「テクノロジー教徒」「加速主義者」——私もその一派でした。
私の本業は最新の情報テクノロジーを調べて伝えることでした。ただ、テクノロジーの無邪気な称揚や、「加速主義」一点張りは、ちょと違うかな、というのが今の思いです。
シンギュラリティ論者という連中がいます。AIが進化して、AIをAIが改良して発達するようになると、世界が変わる、現代社会の諸問題など小さな事になる——だからテクノロジーに全振りしようよ、という考え方です。OpenAIのサム・アルトマンもこの立場に近い。
さらに過激な連中は、進化した超AIに自分の魂を「アップロード」して永遠の生命を得ることができる、的な話を本気で信じている節があります。(宗教やSFではなく、今のテクノロジーの延長でできる、という主張です)
ビットコインや暗号通貨の分野も似たところがあって、「自分が支持するテクノロジーさえ普及すれば、後は知らん」といった奢りを感じる場合がある。
しかし、テクノロジーで社会が変わるとして、取り残された人々はどうなるのか。その視点は見過ごされがちです。
テクノロジーに全振りすると、うっかり倫理を逸脱してしまう場合がある。その危ない領域をどう言語化するか。かなり悩みながら取り組んでいます。
QT: https://fedibird.com/@yoshiomiyake/110854916260856167 [参照]
技術そのものには価値判断が付随しないので使う側が倫理を持たないと簡単に邪悪なことになるからかつてGoogleが自ら「Don't be evil」と言ってたのはほんとに重要だと思うのだけど、今はもう捨て去られてしまったのがなあ(一応倫理学を学んだので、技術によって実現可能なことは善と疑わない感じの態度を見るとそれはちょっと……という気分になる)。
QT: https://fedibird.com/@AkioHoshi/110855933794541066 [参照]
たとえば絵を描く人たちがお絵描きAIを歓迎しないことをラッダイトだから顧みる必要はないという意見とか、いやこれまでになかったことが起こってそれまで権利として考えられてなかったものを新しく権利として主張するというのは歴史上もよくあることでは?とか思うし……。ラッダイトな要素が含まれてないとは思わないけど、技術が実現可能にしたことで、合意もしてないのに誰かが踏みつけにされても当然というのはおかしいよね?みたいな。