「〈ローマの進化の理論上の重要性〉
…分析を進めると、いくつかの歴史的変動の可逆性が浮き彫りになってくる。父系制の推進力が、微妙な差異に富んだ、時には局地的に偶然的な姿を見せるに至るのである。…父系制が今日でも、中国南部とインド南部において、いわゆる西洋的な近代化の外見を超えて、前進し続けている…日本のケースは、実質的な進化の例を提供してくれた。しかしその進化は、直系家族段階、すなわち息子がいない場合に娘による相続をつねに認める〈レベル1の父系制〉の段階で停止した。東南アジアの最大部分では、父系原則は、家族の母方居住反動、そして時には親族システムの母系反動を生み出したにすぎない。フイリピン人は長い距離と海とに守られて、起源的未分化状態からのいかなる変化をも免れた。
父系制の作用は、全面的か部分的か、反動的か、もしくはゼロであるにしても、いずれにせよ不可逆的であるとこれまで思われてきた。これまでに研究されたケースは、つねに双処居住から単線性へと向かうものであった。ところがローマ帝国については、明瞭な逆行を経験することになるのだ。すなわち、親族に関しては、父系制から双方制へ、家族構造に関しては、複合性から核家族性への逆行である」475頁
「〈帝国期の変動 核家族の新たな類型〉
ローマの家族の歴史の標準的な姿というものは、最近まで、複合性から核家族性への、また権威主義から個人主義への粛々と進む前進という、ラスレット革命以前の家族の世界史の姿を凝縮したものに類似していた。ゲンス〔クラン〕が、ついでファミリア〔家門〕が、姿を消して行き、後期ローマ帝国時代には核家族に席を譲った、というわけである。この図式は、核家族性への逆行という図式と両立し得ることを、指摘しておこう。重要な差異は…伝統的な図式はも、ともに強力な父系制と複合性から出発していたという点である。
この古典的な進化論的ヴィジョンに対して…ローマの家族がより核家族的であると考えるサラーは、不変説へと向かうヴィジョンを対置する」476-7頁
「すでに中国のケースを検討した時から、父方居住で外婚制の共同体家族というものが、どれほど自然なものではなく、個人にとって拘束的なシステムであったかを、私は強調している。私の解釈では、この家族の出現には特別な条件が必要であった。中国では、まず定住民の間で父方居住直系家族が出現し、次いで北方の遊牧民に萌芽状態の父系原則が伝達され、この原則がステップにおいて対称化され、最後にそれが中国を征服することによって帰還を果たすという複雑な過程があった。ステップのクランの父系制的対称性が、中国の父方居住の直系家族の上に上塗りされることによって、父方居住の共同体家族の出現が可能となったというわけである。このモデルを私はインド北部に適用することができた」500-1頁
「共同体家族の2つの変異体を区別すべきではなかろうか。1つは縦軸によって支配されたもので、もう1つは横軸によって支配されたものである。家族構造によってイデオロギーが決定されることを論じた私のこれまでの著作の問題系を再び取り上げるならば、縦型の傾向が見られる共同体家族と横型の傾向が見られる共同体家族を区別することによって、セルビアならびにイタリアの共産主義とロシアの共産主義との間に存在する重要な差異を理解することができるはずであると、認めなければならない。ロシアのボリシェヴィズムの厳格さとイタリアおよびユーゴスラヴィアの共産主義の柔軟性との間の対比は、第3インターナショナルの歴史の決まり文句であった」。おそらくこれはグラムシ…の柔軟性とユーゴスラヴィアの自主管理の起源に他ならないのである」503-4頁
「<幻想1——起源的母系制>
…母系制の罠は、ギリシャ人の民族誌学者によって仕掛けられたものである。彼らは女性のステータスを著しく低下させた父系世界の出身で、女性の自立性を示すいかなる印をも系統的に母系制の証拠あるいは痕跡と解釈した。ギリシャ語の専門用語を用いるなら、〈家母長制〉(matriarcat)とか〈婦人覇権〉(gynécocratie)ということになるが、ここでは母系制とのみ言っておこう。…この罠は人文科学の歴史の最大の誤りの1つ、意味を持たない文書を大量に生産する、まさに精神の墓場となっていった。…
1861年に出版されたバッハオーフェンの大著『母権制(Das Mutterrechit)』は、あらゆる誤りの生みの親とみなすことができる。…中国の民族誌学者たちはギリシャの民族誌学者と全く同じように父系制的精神を持っており、したがってわれわれにチベットとインド北部に存在する女性国家の存在と歴史に関する『証言』を残している。バーゼルのエリートたるバッハオーフェンは、ギリシャ人と中国人のように、父系制は文明のより進んだ局面として家母長制の後に出現した、と明らかに信じていた」504-5頁
「現在の母系制社会と未分化社会の現実を観察した者にとってはまったく単純なある事実…女性のステータスは、実際は母系制社会よりも未分化社会の親族システムにおける方が高いのである。この真理は、母系制システム…が、征服的な父系制に対する反動にすぎないことを理解すれば、より容易に認められるようになる。女性がステータスと財産の継承の主体になったとしても、女性が未分化システムにおけるよりも支配的であるということにはならない。未分化状態では女性は単に男性と同じように自由に配偶者を選ぶことができる。母系制の下では、女性のステータスは、父系の組織編成におけるよりも当然高くなる。しかし女性はもはやシステムの中の1つの要素に過ぎないのであるから、そのステータスは、未分化の世界の中で占めていた位置と比べれば、自立性が減少したものとなるのである。母系制システムでの女性の中心性というものには、夫が平均して妻より10歳年上であるというような、きわめて大きな夫婦間の年齢差が伴う場合がある。要するに、未分化システムの特徴たる夫婦間の年齢の相対的同等性というものとは、大分異なるのである」505-6頁
「母系制は北アメリカのすべてのインディアン住民の特徴というけではまったくなかった。北アメリカには多数の家族システムの変種が共存していたのである。しかし親族名称分析によって、実際に人類学の歴史に革新をもたらした重要人物であるモーガンが母系制を主張したとなると、もう取り返しがつかなかった。…この理論はいまや成熟し、中国人類学に影響を与えることになる。中国人類学の方は、婦人覇権的幻想を語る己自身の古典的著作を再発見することになるのである。円環は閉じられた。ギリシャ民族誌学者と中国のマルクス主義者は、同じ父系制の社会の出身であり、時間的・空間的に遠く離れているにもかかわらず、容易に意見の一致点を見いだすことができたわけである。過去において、母系制、母方居住、家母長制、等々が支配していたという一致点を」506-7頁
「<幻想2——インド・ヨーロッパ父系制>…
最初は父系制であったとする仮説は、家族構造が複合的なものから単純なものへと進化するという仮説と容易に組み合わされる。メインはインド・ヨーロッパ語族が過去において父系制であったと想像した時に、彼は北部インドの〈ジョイント・ファミリー〉を念頭に置いている。彼はそれを古代的(アルカイック)なものと考えたが、これはその時代のヨーロッパのすべての学者たちが、核家族とは近代の獲得物であると想像していたのと同じ考え方に他ならない。…インド・ヨーロッパ語族という幻想は、歴史社会学の〔父系制という〕この常識に調和的に統合されていたのである。
父系制の仮説それ自体は、本来的には母系制の幻想と矛盾するものではない。ギリシャ人は文明化された家父長制という理想が、家母長制の後に現われたと想像していた。この両概念の両立が難しくなったのは、インド・ヨーロッパ語族という仮説が付け加えられたからである。なぜならそれによって、父系制ははるか以前の過去のものとなってしまい、〔起源的過去のものとされていた〕母系制の幻想が処理不可能になってしまうからである」510頁
「ギリシャは多数の都市国家に細分化されていたために、アテネの勢力伸長以前の、女性のステータスの高さの痕跡を観察することができる。…スパルタの女性のステータスは、古典時代には文化的常識であり、スパルタが古代的(アルカイック)であることの印と解釈されていた。アテネあるいはローマの父系制を、インド・ヨーロッパ語族全体に共通した古代的(アルカイック)状態の残滓として提示するというのは、実のところ、歴史的な良識がかなり欠けているところを曝け出すことなのだ。なぜならアテネとローマは、まずは類型に収まらない都市国家であり、その後、歴史的成功を収め、伝統の保守よりもむしろ革新[父系革新?]の場となったのだからである」511頁
「長子相続制度は、最後はドイツ語圏を支配することになり、イングランドにも影響を及ぼしたが、生まれたのはフランスにおいてである。この革新はカペー朝初期に、パリ盆地のフランス貴族もしくはフランス・ノルマン貴族のもとで始まった。…本書の全篇を通じて一貫するテーマの1つは、人類学においては、ある概念とその反対概念とは相対的に近接しているということである。例えば、父系制と母系制については、そのそれぞれが未分化性に対して持つ距離よりも、互いの間の距離の方が近いのである。家族生活に関しては、権威と自由、あるいは平等と不平等についても同じことが言える。権威と自由の2つはともに、世代間の実践的相互作用が不明確な状況というものに対立する。平等と不平等は両方とも、個人を互いにランク付けすることに対する無関心というものと区別されるのである。分析がここまで来ると、未分化性の概念を以下のように一般化することができる。すなわちこの概念は、父方親族と母方親族、自由と権威、平等と不平等の間に打ち立てられる区別がいずれも存在しないということを含む、と」520頁
「絶対核家族——もっとも平等主義核家族もだが——は、いかなる人類学的・社会的実体もない空虚の中で、それだけがひとりでに機能することができると思い込むのは、大きな誤りであろう。絶対核家族は、起源的家族を囲い込んでいた双方的親族集団を脱ぎ捨てて、一時的同居および末子による高齢の両親の世話という実用的慣行を捨て去って——いずれにせよイングランド中心部では——、純粋なものとなったわけだが、これらの要素に代わる代替メカニズムに頼る必要が生じる。ケンブリッジ学派はもちろん、家族の超個人主義によって生み出された具体的な困難が、いかにして管理され得たかということを、思料した。…現地の共同体の機能の仕方…その重要性は、広範な親族関係の役割が減少するにつれて増大するのである。16世紀から19世紀までのイングランドの特徴の1つはまさしく、小教区の扶助と拘束の役割が、国家に依拠しつつ、早期に制度化されたことである。これはおそらくヨーロッパでも唯一無比の事例である」549頁
「工業化以前の社会保障も、世帯の純粋な核家族的構造も、平等主義的核家族のケースで、支配的ではあるが排他的ではないものとしてわれわれが出会った、大規模農業経営がなかったなら、考えられなかっただろう。確かに核家族は他の形で機能することもあるだろうが、次のようなことは確実である。すなわち、農業賃金労働は、昔の農村の枠内では、一般的に小さな家と、庭と、多少の家畜、それに共同体の土地での入会地放牧権と落ち穂拾いの権利の所有を随伴するが、ここの賃金労働は両親と子供の分離を可能にするということである。賃金労働が老人を助けることがあるとしても、それは副次的なことにすぎない。一方、賃金労働のおかげで、若者は使用人として働くことで資産を蓄積することができ、次いで両親から独立して収入を得ることができるようになる。イングランドでは大農民の息子たちも他の大農民の家に使用人として送り出されていた。こうしたセンディング・アウト〔送り出し〕の慣行は、純粋に経済的な面ではまったく正当化されるものではなかったが、これなくしては農村上流階級における絶対核家族の作動は、考えられないのである」550頁→
(承前)「したがって平等主義核家族地帯と同じく絶対核家族地帯において、家族の核家族としての完璧性と農地の集中との間の連合が見出されるのは、意外なことではない。とはいえ大規模農業経営と核家族との相互補完性を強調するからといって、経済的決定の観念に賛同していることには、いささかもならない。農地の集中はたいていの場合、経済的近代化の過程の結果として出現するのではなく、ひじょうに古いかもしれず、もしかしたら社会が成立したとき以来であるかもしれない歴史に由来する構造的要素として姿を見せるのである。このことは、カウツキーが気付いたことであったが、マルクスはそれに気付かなかった。私は『新ヨーロッパ大全』で、中世の大領地と近代の大規模経営との間に存在する連続性を分析した。…
…イングランドのケースでは、17、18世紀のエンクロージャーの動きが、貧しい農民が持つ共同体内の権利を清算することによって、それまでにすでに二極化していた農村の形態を完成させた。しかしエンクロージャーの分布図それ自体、中世の大領地の分布図と合致していたのである」550-1頁
「〈ル・プレイの類型以外の類型〉
これまでに記述された3つの家族類型(平等主義核家族、直系家族、絶対核家族)は、共通して高レベルの形式化に達している。これらの家族類型を構造化しているのは、核家族性か同居か、平等か不平等か、それとも遺言を行なう絶対的自由か、といった規則である。ル・プレイは、これらの規範を特定することによって、自分の類型体系を築き上げることができた。しかしまぎれもない周縁部的な古代的形態(アルカイズム)の保存庫にほかならないヨーロッパは、ル・プレイによってリストアップされていない形態を観察することもまた可能にしてくれる。…昔のシステムの残滓を見いだすのは、周縁地域の保守性という分析観点からすればまったく正常なことなのである」553-4頁
「ノルマン人の拡大によって、長子相続制は海を越えて各地へと伝播することになったが、とはいえそうして伝播した国々で、長子相続は元々の形態のままで生き残ることは、決してなかった。典型的な例がイングランドで、1066年という、やがて有名になる年に行なわれたノルマン人による最初の征服によって征服されたこの国がどうなったかは、周知の通りである。
ノルマンディでは、中世において貴族の直系家族の最も見事な具体化の1つが、総領制(parage)の理論によって形を整えることになった。総領制とは、宗主に対する封建的義務について長男を弟たち全員の分まで責任を負う者と指名する。弟たちは、土地と城館を保持したが、それでも跡取りに指名された息子の権威から逃れることはできなかった。このようなシステムは、長子相続の厳格性と柔軟な血統の横への拡大とを組み合わせるものであった」605頁
「ジョージ・ホーマンズ…は、13世紀のイングランド農民に関するその古典的な著作の中で、遺産相続慣習を研究している。彼は長子相続地帯と末子相続地帯を系統的に分けようとはしないで、まずこの2つの遺産相続様式は、微細なレベルで混ざり合っていると示唆する。…
これとは逆に、土地の分割可能性地域は、ホーマンズによって同質的で、それゆえに周縁部的な地帯として明快に定義されている。…
遺産相続規則についての彼の議論は、基本的には、各地域に定着した住民集団の民族的起源に関する、その当時めぐらされた思弁を採用したものである。…しかしもし、イングランドにおける長子相続地帯と分割可能性地帯の分布を、民族的起源に関するあらゆる予断を忘れて、全体的に眺めてみると、長子相続が中心部に位置し、分割可能性が東と西の周縁部に分布していることを見て取ることができる。長子相続制の規則が理論上の中心から発して周囲に押し付けられていったことが想像できる…中世イングランドの周縁部の検討は、長子相続の押し付けの試み以前のイングランド全域の姿を蘇らせることになるかもしれないのである」606-8頁
「〈直系家族概念の成功と挫折 農地制度による説明〉
…なぜヨーロッパ大陸の特定の地域で、ついには直系家族という概念が農民層に広がり、貴族のものよりもさらに厳格に農民の家族生活を構造化するに至ったのか…自ら望んでか、強制的であるかにかかわらず、農民たちによる長子相続の採用は、より稠密な家族形態をもたらすことになるのである。ただ1つの農地について、ただ1人の子供への分割なき移譲は、世代間の緊密な同居へと向かう可能性がある。…
…長子相続という理想の導入以前に、複数のはっきり異なった農地システムが存在していた…農地の経営で家族経営が多数派であったところでは、直系家族システムは調整に便利で、問題が起こった場合の解決策として提出されていた。中規模農地からなる、住民が充満した世界では、子供たちの転出の可能性が底をつけば、長子への不分割相続が横行する可能性があった。領主の大荘園が耕作空間の大部分を占めていたところでは、不分割のメカニズムは農村部のきわめて少数の上層カテゴリーにとってしか意味かなかった」609頁
「〈純粋な核家族システムの出現〉
イングランド(あるいはデンマークもしくはオランダ)の絶対核家族、ならびにフランス(あるいはカスティーリャもしくは南イタリア)の平等主義核家族は、ユーラシアという塊の周縁部に位置し、核家族性および親族システムの未分化という基本的な古代的(アルカイック)特徴を保存してはいるが、歴史的変遷の結果として単純化され練り上げられた形態である。われわれは中世から始めて、これらの核家族の出現を理解しなければならない。この時代に関しては…未分化の親族集団の中に包含された、近接居住もしくは同居を伴う核家族という仮説を受け入れることができる。農地制度の構造が基本的な説明要因となる」614-5頁
「フランスとイギリスという、西欧で最初に中央集権化された2つの国家は…核家族地域の中に地理的な土台を見出した。より複合的な家族システムによって構造化されているドイツとイタリアは、統一的で中央集権的な国家システムを作り出すのがより困難であった。とはいえイタリアには例外が1つあって、それがこの規則を証明している。すなわちナポリ王国である。この王国は、半島唯一の大きな国家であり、まさにイタリア・システムの中の核家族的・双方制的な地帯に設営された。スペインの統一は、ある意味では、一度として完了したためしはないが、スペインの政治的中枢たるカスティーリャはまさに核家族的である。とはいえ私は、西ヨーロッパの核家族核家族類型は、『概念的な直系家族空間』の中で、部分的には直系家族の諸価値への反動として生まれたことを強調した。…
…中東において、国家の台頭がより進んだのは、核家族的基層が観察される、もしくは予感させるところにおいてである。当初の官僚組織が、トルコにおいては軍事的なものであり、イランでは宗教的なものであった…トルコの軍隊とシーア派の聖職者組織は、国家や教会よりも親族ネットワークによって特筆すべきものであるイスラム世界において、特筆すべき2つの例外となっているのである」680頁
「〈砂漠 内婚のベドウィン・モデル〉…
…起源的アラブ社会の理想型であるベドウィン人モデル…統計データは不完全であるが、中東におけるイトコ婚の頻度は、任意のある地域において、近隣に居住する定住民集団よりも遊牧民集団の方が高いようである。内婚の標準的な漸増のありさまというのは、都市から農村世界に移るときに、まず最初の増加があり、次いで遊牧民に達したときに、2度目の増加がある、というものである。内婚はアラビア、シリア、イラクにおいて最大限に達するわけだが、その全般的な地理的分布は、砂漠を中心としている、というか、より正確に言うなら、砂漠の外縁をなす乾燥したステップを中心としている。それはベドウィン人たちが行き来する道に他ならない」691頁
「〈家族類型の最初の歴史的解釈〉
中東のケースにおいては、周縁地域の保守傾向の原則は直ちに適用されるように思われる。…定住民集団の核家族類型(一時的同居あるいは近接居住を伴う)は周縁部に存在する。母方居住、末子相続、長子相続、残留型ないし手つかずで元のままの外婚制、こうしたものの痕跡もやはり周縁部に存在する。
こうした地理的分布から引き出せる主たる結論を要約すると、以下のようになる。
——起源的家族類型は核家族であったに違いない。
——中国や北インドと同様に、長子相続制が、兄弟間の平等に先行して行なわれていた可能性がある。
——父系原則は、この地域のどこかに位置する中心から周囲に広がった。
——内婚もまた、この地域に属するある中心から周囲に広がった革新であった。
家族形態のこの一覧を通覧して感じたのは,キリスト教諸教会やシーア派ら派生したイスラム教のさまざまな変種という少数派宗教と、残留型家族類型との結びつきである」695頁
「中東ではキリスト教の残滓が周縁部の孤立地帯を占めているのも、あまり驚くことではない。イスラムは、この地帯に遅れて起こった革新であり、1つの中心点から、征服によって周囲に拡散していったのである。…要するに、キリスト教が古代的(アルカイック)家族形態に結びついているのは、当たり前なのである。
シーア派と周縁部という概念との連合はより興味深い。いま検討した地理的ならびに家族絡みのデータは、シーア派とは、スンニ派イスラムと比べて革新者的なものと見なされるべきではなく、何らかの仕方で保守者的なものと見なされるべきだ、ということを強烈に示唆している。…シーア派とはとりわけ、古い人類学的要素に固執した住民集団の中で成功した、もしくは生き延びたものなのだ」696頁
「中東の例外的な父系制の強さは、それだけでも、数千年に及ぶ規模を喚起する。ところがイスラムというのは近年の現象であり、この宗教が中東に出現したとき、アラブ圏は最大限の父系制の地帯であったわけではないのである。…
宗教的要因、つまりイスラムが、父系制の歴史の中でひじょうに重要な役割を果たしたと、何の検証もなしに頭から決めつけるのは、避けなければならない。…ムハンマドの啓示の後の歴史が示しているのは、コーランがアラブの親族システムに重圧をかけることはなかったということである。ムハンマドは部族法から女性を守ろうとした。…ムハンマドの時代のアラブのシステムでは、娘は遺産相続から除外されていた。そこでムハンマドは、コーランの規則の中に娘の留保分を設定することで、娘の地位を改善しようと試みたのである。…
…イスラム圏の歴史の中で、親族システムの固有の力学の方が、コーランの啓示よりも強かった」697-8頁
「中国の家族の典型的なシークエンスの大きな特徴のうちの3つを思い出しておこう。…
1 中国の長子相続制は共通紀元前1100年頃に出現する。それは〈レベル1の父系制〉を含意していた。この父系制の程度を測定することはできないが、15から30%の母方居住権を存続させていたはずである。
2 この穏健な父系原則は、おそらくステップの遊牧民たちに伝えられたと思われる。彼らは兄弟たちに同等の役割を与えて、この原則を対称化した。その後、その反動が中国を襲う。いまや父系の対称性の観念を担うことになったこれら遊牧民に侵略されたのである。長子相続制と中国直系家族の上に遊牧民の対称性が張り付くと、共同体家族という複合的なシステムが生まれることになった。共通紀元前200から100年ころ、中国は、この父方居住共同体家族によって、〈レベル2の父系制〉に到達した。これは、母方居住婚には実際上敵対的で、おそらく95%を超える父方居住率の出現へと至るのである。…
3 これに次いで、中国において、女性のステータスの漸進的な低下が観察され、やがて〈レベル3の父系制〉に至る。このレベルは、共通紀元900から950年ころに、中国女性たちの纒足の慣習という兆候に行き着くのである」705-6頁
「〈中心的局面における世帯の父方居住と明白な核家族性〉
アッシリア学者たちは、古バビロニア時代の家族の基本的な2つの特徴、すなわち核家族性と父方居住性について意見が一致している。核家族性はここでは、小さな住居、ないし複数の相続人の間で頻繁に分割される住居、ないし結婚する男は独立した炉を立てなければならないという義務、によって定義される。父方居住の特徴は、娘を遺産相続から排除することと兄弟が互いに近接居住することによって定義される。これらの特徴は…ハンムラビ法典に姿を現わしている。自立した炉の設立という考えは、176項と190項に現われる。その相続権は明瞭に男性平等タイプのものであるが、末子への配慮の痕跡も保持している。特に166項にそれは見られる」710頁
「ハンムラビ法典は、男子に対して平等主義的であるが、偏執的ではない。だれか1人の息子に他の者よりも有利な恩恵を与える権利があり、しかもその息子は遺産相続の際に遺産の総額にその分を返還する義務はない、ということを認めているからである。それは165項に示されている。…
女子は、相続から排除されているが、相当な婚資を受け取る。ある結婚契約書が明らかにしていることだが、ある娘は、婚資の一部として、母親から移譲された家を受け取っている。併せて指摘しておくなら、このことは、この父系・父方居住システムが、経済の領域において女性の現実的な自律性を存続させていることを示している、ということになる。
ハンムラビ法典の中には、父方居住による巨大な家族的ネットワークに取り囲まれた核家族というモデルが暗黙のうちに想定されている」712-3頁
「メソポタミアほど。直系家族イデオロギーの誕生に有利な場所も文化もそうはないであろう。それは、充満した世界という意識から生まれた不分割の諸規則を備えている。しかし、長子相続制の規則が、北、北西あるいは東の、より広大で人口の少ない空間に伝播したことも、想定できなくてはならない。その際、長子相続制の規則は、いかなるマルサス主義的必要性からも切り離されたものとなり、東北日本や北スウェーデンで目にしたものに似ている。ヌジやアッシリアにおいて、長子相続制の概念が、それが必要でない家族システムの上に貼付けられたと想像することを妨げるものはなにもない。
中国、日本、北インド、あるいはヨーロッパの一部のケースと同じように、シュメールのケースにおいても、長子相続制の中には、父系原則の不完全ながら最初の出現を見なければならない。要するに、息子たちのうち最初に生まれた者が肝要なのである。しかし、繰り返し言うが、男性長子相続制は、息子すべてを同等と見なさないのであるから、男性と女性とを系統的に対立させるようなイデオロギーに呼応することはありえないのである。一方に長子がいて、残る他方には弟たちと女たちがいる、というわけである」727頁
「〈シュメールの第一局面における女性たち〉
古バビロニア時代から出発して、3千年紀へ、シュメール・ルネサンスと言われる時代、次いでアッカド帝国の時代へと遡って行き、遂に歴史の曙たる古代王朝にまで達すると、女性のステータスが連続して上昇していくのが観察できることになる。女性の経済的役割は、上層階層においても社会の底辺でも、ますます明白になって行く。最も遠い過去において、女性は単に織物の女工というだけでなく、自由に財産を所有したり売却したりする力を持った取引の主体としても姿を現わしている。…長子相続制規則の存在が証明しているように、当時の家族システムが直系家族型のものであったと仮定するならば、この最初の父系制は残留性の母方居住に順応していた、と言うよりはむしろ、家系の連続性を確保するためにそれを必要としていた」732頁
「ヨーロッパの親族システムの未分化状態、西欧の家族の核家族性、大西洋沿岸の女性のステータスの高さ、これらは、近代化の結果ではなく、そもそも出発点においては全世界に普遍的な、核家族的にして個人主義的、双方的にして男女平等主義的なものであった1つの人類学的形態が、ユーラシアの極限的な周縁部に生き残っている姿だということになる。周縁部に生き残ったものは、必要なだけ奥深く過去の中へ沈潜するなら、中央部にも見出すことができる。現在の南部イラクは、今日地球上で最も強力な父系システムの1つに占められている。しかし、今から5000年以上前、シュメールの初期には、まさにこの場所において、いわゆる近代ヨーロッパのそれにおそらく近い家族形態と親族システムが支配していた」735-6頁
「〈3つの段階 中国からメソポタミアへ〉
…メソポタミアの家族の発展の3段階を区別することができる。それは中国の歴史の中で私が特定した3段階と同一のものである。
1 まず出発点において、典拠は不完全であるけれども、夫婦家族の優勢と、女性のステータスが男性と平等であったことを断定することができ、家族システムは…双処居住核家族型であり、さらにそれが、未分化な親族集団に取り囲まれていたと仮定することができる。…実はそれは人類全体に関わっていたのだ。…
2 第2の局面において、シュメールに長子相続の規則が台頭する。これは父系原理の発展の第1段階である。とはいえ、3世代を含む典型的な直系家族的世帯の存在は、検出されていない。
3 第3の局面において、兄弟間の平等と家族集団の共同体化が同時に明確になる。…この第2の変動の中心は、もはやシュメールではなく、アッカドである。やや北に移動したとは言え、相変わらず南部メソポタミアの中であることは、変わりない。
家族はますます稠密化し、そうした家族形態の発展に伴って、女性のステータスも連続して低下して行くが、その動きは共同体家族の出現後も続き、アッシリアを初め各地における、ヴェールの出現が随伴する」744-5頁
「〈1つのモデルとその諸問題〉
この段階に至れば、私としては、中国シークエンスを驚くほど忠実に複写する進化の図式を提唱することができる。シュメールにおいて、当初は優勢であった核家族は、内因性の進化によって、何らかの直系家族的形態に取って代わられたと考えられる。定住民集団の人口密度の増大が、空間は限られており、人で一杯であるという印象を抱かせたからであるが、都市間の戦争が、男性優位と父系の選好の端緒を容易にする要因であったことも忘れてはならない。対称化と兄弟間の平等を必要とする共同体段階への移行は、中国におけるのと同様に、対称化された遊牧民の家系システムの征服的侵入によって可能となったのであろう。家族の平等主義と統一帝国的考え方の間には機能的連関が存在するがゆえに、バビロン第1王朝を、中国の最初の帝国家系の厳密な等価物とすることができるであろう。時間的前後関係に忠実に従うなら、メソポタミアの歴史は中国のそれに大幅に先行するものであるから、秦の始皇帝はハンムラビ王の意識せざる反復者であったということになるであろう。その逆ではない」750頁
「とはいえ、核家族が国家の出現にとって不可欠な条件であると主張するなら、それは馬鹿げているということになろう。中国にもロシアにも核家族は見当たらないのであるから。国家の台頭は、いくつかの特殊な人類学的形態によって促進されるが、それらの人類学的形態は、多様であり得る。そういうわけで、国家と核家族の相互補完性というものが感じられる。しかし、もう1つ別のタイプの国家と外婚型共同体家族の間には、また別の相互補完性が存在するのである。外婚制共同体家族は、隷属的で平等な個人を生み出す。これだけでも、官僚制的ポテンシャルとしては、すでになかなかのものである。
私がここで喚起しているのは、核家族なり外婚型共同体家族を国家へと至らせる因果関係ではない。特定の時点における機能的関係である」681頁