「どのような景色を見ているのか」を考えて、その景色を可能なかぎり共有したうえで接する必要がある、ということ。小学校の算数がわからない者に、高校の数学を「こんなの簡単だよ」「なんでできないの」「やれば楽しいのに」などと言っても変わらないどころか、むしろいままで以上に遠ざけることになる。まずは「どの時点でつまずいているのか」を確認すること。そしてなによりも「わからない/できないと辛い」という気持ちを受けとめること。そこでやっと「この人の言うことなら聞いてもいい/理解できるようになる気がする」と思えるようになる。これがわからない教師は多い。なぜなら自分が「苦もなくやれちゃう」側だから。
差別のこととか政治のこととかに真剣に関わっている者も、かつては「小学校の算数」すらわからなかった時期があるはずなのに、いつのまにかそれを忘れてしまう。勉強ができるようになるかならないかは、本人の資質よりも「出会えた教師の良し悪し」のほうが影響力としては大きい。つまり我々は「良い先生」にならねばならないわけで、それはできないことを頭ごなしに怒る先生ではない。