大学で新左翼学生運動やったことがアイデンティティの全共闘世代のひとたちがマスコミや文化産業に入って、「俺たちは学生運動やって革命目指して偉かった。でも無駄だった。挫折した。学生運動は無駄。かっこわるい。これからは軽く生きるのがナウい。これからはポストモダン!!」みたいな流れをつくったから、そのあとの世代は、まじめに勉強したり運動したりすることがとてもやりにくくなった。あと、こういう文化産業ヘゲモニーおじさんは、機嫌をとってくれる「全共闘世代偉い」史観の若者を業界に採用しつづけるから、「父よ、あなたはえらかった」みたいな「全共闘は凄い」的な企画がずっと通り続けてる。
ヘゲモニーおじさんたちは自分たちこそ真の左翼で他のはダメ、みたいな妨害もするし、運動も文化産業もめっちゃ衰退化させられた。私は、そういうおじさんたちとそのエピゴーネンに対して、ずっと怒ってる。
社会的な弊害も大きいし。例の早稲田の文芸のセクハラ事件だって、そういうミソジニーおじさんが業界を牛耳ってそこに参入したい若者を手下にしてきた構造を温存してきたから起きてるんだし。
そういう新左翼文化人のミソジニー空間でいっしょにお酒飲んだり、交流を自慢してるひとっていまだにいるけど、自分もいわばホモソ共犯者なのになんで誇らしげなのかな、と思っている。
これ、体感でよくわかる。
いずれ、きっちり言語化する必要がありそう(SNSでは分量的に厳しいかも、だが)。
「早稲田の文芸のセクハラ事件」って渡辺直己だなー。
この時、確かに、「早稲田文学」系の助教か誰かが、「事件のもみ消し」に奔走した、ということだった。
渡辺直己の「盟友」スガ秀美は、「恋愛無罪」と寝言を発信したけれども。あれ、「恋愛」じゃないでしょ。
指導教官が「俺の女になれ」の発言、どこが「恋愛」なの?
この時、SNSで渡辺直己を擁護していた連中も、ほぼ男の蓮実崇拝者(文体で簡単にわかる)だった。
そもそも渡辺直己、スガ秀美が蓮実教信者だった。
渡辺一夫、加藤周一の系譜、阿部良雄、清水徹、鈴木道彦、野沢協(1930生)、大江健三郎(1935生)で完全に切れた。
次が渡辺守章(1933生)、蓮実重彦(1936生)からの世代。
この二人、留学中フランスはアルジェリア独立戦争から直後だったが、その痕跡がまったくない。
守章さんの「パリ感覚」、これ全く「名誉白人」のエッセイ。パリに溢れていた筈の植民地問題には一切言及なし。
アルジェリア独立戦争側にささやかな「協力」をして、フランス警察にリストを作られていた鈴木道彦との違いは、あまりにも大きい。
QT: https://fedibird.com/@chaton14/109824057968020948 [参照]
@yoshiomiyake 私の父親は1936年生まれなのですが、だいぶ前、蓮実が、樺美智子の死をニュースで知った、というようなことをエッセイか何かで書いているのを読んで、あの時あの場にいなかったとは、と呆れていました…。
@sarutora さん、
なるほど。まあ、ご本人もいろいろ都合もあるでしょうから、「あの場」にいない、ということが即、「ダメ」を意味するわけでもないでしょうけれども。
ただ、大江健三郎が書いていたように、デモに行って警官隊の警棒で「頭を割られた」という清水徹(1931生、当時助手)さんとのコントラストははっきりしてますね。
まあ、「あの場」にいた「らしい」吉本隆明のその後の展開を見ると、やはりその後の人生で何を積み重ねていったか、ということが重要な気がします。
しかし、吉本隆明の「転向」、広告産業との相性の良さ、糸井重里などの「追随者」の軌跡、などなど考えると、埴谷雄高は、やっぱり偉かったな、と。
実際、「死霊」、どう見ても世界レベルの作品です。
それに比べて、吉本隆明、江藤淳、はては石原慎太郎まで、あの際、岸に「安保採決強行」に反対していた筈の「文芸批評家」・「作家」のその後はときたら・・・
鈴木道彦はサルトルの影響でアルジェリア民族解放戦線(FLN)に関心を抱くようになり、帰国後在日の問題に関与するようになった。
加藤周一さんの留学時代は1950年代初頭だったが、まだアジア系の留学生がほとんどいなかったこともあり、実は身辺、旅行先まで詳細に警察にリスト化されていた。
夏休みに長期かけて、ロマネスク建築(基本、地方にある)を見て回った時の旅程まで記録されてあった、というから凄い。(これ、当然電子監視下前)。
つまり、当時フランスでも得体の知れない外国人(加藤さんは国費留学生だったけれども)は、「潜在的犯罪者」だった。
フランスは革命の国、政治秩序への同意調達が弱い国ではあるが、反面警察・治安権力は、かなり暴力的。内務省管轄の重火器装備の治安軍もある。
蓮実・渡辺守章以降のフランス学は、こうしたフランスの一面(かなりミクロ)しか導入していない。
これが大衆化すると「おフランス」。
新左翼については、旧左翼との関係、複雑な問題を含む、ここではすべては扱えない。
しかし、「ホモソーシャル」+「ミソジニー」爆発空間であったことは間違いない。
日本のフェミニズムが「新左翼」批判として出発したのは偶然ではないのです。