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(承前)「したがって平等主義核家族地帯と同じく絶対核家族地帯において、家族の核家族としての完璧性と農地の集中との間の連合が見出されるのは、意外なことではない。とはいえ大規模農業経営と核家族との相互補完性を強調するからといって、経済的決定の観念に賛同していることには、いささかもならない。農地の集中はたいていの場合、経済的近代化の過程の結果として出現するのではなく、ひじょうに古いかもしれず、もしかしたら社会が成立したとき以来であるかもしれない歴史に由来する構造的要素として姿を見せるのである。このことは、カウツキーが気付いたことであったが、マルクスはそれに気付かなかった。私は『新ヨーロッパ大全』で、中世の大領地と近代の大規模経営との間に存在する連続性を分析した。…
 …イングランドのケースでは、17、18世紀のエンクロージャーの動きが、貧しい農民が持つ共同体内の権利を清算することによって、それまでにすでに二極化していた農村の形態を完成させた。しかしエンクロージャーの分布図それ自体、中世の大領地の分布図と合致していたのである」550-1頁

「〈ル・プレイの類型以外の類型〉
 これまでに記述された3つの家族類型(平等主義核家族、直系家族、絶対核家族)は、共通して高レベルの形式化に達している。これらの家族類型を構造化しているのは、核家族性か同居か、平等か不平等か、それとも遺言を行なう絶対的自由か、といった規則である。ル・プレイは、これらの規範を特定することによって、自分の類型体系を築き上げることができた。しかしまぎれもない周縁部的な古代的形態(アルカイズム)の保存庫にほかならないヨーロッパは、ル・プレイによってリストアップされていない形態を観察することもまた可能にしてくれる。…昔のシステムの残滓を見いだすのは、周縁地域の保守性という分析観点からすればまったく正常なことなのである」553-4頁

「〈フランス西部の謎〉
 家族システムを研究して40年になる現在、フランスの西部は私にとって、結局はいくつもの大きな誤りと不断の当惑の場所であったということになるだろうと、私は思っている。誤りの方はどちらかと言えばブルトン語使用のブルターニュに関わり、当惑の方は西部内陸部ならびに昔のポワトゥー州、つまりヴァンデ県を含むポワトゥー州に関わるものであった」566頁

「<3. ポワトゥー州とヴァンデ県>
 …彼[アラン・ガベ]はこの曖昧な様態に名称を与えるために、私が東南アジアならびにアンデス山脈のインディオ・システムを記述するために『第三惑星』で利用していた類型体系を継承して、『アノミー的家族』と呼んでいる。
 『アノミー的』という用語は、デュルケム以来、存在していたとされる諸規則の消滅を喚起していた。私としては今では、この規則の不在は、むしろより古い家族形態の残滓であると考えることになろう。
 …その地の支配的家族類型は核家族であったが、それにもかかわらず、一時的同居という現象と曖昧な遺産相続実践が排除されることはなかった」574頁

「一時的同居あるいは未分化の親族集団内に組み込まれた核家族が検出できる地域を枚挙してみて驚くのは、そのリストには歴史的、民族的あるいは言語的に古典的な何らかの集団への参照を必要とするものは含まれていないということである。ヨーロッパの中のケルト部分、ゲルマン部分、ラテン部分、スラヴ部分に属する実例が仲良く混じり合い、それにラップ人やタヴァスティア州のフィンランド人といった、非インド・ヨーロッパ語系民族も顔を出す。これが人類の古い昔の共通の基底から出自する諸形態の残滓であるとする仮説を受け入れるならば、このことに驚く理由はいささかもないのである」576頁

「いずれにせよ、子供をあまり登録しない社会では、世帯の平均サイズというものには、実質的に意味はないのである。そこから西欧全体で家族は核家族であったという命題を演繹することはできない。だからといって、ある特定の地域で、核家族仮説がこのきわめて古い時代に関して妥当であることを認めないとしたら、今度は逆に不条理である」582頁

「最も古い人類学的基底に関しては、データに現われる痕跡を検討するなら、相続慣行を通して、広大な親族集団を観察することもできるし、時には核家族的形態に到達することもできる。ただしいかなる地域についても完全な一覧表を手に入れることができるわけではない。確実なことは、ヨーロッパ大陸の西部の最も遠い過去を探っても、長子相続を伴う直系家族システムなり、共同体家族システムなりの痕跡をどこにも見つけることはできないということである。現存する稀少な情報源は、核家族で未分化の共通の基底という仮説をさらに強固なものにしてくれる」583頁

「ノルマン人の拡大によって、長子相続制は海を越えて各地へと伝播することになったが、とはいえそうして伝播した国々で、長子相続は元々の形態のままで生き残ることは、決してなかった。典型的な例がイングランドで、1066年という、やがて有名になる年に行なわれたノルマン人による最初の征服によって征服されたこの国がどうなったかは、周知の通りである。
 ノルマンディでは、中世において貴族の直系家族の最も見事な具体化の1つが、総領制(parage)の理論によって形を整えることになった。総領制とは、宗主に対する封建的義務について長男を弟たち全員の分まで責任を負う者と指名する。弟たちは、土地と城館を保持したが、それでも跡取りに指名された息子の権威から逃れることはできなかった。このようなシステムは、長子相続の厳格性と柔軟な血統の横への拡大とを組み合わせるものであった」605頁

「ジョージ・ホーマンズ…は、13世紀のイングランド農民に関するその古典的な著作の中で、遺産相続慣習を研究している。彼は長子相続地帯と末子相続地帯を系統的に分けようとはしないで、まずこの2つの遺産相続様式は、微細なレベルで混ざり合っていると示唆する。…
 これとは逆に、土地の分割可能性地域は、ホーマンズによって同質的で、それゆえに周縁部的な地帯として明快に定義されている。…
 遺産相続規則についての彼の議論は、基本的には、各地域に定着した住民集団の民族的起源に関する、その当時めぐらされた思弁を採用したものである。…しかしもし、イングランドにおける長子相続地帯と分割可能性地帯の分布を、民族的起源に関するあらゆる予断を忘れて、全体的に眺めてみると、長子相続が中心部に位置し、分割可能性が東と西の周縁部に分布していることを見て取ることができる。長子相続制の規則が理論上の中心から発して周囲に押し付けられていったことが想像できる…中世イングランドの周縁部の検討は、長子相続の押し付けの試み以前のイングランド全域の姿を蘇らせることになるかもしれないのである」606-8頁

「〈直系家族概念の成功と挫折 農地制度による説明〉
 …なぜヨーロッパ大陸の特定の地域で、ついには直系家族という概念が農民層に広がり、貴族のものよりもさらに厳格に農民の家族生活を構造化するに至ったのか…自ら望んでか、強制的であるかにかかわらず、農民たちによる長子相続の採用は、より稠密な家族形態をもたらすことになるのである。ただ1つの農地について、ただ1人の子供への分割なき移譲は、世代間の緊密な同居へと向かう可能性がある。…
 …長子相続という理想の導入以前に、複数のはっきり異なった農地システムが存在していた…農地の経営で家族経営が多数派であったところでは、直系家族システムは調整に便利で、問題が起こった場合の解決策として提出されていた。中規模農地からなる、住民が充満した世界では、子供たちの転出の可能性が底をつけば、長子への不分割相続が横行する可能性があった。領主の大荘園が耕作空間の大部分を占めていたところでは、不分割のメカニズムは農村部のきわめて少数の上層カテゴリーにとってしか意味かなかった」609頁

「ヨーロッパの直系家族の出現が、比較的最近の局面においてきわめて漸進的に進行した…ディオニジ・アルベラは、アルプス山脈南部では、直系家族が定着し始めるのは17世紀以降に過ぎないとしている。…直系家族の確立は、10世紀末に始まり、ほぼ千年に及ぶわけである。しかし直系家族の革新の重要性は、この革新が定着に成功した領域の範囲を越えている。この革新の適用が社会を征服することに挫折したところにおいて、この適用は、純粋な核家族システムの再浮上もしくは出現を促進させることになったのである」614頁

「〈純粋な核家族システムの出現〉
 イングランド(あるいはデンマークもしくはオランダ)の絶対核家族、ならびにフランス(あるいはカスティーリャもしくは南イタリア)の平等主義核家族は、ユーラシアという塊の周縁部に位置し、核家族性および親族システムの未分化という基本的な古代的(アルカイック)特徴を保存してはいるが、歴史的変遷の結果として単純化され練り上げられた形態である。われわれは中世から始めて、これらの核家族の出現を理解しなければならない。この時代に関しては…未分化の親族集団の中に包含された、近接居住もしくは同居を伴う核家族という仮説を受け入れることができる。農地制度の構造が基本的な説明要因となる」614-5頁

「〈平等主義核家族の再浮上 ローマの痕跡〉
 平等主義核家族がまるまるかつてのローマ帝国の空間の中にすっぽりと収まる…
 後期ローマ帝国の家族はそれ自体が、都市部では平等主義核家族の言わば原型であった。ローマ帝国のかつての版図には、平等主義的価値の文化的持続を想定しなければならない。それは都市システムの名残、大荘園、ブドウ栽培などに付着して、各地に拡散していた。…
 貨幣経済への回帰、都市の再生、大規模農業経営——ならびにそれに対応する労働者——の再確立が、ローマの平等主義の残滓と組み合わされて、平等主義核家族の台頭を担保した。それは時とともに系統的に強化されていったと考えることができる。
 長子相続制という徹底的な不平等主義概念が社会の上層階層に定着したことは、その反動で、住民の中の被支配的部分に平等という反対概念が明確化するのを促進することにもなり得た。…
 とはいえ…あまりにも静態的な、言ってみれば構造主義的な見方を導くことになってはならない。…フランス革命以前には、個人主義的・平等主義的な家族は、模倣に値する上流階級に担われた威信あるモデルではなかった。したがって平等主義核家族が占める空間の増大の可能性は、農民共同体とその拡大というレベルで探求しなければならないのである」616-7頁

「〈イングランド的家族の創出〉…
 遺言の自由な行使は、親族のいかなる統制からも解放するがゆえに絶対核家族の根本的要素であるが、とはいえこれの起源は、いつともしれぬ太古の昔に遡るわけではない。…中世の終わり頃には、家族というものが己の法的自由を回復しようと努力していたことが感知される。ヘンリー8世…から、遺言の自由が肯定されるようになる。1540年には、『従軍』義務が課せられている農地(封土)の3分の2とそれ以外の土地全部を自由に処分することが可能になる。革命下にあって、従軍義務のある保有地は明らかに時代遅れのものとなり、長期議会は1645年に遺言の完全な自由を確立する。…したがって遺言の自由は、比較的近年の歴史の生産物なのである」619頁

「〈直系家族と国家の誕生〉
 ル・プレイの家族システム(平等主義核家族、絶対核家族、直系家族)は、歴史によって伝統的に認められた政治的空間の中で、形をとった。パリ盆地、カスティーリャ、中部ポルトガルという平等主義核家族地域の中心部では、国家が発展した。これには南イタリアも加えることができる。イタリア半島の中でただ1つ、中世に重要な領域国家、ナポリ王国が出現した地域である。さらにまた、イングランド、デンマーク、そしてオランダでも、絶対核家族は、単一の民族国家というものの歴史の枠内に収まるのである。ドイツあるいはイベリア半島・オクシタニアにおける直系家族は、これよりやや複雑である。この場合に成立する対応関係とは、早熟で、しかも流産した国家の歴史との対応関係である。つまり、中世の頃から始まって、やがて統一化的国家の台頭へと至るということがなく、小サイズの諸国家が存続するままにしたという意味で、流産した歴史なのである」620-1頁

ナポリ王国はヴァイキングが侵略して建設したもののはずだが…

「ヨーロッパ諸国家の誕生と直系家族の結びつき…長子相続は10世紀末に、国家の不分割の道具として台頭した。そして国家はますます民族と合致しなければならなくなる。直系家族は権威と不平等を組み合わせたものだが、この2つの価値は本質的官僚的な価値であり、また連続性という直系家族の理想は、近代国家へと向かう通路の1つであった。時として直系家族は農民層の中に定着し、そのようにして人類学的基底を構成するものになったのである。そこで歴史が示唆しているのは、直系家族が民衆の間であまりにも成功したところ、つまりドイツやイベリア半島・オクシタニア空間においては、国家は領土の面では拡大することを止めた、まるで不分割原則が小国家の非集合原則によって補完されたかのように、ということである。ところで農民の直系家族が、たいていの場合に表明している理想とは、複数の農園は集められて1つになってはならず、長男は跡取りの長女と決して結婚してはならない、というものである。その後、国家の開花は、まずはイングランドおよび北フランスを手始めとして、核家族の空間内で起こった。しかし絶対核家族と平等主義核家族は、部分的には、当初は国家の誕生に貢献していた直系家族に対する反動として誕生したのである」621頁

観念的な議論で感心せぬなあ…

「本書で提案されている家族システムの分析と説明は、フレデリック・ル・プレイにによって練り上げられた類型体系を著しく相対化している。しかし逆説的に、彼の好む類型である直系家族の、西および中央ヨーロッパの歴史の中における重要性を増大させることになってしまう。純粋な核家族類型の出現は、最終的な分析では、直系家族の出現に結びついたものとして姿を現わすからである。絶対核家族は部分的には、同居と不分割という直系家族的原則に対する反動であり、平等主義核家族は同居と不平等という直系家族的原則に対する反動であった。もちろん純粋な核家族類型が否定によって形成されて行くメカニズムという仮説を拒否することもできる。しかしその場合であっても、平等主義核家族と絶対核家族という家族類型によって最終的に占められる空間は、中世においては、上流社会階層の中での長子相続と直系家族という一般的な問題系によって表面が覆われていたことを認めなければならない。直系家族、平等主義核家族、絶対核家族が全部合わさって、直系家族的概念空間とも呼ぶことができるものを形作るのである」622頁

「非ル・プレイ的類型(双処居住共同体家族と一時的同居を伴う核家族)の出現時期…これらの家族類型は、大陸の周縁部と統一化的文明との縁辺に位置するが、そこから、これらが古代的(アルカイック)要素を含んでいるはずであることが明らかになった。…15世紀の資料を検討すると、一時的同居を伴う核家族だけが真に古いものとみなされ得ること、双処居住共同体家族は、その構造にいくつかの古代的(アルカイック)要素があるものの、いずれにせよ時代が下ってからの革新であったということが、示唆されることになるのである」622頁

「中世の秋とは、家族システムが最終的に結晶化する時期ということになるだろう。イングランドの家族は、純化された核家族性に向かうその動きを始める。直系家族は現実的にフランス南西部およびゲルマン空間の特徴となって行き、平等主義核家族はパリ盆地の特徴となって行く。ショックと不安によって、住民は台頭しつつある構造を強調するように仕向けられる。この時期になると、人口圧力という概念はもはや通用しなくなる。人口密度が低下しても、直系型の家族構造が後退することには繋がらない。むしろその逆である」623頁

「〈最も古代的(アルカイック)な形態 一時的同居を伴う核家族〉…
 直系家族の概念に〔直接間接に〕支配される空間の外にある他のすべての地域では、一時的同居を伴う核家族が見出される。これについては、変動の年代を確定しなければならない必要などもはやない。何しろ、それは家族の起源的形態であり、変化があったとしても、それは時として末子相続として形式化されることがあったかどうか、というだけの話だからである」625頁

「20世紀、19世紀ないし18世紀に収集された統計データは、ヨーロッパにおける本イトコ同士の婚姻率は、全般的に1%以下であることを明らかにしている。中国の8から10%、日本の7%よりもはるかに低い」630頁

「東ヨーロッパに戻るなら、ロシアでは、外婚が全く同じように支配的であり、イトコ婚は例外とみなされていることが分かる」631頁

「ローマ人も外婚であった。これは、本来なら一言触れるだけで済む話だったのだが、ジャック・グッディーが、ローマはもともと内婚制だったが、後に教会によって外婚に転換させられたという説を案出したいという欲求にかられてしまったために、ことは厄介になった。…ブレント・ショーとリチャード・サラー…2人は、ローマではイトコ婚は形式的には禁止されていなかったが、滅多に実践されなかったと指摘している。…おそらく外婚制は、レヴィ=ストロースが考えていたのとは逆に、文化的なものというよりも自然的なものであり、それゆえ文言化される必要がないのである」633-4頁

「ショーとサラーは、きわめて重要な証言を見つけ出した。聖アウグスティヌスが『神の国』の中で次のように述べているのである。すなわち、イトコ同士の婚姻は、法律が認可している場合でも、稀である。このことは、教会がこの問題に興味を抱き、婚姻の禁止をはるか遠くの親等の親族にまで広げる以前にも、同様であった、と。聖アウグスティヌスは、その際ついでに、外婚制についてまことに見事な社会学的正当化を提案している。彼によれば、これは人々の間、集団の間につながりを広げる、というのである。実際、ローマの拡大と征服された民族の同化は、もともと外婚への強い性向がなかったら、想像することができないであろう。家族内婚と外からの妻の獲得を組み合わせることを可能にするのは、一夫多妻制のみであったろう。しかしローマ人は…きわめて明示的に一夫一婦の徒であった」634頁

「データは、もともとは外婚制であったギリシャは、民主制の開花の時代に都市国家内の内婚へと移行したこと、また当該諸都市国家は、アテネのように民主主義を志向するか、スパルタのように寡頭制を志向していたことを、示唆している。このように後天的な内婚制は、東南アジアないしは日本におけるように、王侯ないし上層階級に固着することはなく、むしろ市民集団の中に固着する。しかしまたそれは、ロバート・ローウィが『一門の誇り』と呼んでいたものに支配されることにもなるのである」636頁

「内婚は現実に存在したが、統計的には微弱であり、それは己の歴史的特異性を自覚し、外に向かって自らを閉ざした集団によって獲得されたものであるという結論に達する。これはすでに日本のケースですでに[ママ]喚起した結論に他ならない。
 東南アジアもさることながら、ヨーロッパには、核家族と、双方制が優越する親族システムと、4つのタイプの本イトコとの婚姻の禁止に対応する外婚制という3つの要素が見出される。交叉イトコ婚は、フィリピンでもそうだが、ヨーロッパには存在しない。ヨーロッパ大陸の中央部および西部における父方居住直系家族形態の出現、東部における父方居住共同体家族の出現は、親族用語にも、外婚制にも何らかの変更を強いることにはならなかったようである。親族用語は、ヨーロッパ中どこでも双方的なままに留まっており、外婚制もやはり双方のままである。父系制のロシア人でさえ、常にこのモデルに従っている。四方外婚の放棄の唯一証明されたケースである古代ギリシャのケースは、父系変動の影響をすでに受けていたシステム、それゆえ起源的基底から遠く離れたシステムに相当している。ギリシャの内婚は、ひとたびヨーロッパから姿を消してしまったのち、他の地[中東]できわめて見事な拡大領土を見出すことになった」637頁

「〈人類学のアラブ問題 父系内婚制〉…
 …レヴィ=ストロースは、以下のように述べている。

 親族の問題の研究が、民族学研究の中で第一級の地位を占めて間もなく1世紀になろうとしているのは事実であるが(…)それにもかかわらず、われわれの思索と研究のなかには、言わば保留領域、私としてはほとんどタブーと言いたいような領域が存在する。それはまさしくイスラム社会における親族の問題と婚姻の問題からなる領域なのである。[”Entretiens interdisciplinaires sur les sociétés musulmanes,” 1959, p.13.]

 レヴィ=ストロースにとって、所謂『アラブ風』婚姻、すなわち父方平行イトコ婚は、彼個人に関わる問題である。この選好婚の存在のみが、そして旧世界の中央部空間へのその伝播普及が、もう1つのイトコ、すなわち母方交叉イトコとの選好婚に固着した彼自身の考察を、相対化してしまうのである」648頁

ノエル・クールソン「拡大家族あるいは部族集団の概念に立脚しているスンニ派の法とは反対に、シーア派の法は、家族集団というもののより限定された考え方、すなわち両親とその直接の子孫〔子ども〕を含む家族集団という核家族的な考え方に立脚している」659頁
↑ N. J. Coulson (1971), Succession in the Muslim Family, Cambridge University Press, p.108.

「〈共同体主義と核家族性〉
 この地域[中東]に支配的な2つの家族形態、いずれも父方居住の、共同体家族と一時的同居もしくは近接居住を伴う核家族との、中東の空間における分布の仕方は単純ではない。複雑に混ざりあっているのである。とはいえ、分布図は見た目には複雑であるが、いくつかの基本的な規則性がその下に隠されている。すなわち、共同体家族は、2つを除くすべてのケースで定住集団に対応し、一時的同居〔もしくは近接居住〕を伴う核家族は、21のうち12のケースで遊牧民の特徴となっている。これに対して、言語系統への帰属と家族類型の間に、何らかの相関関係を打ち立てることは不可能である」661頁

「〈定住遊牧民の核家族性〉…
 …アラブ人やイラン人遊牧民集団の中にも,不完全な核家族と父系親族という[カザフ人、トルクメン人、キルギス人と]同様の組み合わせが見出される。厳密な意味での世帯集団は、1組の夫婦によって構成され、夫婦はその子供とともに1つの独立したテントに居住する。しかし、親族の父系イデオロギーが、キャンプとクランと部族とを組織編成している。サンプルには、遊牧民の核家族性に対する例外は2例しか含まれていない。トルコのユルック人とイラン領アゼルバイジャンのシャーセバン人である」663頁

「家族構造とイデオロギーの関係に関する,以前発表した研究の中で、私はアラブの家族慣習の人格を越えた力と、とり立てて抽象的なイスラムの神との間には、何らかの関係があることを強調した。フロイトその他が提唱する、神は父親の似姿てあるという仮説を受け入れるならば、娘をだれに嫁がせるかを選ぶことができないこのアラブの父親は、永遠なる神というものの明瞭で能動的なイメージをあまり強力に支えるものではないということを、認めなければならない。
 それゆえ、内婚制共同体家族を主題とするモノグラフを見ても、この家族は、外婚制共同体家族の特徴たる家内暴力と怨恨を表に現わすことがない。それは、息が詰まる、うっとうしいものとして体験されるようであるが、同時に、しかもとりわけ、温かく安心できるものとして体験されるように思われる。内婚がその周りに組織されている中心的な絆は、父と息子の関係の縦型の絆ではもはやなく、兄弟の連帯の横の絆なのである。ある意味では、兄弟間の関係の優位は、父親と息子の絆以上に、十全に発展した1つの父系制イデオロギーを前提とする」669頁

「〈西トルコとイラン中心部における核家族的傾向〉…
 トルコとイランという中東の2つの国家的な極は…家族構造の核家族性という要素と、父系親族の脆弱さという要素とに、それぞれ合致するのである。政治人類学の観点からすれば、それはきわめて正常なことに他ならない。父系にして共同体的にして内婚制の親族システムの力が強かったということが、中東における国家の台頭に対する主たる障害の1つであったし、いまでも依然としてあり続けている。官僚的組織編成というものは、己の支配空間の住人すべてを、非人格的かつ同等な態度で扱わなくてはならない。中央部的アラブ圏では、兄弟とイトコたちの横の連帯が、官僚機構の台頭に抵抗し、その中に入り込み、浸透し、遂には麻痺させてしまう。権力は、そこではしばしば、1つのクランの所有物、もしくは親族によって構造化された少数派的集団の所有物にすぎない。…国家の発達は、家族が核家族であって、親族が未分化的で選択可能であるがゆえに拘束性を持たず、とりわけ解体が容易であるところにおいて、より自然なのである」679-80頁

「フランスとイギリスという、西欧で最初に中央集権化された2つの国家は…核家族地域の中に地理的な土台を見出した。より複合的な家族システムによって構造化されているドイツとイタリアは、統一的で中央集権的な国家システムを作り出すのがより困難であった。とはいえイタリアには例外が1つあって、それがこの規則を証明している。すなわちナポリ王国である。この王国は、半島唯一の大きな国家であり、まさにイタリア・システムの中の核家族的・双方制的な地帯に設営された。スペインの統一は、ある意味では、一度として完了したためしはないが、スペインの政治的中枢たるカスティーリャはまさに核家族的である。とはいえ私は、西ヨーロッパの核家族核家族類型は、『概念的な直系家族空間』の中で、部分的には直系家族の諸価値への反動として生まれたことを強調した。…
 …中東において、国家の台頭がより進んだのは、核家族的基層が観察される、もしくは予感させるところにおいてである。当初の官僚組織が、トルコにおいては軍事的なものであり、イランでは宗教的なものであった…トルコの軍隊とシーア派の聖職者組織は、国家や教会よりも親族ネットワークによって特筆すべきものであるイスラム世界において、特筆すべき2つの例外となっているのである」680頁

「とはいえ、核家族が国家の出現にとって不可欠な条件であると主張するなら、それは馬鹿げているということになろう。中国にもロシアにも核家族は見当たらないのであるから。国家の台頭は、いくつかの特殊な人類学的形態によって促進されるが、それらの人類学的形態は、多様であり得る。そういうわけで、国家と核家族の相互補完性というものが感じられる。しかし、もう1つ別のタイプの国家と外婚型共同体家族の間には、また別の相互補完性が存在するのである。外婚制共同体家族は、隷属的で平等な個人を生み出す。これだけでも、官僚制的ポテンシャルとしては、すでになかなかのものである。
 私がここで喚起しているのは、核家族なり外婚型共同体家族を国家へと至らせる因果関係ではない。特定の時点における機能的関係である」681頁

「〈砂漠 内婚のベドウィン・モデル〉…
…起源的アラブ社会の理想型であるベドウィン人モデル…統計データは不完全であるが、中東におけるイトコ婚の頻度は、任意のある地域において、近隣に居住する定住民集団よりも遊牧民集団の方が高いようである。内婚の標準的な漸増のありさまというのは、都市から農村世界に移るときに、まず最初の増加があり、次いで遊牧民に達したときに、2度目の増加がある、というものである。内婚はアラビア、シリア、イラクにおいて最大限に達するわけだが、その全般的な地理的分布は、砂漠を中心としている、というか、より正確に言うなら、砂漠の外縁をなす乾燥したステップを中心としている。それはベドウィン人たちが行き来する道に他ならない」691頁

「要するに、砂漠の、あるいは砂漠近辺の遊牧は、なんらかのやり方で、内婚を促進したに違いないのである。これに対して、12世紀の始めより中東に侵入したトルコないしモンゴルの大ステップ遊牧社会は、やがて中東を支配するに至った集団のイスラムへの改宗後も、イトコ婚へのある程度の抵抗を特徴とし続けた。…
…父系の組織編成とアラブ的内婚とは、イスラムの台頭の時にすでに姿を見せていたものだが、それはすでに当時から、遊牧とベドウィン的生活様式とに結びついていた」693頁

「〈家族類型の最初の歴史的解釈〉
 中東のケースにおいては、周縁地域の保守傾向の原則は直ちに適用されるように思われる。…定住民集団の核家族類型(一時的同居あるいは近接居住を伴う)は周縁部に存在する。母方居住、末子相続、長子相続、残留型ないし手つかずで元のままの外婚制、こうしたものの痕跡もやはり周縁部に存在する。
 こうした地理的分布から引き出せる主たる結論を要約すると、以下のようになる。
 ——起源的家族類型は核家族であったに違いない。
 ——中国や北インドと同様に、長子相続制が、兄弟間の平等に先行して行なわれていた可能性がある。
 ——父系原則は、この地域のどこかに位置する中心から周囲に広がった。
 ——内婚もまた、この地域に属するある中心から周囲に広がった革新であった。
 家族形態のこの一覧を通覧して感じたのは,キリスト教諸教会やシーア派ら派生したイスラム教のさまざまな変種という少数派宗教と、残留型家族類型との結びつきである」695頁

「中東ではキリスト教の残滓が周縁部の孤立地帯を占めているのも、あまり驚くことではない。イスラムは、この地帯に遅れて起こった革新であり、1つの中心点から、征服によって周囲に拡散していったのである。…要するに、キリスト教が古代的(アルカイック)家族形態に結びついているのは、当たり前なのである。
 シーア派と周縁部という概念との連合はより興味深い。いま検討した地理的ならびに家族絡みのデータは、シーア派とは、スンニ派イスラムと比べて革新者的なものと見なされるべきではなく、何らかの仕方で保守者的なものと見なされるべきだ、ということを強烈に示唆している。…シーア派とはとりわけ、古い人類学的要素に固執した住民集団の中で成功した、もしくは生き延びたものなのだ」696頁

フォロー

「遊牧民フン人が父系的特徴を発見したとき、それは直系家族に結合した、あまり徹底的ではない形態で中国から到来したもので、多くの例外を許容していた。この同じ父系原則が、ベドウィン・アラブ人のところに到達した時、それは少なくとも2000年前から存在していたのである。それはすでに、絶対的な力によって、女性を社会の中心部から排除する周辺化を前提とするものであった。…
 アラブ人によって発明された内婚は、父系制の最も極端な帰結から逃れ、きわめて暴力的な父系制、過激な反女性主義という環境の中で、双方的なつながりを保持するための1つのやり方だったのではなかろうか?
 それにしてもアラブ風婚姻とは全く独特のものであり、このことは、父系への変動は容易なことではなかったこと、いくつもの特別な条件、つまり父系性と内婚が組み合わさることのできるような環境が必要となったはずである、ということを含意する。集団が自らの内側に閉じこもるということは、社会を小さな自律的集団へと細分化するベドウィンの生活様式にとって、おそらく現実的な技術的利点を提示しているのである」790頁

「核家族性と未分化性から共同体家族と父系制へという、ユーラシアの全般的な動きは明白である。3段階の父系制(男性長子相続の台頭、父方居住共同体家族、女性のステータスの徹底的な低下)が相次いで起こるのは、中東、中国、北インドで探知し得るシークエンスである。…中東と中国での〔父系共同体家族の〕台頭は、独立に起こった事象である。インドのそれは、おそらく最初からメソポタミアの影響の下で起こったのだろう。直系家族の段階で停止した不完全な進化は、日本と朝鮮、そしてヨーロッパの一部というように、ユーラシアの東と西に左右対称的に分布しているが、そのこと自体が、『周縁部地帯の保守性』効果の、特に明瞭な具体例となっている。ヨーロッパと東南アジアの核家族性は、歴史のさらに古代的(アルカイック)な段階に関するものであると言うことができる」795頁

「レヴィ=ストロースの構造主義における非対称的交換…は、非対称性の最も一般的なケースであるわけではないのである。父系親族との婚姻を特別の禁忌として設定する三方〔内〕婚の方が、われわれのサンプルの中では、より重要である。いわゆる『アラブ風』婚姻は、人類学者にとって理論的重荷に他ならないが、四方内婚の枠内で、父方平行イトコとの婚姻への選好を最上位に置く、反転した非対称性を代表している」800頁

「日本では、最終的都市化の直前にイトコ婚率は7%近くに上っていたが、この内婚は、第二次世界大戦後には急速に姿を消した。この日本の内婚は、その地理的分布からして、太古の基底を喚起するのではなく、むしろ、許容性によってある程度の内婚の台頭が可能になった外婚制というものを喚起していた」801頁

石崎解説「安定的で不変の家族システムという共時態の土台の上に、トッドの卓見に満ちた歴史の解釈と分析が可能になったわけだが、この共時態は、歴史的推移という通時態を説明するが、それ自体は説明されない。説明されない、つまり理由も原因も持たない、ということは『偶然』という言葉で表現されざるを得ない。現に『第三惑星』のタイトルは『結論』のタイトルは『偶然』であった。
 しかし人類の歴史が閲した長い時間の経過を思うなら、少なくとも『安定化』以前に想定される変動について、いつまでも判断停止を続けられるものではない。人類史、少なくとも現在の人類学=民族学の資料が可能にしてくれる限りでの人間の歴史を通しての家族システムの変遷を探求することは、人類学者たるものの責務ではないか。これが、トッドを『家族システムの起源』を求める新たな研究の道へと駆り立てることになったモチベーションであろう」830頁

石崎解説「人類史の大きな流れを考えるとき、かつてその軍事的適性によってユーラシアの大部分を征服し、いくつもの帝国を建設した共同体家族の世界制覇に抗して、ユーラシアの西北の果てにかろうじて生き残った核家族が、あるとき資本主義という新たなシステムへの適性を発揮して、やがて世界全体を己のシステムに組み込むことになる、という2つの原理の対立抗争の歴史としてそれを構想することも、不可能ではない。実際、近代世界システムを主導したのは、いずれも絶対核家族の国(オランダ、イギリス、アメリカ合衆国)であった」832頁

石崎解説「新たな類型体系は、夫婦という最小単位がどの方向に所属するか(方向性)を示す『父方居住』、『母方居住』、『双処居住』の3つの概念の他、『統合核家族』『一時的同居(もしくは近接居住)を伴う核家族』という新たな概念をも組み込んでいる。…世帯そのものを見ると核家族であるが、親族の複数の核家族と近接して居住していたり、集住していたりするケースがしばしば見受けられる。この場合、世帯そのものだけでなく、それらの世界の集まりという一段上のレベルにも目を向けないと、重大な見落としをする危険がある」833頁

石崎解説「人類は太古において、単一の家族形態を持っていた。その起源的家族は、親族の現地バンドに組み込まれた核家族であり、親族システムは、父系にも母系にも分化していない未分化の双方性に立脚していた。やがて、父系原則が出現し、家族システムの父系化が起こり(父系変動ないし父系革新)、周囲に拡大していくと、それと接触した未分化的民族は、時として反動的な母系形態を採るものも現れる。…つまり、時系列的順序は、未分化・双方性→父系制→母系制ということになる」834頁

石崎解説「インドの父系制が、中東からの影響で形成されたと考えられるとすれば、世界の父系変動の震源地は、中国と中東の2つ、ということになろう。その中東起源の父系制は、古典古代においてローマにまで至る東地中海に広がったが、ローマは、エトルリア人、ガリア人という双方性の民族を征服したことにより、双方性と核家族性へと逆行することになり、その中から平等主義核家族が出現する。…西欧の直系家族を生み出した革新の極は、パリである」836頁

石崎解説「レヴィ=ストロースの婚姻システム研究は、イトコ婚(内婚)の中でも母方交叉イトコとの婚姻を最も重視し、そこから有名な『交換関係の主要な一環としての女性の交換』という概念を打ち出した。ところがトッドによれば、この類型はイトコ婚の中では統計的にマージナルな形態であり、事例数としては圧倒的な父方平行イトコ婚(いわゆる『アラブ風婚姻』)がほとんど研究されていない。これを忖度するに、平行イトコ婚は、完全に家族内に閉じこもった『内婚の極致』となり、『女性の交換』そのものが成立しないため、理論構成そのものに不都合なところがあるからであろう」837頁

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