「生物学の基本問題に対するカントの態度…全体をまとめると、彼の主張は以下のことを支持しているようにみえる。 第1に、純記述的で、もっぱら規制的判断をする目的論。それは、正当な基盤を挙げることなく、それ以上の究極目的を求める原理に立つことを遮断するものである。 第2に、生気論。ただしこれはカントが、すべての自然現象は先行する運動現象に究極的に還元できる、とするドグマに彼がとらわれており、同時にこの仮定が生命体に関するかぎり支持できないからである、と思える。 第3に、静的目的論、もしくは力学的に生じるすべての基礎の上にある一定の構造の理論である。この見解はカントの表現の意味合いにより、第2の立場に近いものを意味しているのは事実である。例外は、ここでも生気論的な意味で、その活動的存在ゆえに、人間が挙げられている」74頁
「トレビラヌスが初めて、生物学という言葉を、生き物についての理論全体を意味するものとして用いたことは、注目に値する。『われわれの研究の対象は、生命として違いを示す形態と現象、その事態が起こる条件と諸法則、それを生み出す原因についてである。これらの事柄に関わる科学を、生物学もしくは生命の理論と命名することにしよう』」90頁
どっちなんすかね…😅
https://twitter.com/9w9w9w92/status/1335908761458757634?s=61&t=respR7r04qX1B_3D9mrIuA
リービヒ「無機的な自然の力に関する知識が不充分であるために、有機物における特殊な力の存在はしばしば否認されてきた。この特殊な力は、無機的力の本性に抗し、その法則に矛盾する行動様式をもつ無機的な力に帰されてきた。その存在をあえて否定する人は、あらゆる化学的な結合は1つではなく、3つの原因、つまり熱と親和性に加え、凝集と結晶化における『形成力(formation forces)』が前提とされている事実に対して無知である」 「生体の中には、凝集力の優位にたち、元素を新しい形態へと結合させる第4の原因がさらにつけ加わる。それは、新しい質——生体の中を除いては出現しない形態と質を、獲得するためのものである」108頁
「真の生気論、少なくとも生命の形態について目的論的な考え方に言及している思索家以外で、注目してよい人間としては、晩年の[フォン]ベアがいる。彼は、1860年代〜70年代に、講演や講義の中で繰り返しその見解を説いた。 古典的生気論の中でのベアが果たした役割は二次的である。…目的論的な説明を採用する中で、ベアはダーウィン主義への反対陣営に加わった。 …彼の主張内容を、はっきりした考え方として切り出すのは、実に難しい。彼は、生命過程を有機的な構成の結果とは見なさず、『有機体それ自身が構成し変換するリズムとメロディー』と言っているのである。生命過程を『自身の体を自ら作り上げる創造的思考』と定義したり、型と特殊性との連関を彼は『調和とメロディー』だとするのだが、これなどは単なる比喩でしかない。 ベアは、刺激を『なにか初源的なもの』以上には明らかにしなかった。それは身体の構成から生まれるのではなく、『生命過程を完成させるもの』として、その上位に位置する。幸いなことに彼は、『良心』を『本能の最高形態』と呼ぶのである」140-1頁
「われわれは、進化論(the theory of descent)を真理であると認める。ただし、ダーウィン主義やラマルク主義は、この問題の核心に触れるものではない。これらの説は、二次的な重要性しかもたない、その一部分に適用できるにとどまる[😅]。われわれは、系統発生に関して本当の『理論』を<もっていない>」205頁
「ハーバード大学のヘンダーソン教授は、最近『環境の適応(The Fitness of the Environment)』と題する注目すべき本を著した。私は、教授の生気論の問題に対する姿勢には賛成しない。彼は、われわれの言う機械論、生命の静的目的論の考え方を擁護している。しかし、これは問題の核心ではないし、彼の仕事の積極的な成果に比べればささいなことである。…その研究の成果は、生命のすべての現象は結局、他の化合物の常数と比べ、水や炭酸ガスの常数がもつ例外的特徴を本質的にその基盤にしていることを示した。…
これは、自然界の調和という古典的な問題の、現代的で精密な定式化である。そしてこの調和こそは、宇宙一般の中の統一体、もしくは個体性の記号(sign)に他ならない」216-7頁
「個々の生物が多様度のある型を成しており、それは同時に1つの統合を成していて、技術的に単一の言葉でその本質的特性を表わすとすれば、全体性(wholeness)を体現している。この事実を、誰も否定できない。そしてまた、生物が出現してくるほとんどの過程がこの全体性を維持しており、これが乱されれば回復される事実については、少なくとも否定することはできない。この前者の過程は、一般には発生もしくは個体発生と呼ばれ、後者の過程は、形態の全体性が回復されるのであれば、回復もしくは『再生』と呼ばれる。もし、生物の生理学的状態が乱されてその後に回復すれば、それは適応と表現される。実際の全体性は、このような生物の形態としての全体性だけでなく、生活や機能の形を成すものである」233頁
「適応という事実すべてが、さきに定義した意味において、<目的論的>(teleological)である点に、いささかも疑問の余地はない。それらはまた、攪乱されると機能的な全体性を回復する。生物とは単に形態に関して<全体>(whole)であるだけでなく、生き物として、つまり機能的な形において<全体>をもっていることを、われわれは知っている。…
ここで生命の機械説(machine-theory)と生気論を対比してみよう。いま述べた適応の事例だけをもって、このようなふるまいを予め基礎づけられている機械はありえない、と断言はできない。だが、こんな機械は、非常に不可思議で、機械としてはほとんどありえないものであろう。生物が一度も出会ったことがない物質から自身を防御するために抗体を生産する例などは、とくにそうである。そんな機械は不可能であり、この<不可能性>こそ、生気論が確立されなくてはならないゆえんである」238頁
「ワイズマン[ヴァイスマン]学説の類の理論は、これらの事実を前に成立しえなくなる。確実に、卵は細胞分割の度ごとに分解されていく機械ではない。というのも、単一の分割細胞から、完全な生物が生まれるからである。これは、現形質と核との関係にも当てはまる。
…胞胚の部分は、ごく無規則に切り刻まれても、常に完全な胚を作り出す。これは、卵割初期の2つや4つの細胞の能力が同じであることを証明するものであり、それは胞胚を形成する千個の細胞の予定可能性が同一である場合にのみ、可能な事態である。ここで、<等能個体発生系>(equipotential ontogenetic system)という表現を、同等の予定可能性、つまり同じ可能な運命をもつ細胞からなる発生現象すべてを指すもの、としよう。かくして胞胚は、つづめて<等能系>(equipotential system)であることになる」243頁
やっとequipotentialに込められた意味がわかりました😅
「卵巣(ovary)は、それぞれの卵が生体を形成する能力がある点で、たしかに『等能』である。だが、卵巣と胞胚とでは、論理的に大きな違いがある。卵巣においては、系の個々の要素が、<それ自身のために同じ複雑な全体>、いわば生体を、同等に作り出す能力をもっている。このケースを、われわれは『複合等能系(complex-equipotential system)』と呼びたい。一方、胞胚の場合、それぞれの要素は同じように、<1つの全体を構成する単一部分の役割を、すべてが>担うことができる。もし胞胚をある方向から切ったとすれば、あらゆる個々の細胞が他の単一の役を担うことになるだろう。必要とされるあらゆる部分になりうるのである。しかも個別のケースごとに、それが正常な場合であれ異常な場合であれ、これを担う細胞は常に<調和>がとれており、それぞれに同等の多大な能力を維持している。このような胞胚を、<調和等能系>(harmonious-equipotential system)と名づけることにする」244頁
社会システム理論の起源はこのあたりにあるような気するなあ
「調和等能系とその分化について語る時、生物学における生気論的概念を支持する最も重要な議論がここに依拠することになる。…調和系は、発生学の領域ならどこでも見られるというわけではない。…
問題はこうである。<何が、等能系の各々の部分について、不均等な運命に導くのか?> 何が、等しい可能性から、同等ではない現実へと変換させるのか? 別の言葉で言えば、形態形成におけるさまざまな特性の<位置づけ(localization)>の問題である。この位置づけの機能はどこから来るのか?
それは、<外部から>来るのではない。その形態形成において、分化の原因となる局所的な外部刺激(exterior stimuli)があったわけではないからである。…
この場合、位置づけ機能は、その系内部における<純粋な化学的過程>を基盤にすることが<できない>。…化学的な分解や純化からは、幾何学的な調整による平衡が起こるだけである。しかし有機体は、幾何学的な調整や、この種の調整の組み合わせではない。また、有機体は多くの器官があり、同じ化学的組成をもっているのに、たとえば脊椎動物の骨をみても、非常に特殊な形をしている。結局、個体発生の純化学的理論は、等能性と矛盾することになり、それを説明できない」244-6頁
「正常な系に存在すると仮定された発生学的な『機械』は、その系の<一部分>にも、他の部分にも、また互いに重なりあう異なった大きさの部分に関しても同様に、完全性が存在することを示すべき義務がある…というのも、この系のあらゆる部分が、大きさと、もとの系との割合の点で、完全なものを生み出しうることを、われわれは知っているからである。系を成すあらゆる細胞は、形態形成におけるすべての個々の役割を担うことができる。この役割は、単に『その位置の関数(a function of its position)』に従うのである。
この事実を前にすれば、発生過程の機械説は矛盾にいきつく。これらの事実は、機械の概念に反する。機械は、諸部分を特殊な形に調整したものであり、そこから、あなたが好きな部分を取り除いてしまえば、元のものではなくなってしまう」247頁
「歴史に関しては、少し確実なことが言える。なぜなら、われわれ自身がその真中に立っているからである。この『中央に立っている』ことが、一面で、真の知識に関して特別で、奇妙な不利益にもつながっていく。われわれは、展開[evolutions]としての歴史の中央に立っている<がゆえに>——かりに歴史が1つの展開であるとして——、われわれはその展開の特徴を明確には評価できないし、将来もできないであろう、とも言えるからである。
…ただし、『歴史』あるいは人間社会には、超個体的な全体性の印象を与える、いくつか重要な特徴がある。その特徴の第1は、繁殖という生物学的事実であり、第2はヴェントの言う『目的の多様性』、すなわち人の行動は個々の行為者の期待とは異なった、いわば創造的な効果をもちうる、という事実である。超個体的存在の第3の特徴は、<道徳性>(morality)、もしくは言葉の最も広い意味での道徳的感情という事実である」205-6頁