持されることが示された。また、分割胚における核の相互の相対的位置を加圧実験によって根本的に変更できるし、成熟前の卵から任意の部分を取り除くことができるのだが、双方の場合とも、完全な胚を得ることができる。かくして、われわれの実験結果から、胚は<万能性>をもつと言うことができる」242頁

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「ルーとワイズマン[ヴァイスマン]は最初、正常な条件下での卵割の予定実現態[発生予定運命]はその予定可能態と『一致する』、言いかえれば、、その可能態は厳しく限定されており、またルーは自身のカエルの分割による実験によってそれは証明されたと信じていた。しかし私はウニの卵を用いて、少なくとも、予定実現態と予定可能態は<同じではなく>、予定可能態の範囲、言い替えれば形態学的運命に関する可能性は。観察される予定実現態、つまり眼前に展開する実際の運命より<はるかに大きい>ことを示すことができた」241頁

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「適応という事実すべてが、さきに定義した意味において、<目的論的>(teleological)である点に、いささかも疑問の余地はない。それらはまた、攪乱されると機能的な全体性を回復する。生物とは単に形態に関して<全体>(whole)であるだけでなく、生き物として、つまり機能的な形において<全体>をもっていることを、われわれは知っている。…
 ここで生命の機械説(machine-theory)と生気論を対比してみよう。いま述べた適応の事例だけをもって、このようなふるまいを予め基礎づけられている機械はありえない、と断言はできない。だが、こんな機械は、非常に不可思議で、機械としてはほとんどありえないものであろう。生物が一度も出会ったことがない物質から自身を防御するために抗体を生産する例などは、とくにそうである。そんな機械は不可能であり、この<不可能性>こそ、生気論が確立されなくてはならないゆえんである」238頁

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「生気論とは、われわれは少なくとも消極的な意味で、生命には、機械のような、あるいは力学的な型の過程ではないものがありえ、それはただ形式的な意味以上において、目的論的、もしくは合目的的と呼びうることを意味する。
 生気論の考え方は必然的に、出発点ではその消極的性格ゆえに、この重大問題についての議論が部分的には論理的な型にならざるをえない。もし生気論が証明しうるとすれば、その証拠は、比喩的なものであり、否定形の、機械は生命の基礎とはなりえない、という確信のみから成るものである。機械論の考え方は、そのかぎりにおいて積極的な形で定立されてきた。それは機械なのか否か、という問いとしてである」235頁

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「実際に全体性を生じさせる全過程を、目的論的(teleological)な、もしくは合目的的な過程と呼ぶことにしよう。『目的論的』という表現は、人間の行動のアナロジーにたって、一定の未来を記述するための、ある瞬間に割り当てられた単純な言葉以上のものではない。個々の生物は、統一のとれた多様性、すなわち実際的な全体性を示すものである。また少なくとも、発生、再生、適応の3つの過程は、あたかも全体性の存在が『目的(purpose)』であるかのような、全体性を保持する過程である。これらは常に全体性を保持し、常にこれは生じ、また生じ、無限にこれが生じることになる」234頁

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「個々の生物が多様度のある型を成しており、それは同時に1つの統合を成していて、技術的に単一の言葉でその本質的特性を表わすとすれば、全体性(wholeness)を体現している。この事実を、誰も否定できない。そしてまた、生物が出現してくるほとんどの過程がこの全体性を維持しており、これが乱されれば回復される事実については、少なくとも否定することはできない。この前者の過程は、一般には発生もしくは個体発生と呼ばれ、後者の過程は、形態の全体性が回復されるのであれば、回復もしくは『再生』と呼ばれる。もし、生物の生理学的状態が乱されてその後に回復すれば、それは適応と表現される。実際の全体性は、このような生物の形態としての全体性だけでなく、生活や機能の形を成すものである」233頁

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Driesch, Hans. (1914) The Problem of Individuality, Macmillan.
=2007 米本昌平訳「個体性の問題」227-313頁

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「われわれは、決定の概念を強調し、歴史を超個体的エンテレキーによってその生成が決定される超個体的な展開であるもの、と想定してみた。この歴史における生成の前決定論は、われわれが<実際>に用いることはまったくなかった。なぜなら<われわれは>、エンテレキーをその表出(manifestations)から離れては、知ることができないからである。しかしそれは原理的には存在しており、秩序の理論はこれを述べなければならなかった。この理論に従えば、純粋なすべてのエンテレキーについて知っている、歴史の展開的な生成を予言しうる超ラプラス的な精神を想像することは、<可能>ではある」223頁

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「時間を完全に別にして、経験される空間性に対応するもの以外に、『絶対』の中に<1つの>特別な関係の系が確実にあり、われわれはその系については、空間性の記号の下で、われわれが知っている系を切断したり交差(across)するかぎりにおいて、知りうるだけである。この理由ゆえに、単純な秩序の理論の領域においてさえ、われわれはただエンテレキーの存在について知るだけで、それ自身のあり様については何も知りえないのである」😅 222頁

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「秩序の理論の一部分としての、自然に関するわれわれの理論すべては、非教条主義的でとりわけ非形而上学的なものとなる。そしてこの自然の理論は、ほんらいの生気論、さまざまな可能な形の超個体的統一体、そして一元論と二元論、の理論を含む」219頁

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「われわれの研究の一般的な結論は、<必要条件>(postulate)としては秩序の一元論に、<事実>(fact)としては秩序と偶然の二元論になる。二元論であることを知っているにもかかわらず、一元論的な要請を救う唯一の可能性は、<原理的に不可知である>とする形而上学の可能性に頼ることである。つまり、空間的記号をもたない実在性の領域が『存在し』、人間の経験は空間的に制限されている以上、生物学的問題も十分満足には解きえない、という仮説に依拠することである」217-8頁

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「ハーバード大学のヘンダーソン教授は、最近『環境の適応(The Fitness of the Environment)』と題する注目すべき本を著した。私は、教授の生気論の問題に対する姿勢には賛成しない。彼は、われわれの言う機械論、生命の静的目的論の考え方を擁護している。しかし、これは問題の核心ではないし、彼の仕事の積極的な成果に比べればささいなことである。…その研究の成果は、生命のすべての現象は結局、他の化合物の常数と比べ、水や炭酸ガスの常数がもつ例外的特徴を本質的にその基盤にしていることを示した。…
 これは、自然界の調和という古典的な問題の、現代的で精密な定式化である。そしてこの調和こそは、宇宙一般の中の統一体、もしくは個体性の記号(sign)に他ならない」216-7頁

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「秩序一元論は、全宇宙が1つの秩序として考えられなければならないという、1つの論理学的要請である。こう考えることは、そもそも生物学や歴史の基礎としては不可能である。なぜなら、どちらも偶然や偶発事件とが混在する統一体だからである。
…経験科学は歴史や生物学と同じように、統一体の問題を提示すらしないで、すべての素材を躊躇なく単一因果性の図式に委ねている」215頁

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「かりに歴史の中を真の展開の主潮が貫流しているのが確かめられたとしても、歴史の中に蓄積は確実に存在する。蓄積と展開のある種の混合が、歴史的に創造されたどんな系にも認められる。
…かりに、歴史に対して仮説的に展開的性質を認めるなら、歴史の中には展開と蓄積が確実に混在している。これはおそらく系統発生でも同じであろう。しかし、ラマルクやダーウィンの理論は系統発生のうちの『蓄積』を説明するものであり、われわれは未だ、実際の系統発生がいかなる種類の展開であるかを真に語りうる理論をもっていないし、おそらくは決してもつことはないだろう、と言うことができる」207-8頁

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「歴史に関しては、少し確実なことが言える。なぜなら、われわれ自身がその真中に立っているからである。この『中央に立っている』ことが、一面で、真の知識に関して特別で、奇妙な不利益にもつながっていく。われわれは、展開[evolutions]としての歴史の中央に立っている<がゆえに>——かりに歴史が1つの展開であるとして——、われわれはその展開の特徴を明確には評価できないし、将来もできないであろう、とも言えるからである。
…ただし、『歴史』あるいは人間社会には、超個体的な全体性の印象を与える、いくつか重要な特徴がある。その特徴の第1は、繁殖という生物学的事実であり、第2はヴェントの言う『目的の多様性』、すなわち人の行動は個々の行為者の期待とは異なった、いわば創造的な効果をもちうる、という事実である。超個体的存在の第3の特徴は、<道徳性>(morality)、もしくは言葉の最も広い意味での道徳的感情という事実である」205-6頁

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「われわれは、進化論(the theory of descent)を真理であると認める。ただし、ダーウィン主義やラマルク主義は、この問題の核心に触れるものではない。これらの説は、二次的な重要性しかもたない、その一部分に適用できるにとどまる[😅]。われわれは、系統発生に関して本当の『理論』を<もっていない>」205頁

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「『川』、『島』、『山』、『街』に関しては、地質学的および心理学的生成と呼ぶわれわれの知識を基礎にすれば、概念としては統一体であるが、対象として統一性を意味し<ない>、ということができる。川や島や山を導き出した地質学的生成および、街の存在を導き出した心理学的もしくは心理=物理的生成は、明確に<単一>因果性(singular causality)の型であるからである。要するに、対象としては、これらすべての系は<合計>(sums)であり、それ以外の何ものでもない。実際、それらの存在はみな複雑化の過程によるものなのだが、その複雑化は<蓄積>(cumulations)であって、<展開>(evolutions)ではない。この場合、『展開」という言葉は、統合的生成を基礎にしたその内部からの複雑化を意味し、『蓄積』という言葉は、単一的生成の1つの位相が、ちょうど他の位相の上に重ねられるように、単純な条件を基礎にした外部からの複雑化を意味するもの、である」203-4頁

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「生物学の研究対象としての生体は、<統合化>もしくは固体化因果性の例を提示する。それは、形態形成や移動行動に関するかぎり、因果性の要素的形態の1つである。形態形成の進行過程で調和等能系が現れれば必ず、その<有機体>は、非力学的な因果性の1つの型としての、統合化因果性を意味する擬似的語法の実例であると言明できる。この統合系において空間的もしくは物質的な前決定なしに、ある<合計>(事象の可能性)が、ある<統合>(事象の現実の帰結)へと、転換される」201頁

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