コロンブスの表象に対する批判で「歴史を少しでも学べばこんなことにはならない」というものがあるけど、むしろ「少しだけ」学んだからこそこうなるんだと思います。植民地支配とか国家権力による暴力とかについては言及されないまま、あるいはある種の「偉業」として紹介されるため、言ってしまえば「なんかすごい人」という認識にしかならないわけです。江戸幕府のさまざまな政策が「260年もの平和な時代を築いた」ものとして肯定的に(少なくとも民衆に対する横暴な支配として批判はされないまま)教えられるのが、ほとんどの学校教育の環境なはずなので。

「コロンブスは新大陸を見つけたすごい人」という認識が世間一般のスタンダードであり、それが植民地支配や先住民の絶滅に関係する事柄であるという認識を持っているのは、極々少数でしかない。ソースは私。私は法政大学を出ているある程度の知的エリートだけど、修士に進まなければ前者の認識でとまっていたので。同期の多くは植民地支配という言葉は知っているかもしれないが、それが意味する「重さ」については知らないだろう。

当然、日本が植民地支配のど真ん中を猛進してきたこと、いまもその気質を失っていないことも、同期の多くは気がついていないだろう。戦争を起こし、隣国を支配してきたという歴史的事実は知っている。しかしそれが意味することは理解していない。

バンドメンバー代表の謝罪文みたいなもの、まさに上述したことの典型だと思いますね。96年生まれでだいたい同世代。これがいまの30歳前後(およびそれ以下)の標準的理解度だと思ったほうがいいです。つまり、大事なのはこの状況からどう教育していくか、理科させていくかなわけで、憤懣やるかたないが、小学生の社会科の授業のようなレベルからやらねばならないわけです。「こんなのもわからないのか」なんて態度を見せたらそこで終わりです。問われているのは、むしろ我々「大人」「知っている者」の忍耐力だったりします。

当然、この教育係を受け持つのはマジョリティというか強者というか、とにかく「余裕のある状況」にある者の務めである。でもTwitterではそういう者らも怒りに任せてぶちまけてしまうから、「子ども」は嫌がり聞く耳をもたなくなる。残念ながらそういう「強い言葉/態度」で発せられる投稿にはいいねやらなんやらがつきやすいので、発している者も気持ちよくなってしまう。インプレッションに踊らされているのはリベラルや人権派と呼ばれる者らも同じだったりする。

目的は「差別や支配による被害がなくなること」であって「差別や支配を(自覚無自覚問わず)やらかしている者をぶちのめす(ことで快感を得る)こと」ではないのだけど、細心の注意を払っていないと後者になってしまう。知的遊戯のお披露目会になってはならない。

「なぜその表現や態度がよろしくないのか」を理解させて、今後同様のことが生じないようにするのが目的なはずなのに、なぜか「お前は無知で馬鹿でクズでどうしようもない奴だ(それに引き換え自分は......)」という他罰と自尊がごちゃ混ぜになった投稿をすることで満足してしまい、本来の目的から離れていってしまう。そんな事象がTwitterを筆頭としたSNSでは常に起きている。

悪意を持って故意におこなう差別と、知識がなかったり無自覚だったりで生じてしまう差別では、それをやらかしてしまった者への対応の仕方も変えなくちゃいけないはず。でも前者に対する強気な対応のほうが「ウケる」から、後者に対してもそのように対応してしまう。だから嫌われるし、学んでもらえない。勉強ができない(から嫌いになってしまった)者は、勉強ができる(から好きになれている)者から言われる「なんで勉強しないの?/やれば楽しいよ/こんなのもわからないの?」ほどムカつくものはないが、勉強ができる者はそのことに気がついていない。これと似ていると思う。

「どのような景色を見ているのか」を考えて、その景色を可能なかぎり共有したうえで接する必要がある、ということ。小学校の算数がわからない者に、高校の数学を「こんなの簡単だよ」「なんでできないの」「やれば楽しいのに」などと言っても変わらないどころか、むしろいままで以上に遠ざけることになる。まずは「どの時点でつまずいているのか」を確認すること。そしてなによりも「わからない/できないと辛い」という気持ちを受けとめること。そこでやっと「この人の言うことなら聞いてもいい/理解できるようになる気がする」と思えるようになる。これがわからない教師は多い。なぜなら自分が「苦もなくやれちゃう」側だから。

差別のこととか政治のこととかに真剣に関わっている者も、かつては「小学校の算数」すらわからなかった時期があるはずなのに、いつのまにかそれを忘れてしまう。勉強ができるようになるかならないかは、本人の資質よりも「出会えた教師の良し悪し」のほうが影響力としては大きい。つまり我々は「良い先生」にならねばならないわけで、それはできないことを頭ごなしに怒る先生ではない。

良い先生が増えなければ勉強ができる/好きな者は増えないのだけど、先生本人が自分は良い先生だと思っていることが多いから、ことはそう簡単ではない。でもその教え方は「すでに勉強ができる/好きになれている」者だけが理解できるもので、そうではない者にとっては苦痛なものだったりするのだけど、まさにそのことこそ「できる/好きになれている」者である先生自身が気がつけないことだったりする。

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私は東海大の附属高校に通っていて、そこは実質的になんもしなくても大学に行けるので、他大学受験する者以外はほとんど「勉強ができない/嫌い」な者だった。そんな学校で好まれるのは、そういった「できない」側の気持ちを理解してそれに合わせた指導をする先生であり、そういう先生のもとで教わった生徒のほうがテストの点数も高かったりする。逆に、非常勤講師とかでこの高校のレベルを知らない先生は、ハイレベルな授業をしてしまうがゆえに「授業を聞いてもらえない」状況を招いていた。つまり、教える側のエゴが優先されるのはよろしくないということ。言うは易し行うは難し、なのだけど。

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