ベンチに座って日本から持ってきた本を読んでいると従姉妹が「Ate,Umiinom ka ba ng kape? mainit? malamig?」と訊いてくれて、お願いしますが出てこなかったので「Malamig please」と答えて手を合わせる。ください・お願いしますはpakiusapだ。用意してもらったアイスカフェオレは日本から持ってきたインスタントだけど、特別美味しい気がするのはわたしの為に従姉妹が包丁で叩き割ってくれた氷のお陰もあるだろうな。
昔この歳下の従姉妹と一緒に庭でバケツに色んな洗剤を混ぜて遊んでいたところ、母とおばにド叱られたのをついでに思い出す。無邪気になんつう危険な遊びを……
車とバス移動ばかりだけど昨日トライシクルは乗ったしフィリピンといえばジプニー。
まともな写真撮れたら載せ直すね。
でもジプニーの始まりはさっき調べるまで知らなかった。
>ジプニーは第二次世界大戦後に誕生しました。
>戦時中までのフィリピンの交通手段は路面電車とケーブルカーが主でしたが、戦争によって街は壊滅状態に陥り、頼りにしていた路面電車などは使えなくなってしまいます。
>しかし、そんな状況でもフィリピン人はひらめきました。「そうだ、アメリカ軍が置いていったJeep(ジープ)を使えばいいじゃないか!」と。
>終戦後、アメリカ軍はフィリピンから引き上げる際に多くのジープをその場に残していきました。
>その後は乗り合いバスとして乗客を乗せるために内装を改造し、周りとの差をつけるため各オーナーがデザインにこだわり、現在の派手なジプニーが誕生しました。
>ちなみに「ジプニー」という名前は車の名前のJeepと小型乗り合いバスを意味するJitneyを合わせたものです。
(引用:https://daredemohero.com/39592/)
親戚宅に帰ろうとジプニーに乗っている時隣のおばが「子どもが居るからね」と運転手に知らせていて、何かと思ってジプニーの乗降口を見ると大体九歳前後の背丈に見える子どもがこちらに背を向けて座っていた。客ではなくストリートキッズの類だとわたしにもすぐ分かった。
子どもはそのまま大きな、あどけない声で何かを言い、明るい歌を歌い、立ち上がってジプニーの客に手を出してみせた。何を言っているのか歌っているのか、手を差し出しながらの「kuya,ate,Penge ng pera」(お兄さん、お姉さん、お金をちょうだい)以外何も聞き取れなくて、お金を持たされていないわたしは咄嗟に俯くしかなかった。
おばを含めた何人かのお客さんがコインを渡しているのと、子どもが着ている水色の花柄のワンピースから覗く脚の、ふとももの裏に500円玉くらいの大きな瘡蓋があるのが見えた。
子どもが乗降口に戻ってもジプニーは止まらないまま、おばが「下ろしてあげてよ」と運転手に言っているのが分かったけどしばらく進み続けて、子どもが元来たところに戻れなくならないかどうか考えている内に信号待ちになって、子どもは居なくなっていた。
日本に帰りたい。ここでは駄目だ。日本でなら自分の不幸をもっと堂々と嘆いていられる、と思った。
いくらフィリピンでも一月に三十度は暑すぎる。
そんな中で知らんお姉さんと知らんおじさんの体温を左右に感じながら、片手は頭上のバーを掴んでもう片手で自分のショルダーバッグを押さえて、汗と香水と排気ガスと屋台の食べ物とドブなどの混ざった匂いを吸いながら、何度か止まるジープを運転手が座ったままペンチ片手にアクセル・ブレーキのあたりを弄ったりボトル片手にボンネットを開けて何かするのを見ながらジプニーを二台乗り継いで親戚宅に帰ったが、マジできつい……と思った。
あんまり暑くて汗が噴き出るもののタオルを忘れてしまったのでティッシュに汗を吸わせているとティッシュが一部黒くなっていて、これはと思ってこっそり鼻の穴の中を拭ったら思った通り黒く汚れていた。マスクを着用すべきだったなと後悔。
これはフィリピンで「健康な無職」と書かれたTシャツを着て海辺のブランコを楽しそうにこいでいるわたし