本屋lighthouseはチェーン店的なありかたではないので、いわゆる一般的な電話営業をされてもお互いにいいことがないので番号は公開してないのだけど、どうしてもどこかからか情報は漏れるのでかかってきてしまう。だからそういうときはメール送ってくださいと頼み、だいたいその日のうちにメールが届くんだけど、時折そのままなにも送られてこないことがある。この場合、その営業はチェーン店相手のやり口(=返品できることを前提とした「とりあえず仕入れてもらう」営業スタイル)で発注させようとしていたのだろう、ということが推測でき、残念ながら信頼度合いは急落する。今日は中央公論新社だった。
「とりあえずで仕入れる(売れなかったら返品する)」的なスタイルとは真逆のことやってる店にこういう雑な営業かましちゃうの、相当失礼な振る舞いなんだけど、雑な営業しちゃうような担当だから、そんなことはまったく想像もできないんだろうな。
そもそも、チェーン店相手だとしても電話営業というのはもう雑すぎるんですけどね。電話口で本の紹介されてもまともに検討なんかできないので。でもそれが昔はスタンダードだった。FAXが登場したらそれが主流になったけど、それでもまだ電話営業は主流のひとつだった。本屋が本のことをちゃんと理解しているなんてのは幻想です。ほとんどの本屋は、本になにが書いてあるかなんかわからずに本を置いています。だからヘイト本がふつうに置いてあるんです。あれは往々にして「そもそもなんの本かすらわかってない」から置いてある。そういう状況の土台を作っているもののひとつが、この電話営業(=売れなきゃ返品していいからとりあえず発注してくれない?)です。
本のことがわからなくても本屋ができる。これが返品を前提とした取次流通=配本制度の最大のメリットであり、かつ最悪のデメリットになっている。メリットは本屋が簡単にできること(正確には「できた」という過去形だけど)。デメリットは社会全体に多大なる悪影響を与えていること。だから、正直言うと取次流通制度は壊れたほうがいいと思っている。つまり出版業界は崩壊したほうがいいということ。
どうせ本なんかほとんどの人間は読まない。当然、ほとんどの人間は作りもしない。希望的観測にすぎるかもしれないが、ビジネスにならないにもかかわらずそれでも本を作りたいのだ、という作り手のみが本を作れる状況になったほうが、長期的には良い方向に転がるのではないかと思ってしまう。配本制度がある以上、自転車操業で「売上」は立ってしまう。だからいかに本が売れないとはいえ、ビジネスはできてしまう。だから作られてしまう本がある。そして本は読まれなくても、そこにあるだけで社会に対して主張をしてしまう。店頭に置かれればそれは世の中への主張となり、それを目にした者は本というものの持つ権威性によってそれを肯定的に受け取ってしまう。本を読まない者もまた、いや読まないからこそ無自覚にそれを受け入れている。
政治や社会のことなんか関心ないにもかかわらず思想や言動が極右的なものになっている人間がいたりするのは、そういう無自覚な接種が積もり積もってのものなのだと思う。本、ネット、テレビ。とにかく、人は関心のない物事こそ「無条件に肯定的に受け入れ、その後検討もしないまま」になる。
そしてこの「無条件に肯定的に受け入れ、その後検討もしないまま」でいるのは本屋も同じである。ほとんどの本屋が「その本がなにを主張しているのかわからないまま本を置いている」というのはそういうことだ。
たとえば野球に興味のない者は「千葉ロッテマリーンズの本拠地は市川市である」という情報を目にしたら、それをそのまま受け入れて、そのあとなにかのきっかけがなければそれがまちがっているということに気がつかない。これと同じことが本屋店頭では常に起きている。本屋も客も、本のタイトルが主張していることをそのまま受け入れて、そのあとなにもしない。
本屋はなにもわかっていない。偉そうなことを言っている私もまたなにもわかっていない。にもかかわらず、人は本屋を信用している。ゆえに、ヘイトや差別や政治のことに関心のない者ほど、本屋にある本はすべて信用に足るものだと思っている。この最悪なギャップを解消するには、取次流通が崩壊して配本と返品に頼ったやりかたをしている本屋と版元がいなくなるのが手っ取り早い。ただ、手っ取り早いやりかたが適切かどうかはわからない。だから嫌になる。
また極論を言ってしまうが、メディア的な物事が「儲かるもの」として認識されてしまうこと自体がよろしくないのではないかと思う。ヘイト本も儲かるから作ってる版元がある。フェイクニュースもアクセス数稼げる=儲かるからやってる者がいる。知識人とやらが気づくとなぜか権力に迎合していくのもそれが金になるからなのでしょう?じゃあどうすればいいのか、となるとまったく道が見えないので嫌になるのだけど。
たとえば斉藤幸平がわけわからん本の帯に推薦文寄せちゃったりした(指摘されて取り下げた)のも、金になる木だと思って近寄ってきた愚かな人間を拒絶できなかったからでしょう?あるいは拒絶できない程度には最初からそういう人間だったか。いずれにせよ、幻冬舎編集の箕輪とSNS上で交流しちゃうような時点で迂闊なことに変わりはないのだけど、そういう粗雑さに対して厳しく判断できる本屋にならないとあかんな、とあらためて自戒している。売れる著者、いいこと言ってる知識人だからといって安易に信用して仕入れない。そしてこれはキャンセルカルチャー的なものとは異なる次元の話だと思う。まだうまく言語化できてないけど。
瑕疵がひとつでもある本は仕入れない、というような安易な拒絶ではない。その瑕疵を批評的な観点から言及したうえで本を仕入れ、読んでもらう、というようなことができれば最高だとは思う。ただ、それをすべての本で完璧にできるわけではない。となると、そういう姿勢で本を読める読者をお客さんにしていく、それができるお客さんを増やしていく、ということが必要になる。だからやっぱり本屋と客は対等な存在であるべきだし、一緒に高みを目指していきましょう、ということになる。そしてそれは儲からない。そんな面倒な営みをして儲けたいと思う者もいない。
もう誰か油田くれねえかな、とか思うんだけど、そうやって金を持つと人は腐り始めるから私も例に漏れずクソな本屋に成り果てていくんだろうし、ユートピアとはやはりどこにもない場所なのだな、という結論になる。
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どうせ本なんかほとんどの人間は読まない。当然、ほとんどの人間は作りもしない。希望的観測にすぎるかもしれないが、ビジネスにならないにもかかわらずそれでも本を作りたいのだ、という作り手のみが本を作れる状況になったほうが、長期的には良い方向に転がるのではないかと思ってしまう。配本制度がある以上、自転車操業で「売上」は立ってしまう。だからいかに本が売れないとはいえ、ビジネスはできてしまう。だから作られてしまう本がある。そして本は読まれなくても、そこにあるだけで社会に対して主張をしてしまう。店頭に置かれればそれは世の中への主張となり、それを目にした者は本というものの持つ権威性によってそれを肯定的に受け取ってしまう。本を読まない者もまた、いや読まないからこそ無自覚にそれを受け入れている。