「〈直系家族の出現の背景としての稠密な農業〉
…出発点としては、狩猟採集民と最初の農耕民の特徴である、より幅広い双方的親族集団の中に組み込まれた、一時的双処同居を伴う核家族…農耕の進化と家族の進化の間には必然的に機能的関係がある…
フレイザーが指摘していたように、最近結婚したばかりの子どもが両親の許に留まり、やがて次の者が交替する〈サイクルα〉は、流動的住民集団および拡張的生産システムと高度に両立する…しかし〈サイクルα〉は、移動農耕と全く同じように拡張的定住農耕とも両立する…実際には、初期の農耕民にとって、出発を促す力はきわめて強い。新しい土地は古い土地よりも肥沃だからである。古い土地の再生は、古い共同体にとって早くも問題となる可能性がある。フレイザーが記したように、『新石器時代の経済は拡張的である』…
…領土拡張のこの農業システムにおいて、土地の分割は可能であるが必須ではない。明確な遺産相続規則の定義は、無用であろう。したがって、平等原則も不平等原則もないのである。この局面においては、父方居住の実践も規範も想定させるものは何もない。とはいえ私は、一種末子相続制のごときものを想定する…非父系的で、遺産の最後の分け前を、両親の面倒を見る男子もしくは女子の子どもに与える、というだけのもの」189-91→
(承前)「しかし最後には、この拡張農業文明の中心部では土地は希少になり、ピエール・ショーニュの表現を借りるなら、『満員の世界の時代』が徐々に腰を据える。移住することは容易でなくなった。生産の増大は集約化の形態をとらなくてはならない。…こうした初めて、さまざまな子どもの遺産相続への権利についての理論的な問題が提起されることになる。可処分の財の量が、拡張可能な総体ではなく、有限の総体として知覚されたからである。ヨーロッパについて研究した多くの歴史家たちに続いて、私も、直系家族の仕組みが発明されたのは、どの土地にも持ち主がいるというこの閉ざされた世界の中においてであると思う。不可分性の規則は、地所の一体性を保証する。地所すなわち、社会的階層の上の者にとっては封土であり、下の者にとっては農場である。はるか後になって長子相続制が出現したヨーロッパのケースにおいては、その発明は社会構造の最高水準、すなわち王に由来する…」191-2頁→
(承前)「私は、必然的な因果過程を喚起しているわけではない。閉ざされた空間内で稠密化した定住農耕は、ここでは単に直系家族の出現に好ましいコンテクストとして記述されているにすぎない。直系家族は定住農耕の中につねに現われると、言っているのではない。…また、一たび発明された直系家族のメカニズムは、この元々のコンテクストから独立して広まることはできないと、言っているわけでもない。…
この非常に慎ましいモデルは、なぜ不分割はたいていの場合父系的であるのかを述べることはできない。…歴史の中で観察される家族的シークエンスは、人間という種の心理的作動〔動き方〕について、何事かを明らかにしてくれると考えたいものである」192頁
「〈末子相続は長子相続よりも前か後か〉
不分割の規則こそ、直系家族の作動を可能にするものだが、これにはいくつかの変種があり、主要なものは、長子相続と末子相続である。このうち前者の方が、はるかに頻繁である。…ここで私が関心を向けるのは、不完全な、〈レベル1の父系制〉に対応する父方居住直系家族についてである。…
フレイザーの論理に従うなら、末子相続の方が先とする見方に行き着くだろう。彼は、末子相続制を〈サイクルα〉の『自然な』到達点と考えていた。…このような末子相続は、まだ不分割の規則によって規定されたものとすることはできない。これは何らかの直系家族システムを定義するわけではない。…農耕空間が閉ざされたことと不分割の概念の出現とが、どのように〈サイクルα〉の末子相続を変形するに至るのかを想像するにあたって、フレイザーのモデルは容易に延長することができる。すでに習慣によって家の相続者として指名されている最も若年の息子は、こうなると土地の不分割というものの恩恵に浴することになるだろう。そうなると、末子相続は意味が変わってしまう。拡大することをやめた世界の中で地所の大部分を所有する権利、つまり紛れもない特権となるのだ」193-4頁→
(承前)「これより後の段階になると、空間の完全な閉塞は規則の逆転を引き起こし、末子相続を長子相続へと転換させることになるかも知れない。他所へと移住する可能性を完全に奪われた長子は、最終的には『(成年に)先に着いた者から、先に食事にありつける』〔早い者勝ち〕という規則の効力で継承者として選ばれることだろう。…
このようなシークエンスを暗示することができる事例は、かなりの数に上る。…ヨーロッパでは、実際に相続上の特権を含意するような末子相続を伴う直系家族は、長子相続を伴う直系家族に対して、たいていの場合、周縁部的である。空間内のこのような配置は、直系家族の歴史に2段階がある、すなわち第1段階は末子相続で、第2段階は長子相続であるとの仮説の検証となり得るであろう。
男性末子相続から男性長子相続を引き出そうとするならば、一時的同居を伴う核家族の段階で単系制が出現したと仮定しなければならない。それはつまり、単系制は、当初は平面軸に沿って兄から弟への継承を伴って発展したということになるだろう。革新は、拡張的農耕システムというコンテクストの下で、ことさら生産システムの危機もないところで起こった、ということになる。だとすると、それはいかなる適応の刺激要因もないところで起こった純然たる発明であった」194頁→
(承前)「既知の事実と両立可能な解釈はもう一つある。一時的双処同居を伴う核家族の世界に直接、長子相続を伴う直系家族が出現したと仮定するのである。そうなると、単系制は、兄から弟ではなくむしろ父から息子へと続く縦の継承として、直ちに考案された、ということになろう。然るのちに、直系家族の父系革新は、自律的に、人口密度が低い周辺地域へと伝播・普及したということになり、それによって、それらの地域の一時的双処同居を伴う核家族が父系居住へと方向転換することになった、ということになる。…父系制が外部から到来して、父方居住制と明示的な男性末子相続とを同時に誘導したとする仮説は、一時的双処同居を伴う家族が実際上決して末子相続の規則を含むことがないことを示しているデータの解釈に、ぴったりと適合するのである。…
提示された2番目の解釈によれば、末子相続は、長子相続とともに生まれた父系制の伝播に対する、部分的には分離的な適応反動にすぎない、ということになろう。この仮説の試みもまた、長子相続の周りに分布するという、末子相続の周縁部的配置を実に的確に説明する。それは中国のデータと完璧に両立する」194-5頁
「共同体家族と〈レベル2の父系制〉への移行…
…父方居住共同体家族の構造の定着と、それが女性のステータスに及ぼした長期的帰結を、慎重に区別して考えなくてはならないのである。〔女性の〕根底的な劣等性という観念は、少しずつ定着したにすぎない。ここでは、きわめて長い期間をかけて刻み込まれた心性の変遷を考えなければならないのである。
この漸進的な現象が、中国でいかに進行したか…例えば、纒足は、女性を劣ったものにしようとする欲求と性的ファンタスムが交じり合って複雑に入り組んだコンプレックスをなしているわけだが、これが姿を現わしたのは、〈レベル2の父系制〉への到達のすぐ後というわけではなく、父方居住共同体家族の定着後1000年ほど経った、共通紀元後900年から950年までの間にすぎない」211頁
「家族類型(一時的同居を伴う核家族、父方居住直系家族、父方居住共同体家族)が姿を現わす順序は、諸価値の発明の一つのシークエンスを定義づけるが、そのシークエンスは、西洋政治学の表象とあまり一致しない。出発点は非定義状況であって、そこでは権威と自由、平等と不平等という近代的な概念は、ただ単に当てはまらないというだけの話である。一時的同居を伴う核家族は権威主義的でも自由主義的でもなく、平等主義的でも不平等主義的でもない。直系家族とともに、権威と不平等の概念が現われるが、それはすでに男性性の概念に結びついている。次の段階になると、共同体家族は権威の概念を受け継ぐが、それに平等の概念を付け加えるという革新を新たに施す。そこで平等の概念は不平等の概念にとって代わることになる。平等の概念はこの段階では男性にのみ関わる。…
これは、平等を最も遠い過去の中に置き、不平等を直近の現在の中に置くルソーのシークエンスとは、正反対である。家族システムの歴史は、不平等の概念が平等の概念の前に発明されたことを示唆している」213-4頁
「縄文時代末期のものと推定される墓穴の中の骸骨の遺伝子分析を用いた最近の研究は、日本の南西部の異なる2つの地域に位置する2つの共同体において、婚姻後の夫婦の居住は双処居住だったことを検証した。その方法はまことに単純で、遺骸の調査によって、女性の骸骨の間と男性の骸骨の間で、遺伝子レベルでの血縁関係の量に差がないことが明らかになったというものである。それは農業の発達と列島の人口の大量増加より前の住民に関することであるが、この結果は、本書の中心的仮説を飛躍的に強化してくれる。歴史を最も遠い過去へと遡ると、そこで観察できるのは、実はわれわれが近代的だと信じているもの、すなわち、婚姻交換において男性と女性に異なる位置を割り当てることのない双方的親族システムに他ならないということである。…
日本は、共通紀元以降、侵略されることなく歴史が続いた稀なケースを提供している。…日本はもちろん、家族形態の伝播・普及の過程から守られて来た[ママ]わけではない。しかし、伝播のベクトルは軍事的形態ではなかったという点には確信を持つことができる。伝播・普及は、日本においては、宗教者や商人や海賊といった、日本文明が海外に派遣した者たちが国外で観察した形態を自発的に模倣した結果であった」227頁
「[日本の]養子縁組は、実際には、母方居住の入り婿婚を形式化したものであった。これによって、娘による遺産の継承が可能になるのである。養子となる者は、親族の中から選ばれるのではあるが、世帯主の親族から選ばれるのが義務ではなく、時として世帯主の妻の親族の中から選ばれた。父系親族しか養子として認めない朝鮮のシステムとは、非常にかけ離れている。…
男性長子相続も、普遍的ではなかった。…日本の南西部では、末子相続や、相続人の自由選定や、稀ではあるが、財産の可分性さえも観察される共同体が少数ながら存在した。北東部では、年長の娘が弟たちに優先する、絶対長子相続制が行なわれるところがあった。この多様性は、ゲルマン的周縁部での末子相続制やバスク地方の絶対長子相続制といった、ヨーロッパにおける等価物を参照するよう仕向けるがゆえに、最も常套的なル・プレイ的ヴィジョンを強化する」229頁
「〈長子相続の台頭〉
現在入手可能な歴史データの示すところでは、男性長子相続が本当に日本に、その貴族層の中に登場したのは、鎌倉時代…後半になってから、すなわち、13世紀末から14世紀初頭までの時期においてであった。…農民層の中に不分割の規則が登場したのは、その頃か少し後のことだったと仮定することができる。家族変動がどのような社会階層の中に起こったのかという問題は、ある意味では言葉の用い方に関わる。というのも、日本の封建時代初期の特徴の一つは、ほとんど貴族である武装大農民と言うか、ほとんど農民である小貴族と言うか、どちらとも決められない中間的階層の登場だったからである。平均的階層を中心にして、その上と下に細かく階層分化したこのような農村的社会形態は、直系家族の古典的な相関者である。ここでは、どちらが原因でどちらが結果なのかは、即断しないでおこう。遺産の不分割の規則は、農村社会の両極化を妨げる。同じ現象がヨーロッパでも、フランスの南西部や南ドイツで観察される」240頁
「直系家族の台頭は、中国と同様に、日本でも父方居住現象と女性のステータスの低下の始まりを伴っていたわけである。日本は〈レベル1の父系制〉に達するが、その後、これを超えることはないだろう。親族用語は一般的特徴としては双系的なままである。
直系家族の台頭は、農業経済の稠密化と集約化の段階に相当する。11世紀から12世紀の大開拓の後、13世紀半ばに,瀬戸内海沿岸では二毛作が出現する。…そしてまたしても、戦争は稠密化と直系家族を促進した。というのは、封建制日本は16世紀一杯、徳川国家の開設に至るまで、武力抗争の世界であったからである。…
直系家族が台頭する日本は、土地の占有度と農民入植の古さが地域によって異なる異種混交的な国である。…日本型直系家族が抱える、中央部形態と北東の変異体という二元性…この後者は、農業と国家権力の拡大の最後の地域の特徴に他ならない」241-2頁
「〈日本型直系家族の発明〉
日本型直系家族は、朝鮮経由にせよ直接にせよ、単に中国から到来したものであると考えることができないのは、明らかである。この両国の最初の緊密な接触の時代に、中国はすでに共同体家族化されていた。せいぜいのところ、法典と儒教的慣行の中に昔の中国型直系家族の儀式的痕跡が残るのに気付くことができるくらいであった。それだけでも概念的次元では無視できないが、ヨーロッパの封建時代にほんの少し遅いだけの日本の直系家族・封建時代は、中国の直系家族・封建時代の消滅の1000年以上も後に誕生した。平安時代末期の日本の貴族階級の家族システムについて知られていることはきわめてわずかだが、それでも、当時、いかなる直系家族的観念も家族的慣行の中に根付くのに成功しなかったということを明らかに示している」242頁
「直系家族が出現するには,大開拓の終了、国土の中心部における集約農業の出現、昔から人が居住する地帯——本州の西の3分の2、プラス四国島と九州島の人口稠密部分、としておこう——における日本農村社会の稠密化を待たなければならない。長子相続は鎌倉時代に出現した。この時代は、中央部地域の東に位置する〈関東〉の勢力上昇が顕著であり、この地域を発展の震央と考えるのは妥当と思われる。長子相続は、京都の宮廷の権威をはねつけた戦士的貴族たちによって、〈関東〉にもたらされたのである。家族の地理的分布を示す微妙な差が、このような仮説を確証してくれる。直系家族が、最も純粋な形態とは言えないまでも、絶対長子制や末子相続のような逸脱的要素をあまり含まない形で存在するのは、〈関東〉においてである。絶対長子制は、日本の北東部、〈東北〉の特徴であり、末子相続は、西部では数多くの例が見られるわけであるが」242頁
「日本北東部のケースの中に感じられると思われるのは、もともと存在した一時的双処同居を伴う核家族システムの上に、不平等という直系家族的概念が直接的に貼付けられたということである。もともとの兄弟姉妹の夫婦家族を連合する双処居住集団の痕跡さえ知覚することができる。直系家族的な序列原則が兄弟間の関係の上に直接に取り付けられたようなのである。父親は早期に引退する。〈本家・分家〉集団の中では、同じ株から枝分かれした世帯間の付き合いが重要となる。娘が長子である場合、その娘を跡取りとする絶対長子制の規則は、それが存在するのであるなら、もともとの双処居住の痕跡に他ならない。…分離した住居を伴う〈隠居〉は、核家族間の関係を組織していた柔軟なシステムの痕跡である」244-5頁
「中国と同様インドの場合にも、中心部は父方居住共同体家族で、そこから〔周縁部に向かって〕複合性の少ない形態へと環状に家族類型が分布していると注意喚起することができる。すなわち、南と東では一時的同居を伴う核家族、北では直系家族、そして、いくつかのマージナルな集団においては双方性の痕跡が残る、という具合に。その外側、島嶼では真の双方性を見出すことができる。時として端的に母系のこともある母方居住システムは、父系性と直接接触する一帯に見られる。とはいえ中国とインドの分布地図は正確に同じ様相を呈しているとは言えない。中国は、こう言ってよければ、それ自体が自らの中心であるのに対して、インドは、中心がより西方に位置する父系地帯の東の端となっているからである。インドの父方居住の極が北西地域であるのはこのためである。
中国を分析した際に、直系家族の局面は、核家族と共同体家族の中間的局面であることを、われわれは突き止めた。インドの共同体家族空間の周縁部、特に北部に、直系家族形態が存在するということは、このような直系家族局面がインドにも存在したかもしれないという可能性を示唆している」283頁
「地理的には、一妻多夫婚は、ヒマラヤ系直系家族の枠をはみ出して、重要な痕跡をあちこちに残している。インドのヒマラヤ山麓地帯の家族システムは、対称化され、平等主義的にして共同体家族的であっても、しばしば一妻多夫婚のメカニズムの痕跡を留めている。おそらく古代の直系家族形態の残存要素であろう。…
同じ布置は、シッキムのレプチャ人の許に見出される。レプチャ人は、チベット・ビルマ語を話し、モンゴロイドの外貌をした民族で、ゴーラが研究している。彼らの許では、共同体家族が支配的だが、一妻多夫婚および兄の妻に対する性的使用権の痕跡が残されている。ここでもまた風俗慣習の自由は明白であり、配偶者の選択にあたって両親は一切介入しないこと、男性の童貞喪失に女性の方が積極的な役割を果たすことが、強調されている。兄弟が別居する際は、理論的には平等原則を尊重する財の分割の枠内で、家は長子のものとなる。実質的には直系家族にきわめて近いと言わざるを得ない。…一妻多夫婚はつねに直系家族を前提とするわけではない…ケーララとスリランカのような、〔直系家族とは無関係で〕長子相続の痕跡しか見出されない地域に、一妻多夫婚が姿を見せていることからすると、婚姻モデルにはある程度の自律性があるというのは明らかである」285頁
「キリスト教徒の存在はより古く、おそらく共通紀元4世紀まで遡る。この年代からすると、ケーララのキリスト教は、イスラム教より古いだけでなく、最終的に多数派宗教となったバラモン・ヒンドゥー教より古い宗教形態ということになる。キリスト教の人類学的意味は、エチオピアとローマの家族システムの検討の際に研究されることとなるが、今からすでに、この宗教は外婚制および核家族性とそもそも強い連合性を有するということは、頭に入れておかねばならない。ケーララでも他の場所と同様に、もともとの家族形態は双処居住核家族であったと仮定してみよう。ケーララでは、父系革新や母系革新のずっと以前から定着したキリスト教は、古い核家族システムにとって保護被膜の役割を果たしたと考えるのは、不可能ではない」314頁
「この[東南アジアの]双処居住の地理的空間の中では、2つの類型が優越…1つは、本書で提示されたモデルに完全に合致する結果を示す近接居住を伴う核家族、もう1つは、非定型的な直系家族である。後者がモデルの観点から『正常』〔規範にかなったもの〕でないと言うことができるとすれば、それは双処居住のゆえに他ならない。
『双処近接居住を伴う』家族とはいかなるものか。それは、男と女のどちらから始まっても構わない無差別的な親族のつながりによって集団の中に組み入れられた、純粋な核家族である。もっぱら世帯だけに関心を向けるなら、いかなる拡大も姿を現わすことなく、把握できるのは、両親と子どもを結び付けるだけの夫婦的形態という最も単純な家族形態のみである。それは、イングランドの絶対核家族あるいはパリ盆地の平等主義核家族に似ている。もちろんこの核家族は、『ロビンソン・クルーソー』の夫婦版よろしく、社会的空虚の中に存在するのではない。協力と相互扶助の集団の中に組み込まれているのであり、その集団なしには、生き延びることはできない」356頁→
「東南アジアにおいて末子の位置というものは、文化的に目立った要素であり、もちろんこの地域は、末子相続の一覧表作成にあたるフレイザーの注意を引いた。…末子相続は、つねに家族生活の父方ないし母方居住の方向性と組み合わさっているのである。末子相続は、一時的同居を伴う核家族システムにおける場合でも、〔父系か母系かの〕単系性の原則と不可分なのである。…男子であれ女子であれ子ども一般が継承するのだという場合には、男子であれ女子であれ[ママ]、一番下の子どもに特別の役割があるという考え方の出現につながることはない。ただし実際には、大抵の場合、こうした男女両性の末の子どもが、家と年老いた両親を引き取ることになるのであり、このメカニズムからは統計的な末子相続が生み出されることはあり得る」361頁
「〈起源的基底〉 フィリピン、ボルネオ島北部、セレベス〔スラウェシ〕における、核家族システムと双処居住システムは、極限的な周縁部に位置することと、末子相続原則も含めて、明解な組織編成原則を持たないことから、われわれとしては、これらは最も太古のシステム、つまりわれわれのモデルによれば、人類の起源的な類型と考えられるものにきわめて近いシステムの残存であるとみなすことになる。 この極限的周縁部では、家族構造と親族用語の間に素晴らしい照応を観察することができる。フィリピン諸島やボルネオ島、そして実を言えば東南アジアの残りのかなりの部分で見出されるのは、双方的ないし未分化的家族概念、すなわち男性の系統と女性の系統を区別することのない考え方を露呈する用語体系の絶対的な優位性である。このような用語体系としては、兄弟とイトコを区別する<エスキモー>型の用語体系と、それらを区別しない<ハワイ>型の用語体系のどちらかしかない。ユーラシアの最西端で行なわれるヨーロッパ的分類は、大抵はエスキモー型である」363頁→
「〈帝国期の変動 核家族の新たな類型〉
ローマの家族の歴史の標準的な姿というものは、最近まで、複合性から核家族性への、また権威主義から個人主義への粛々と進む前進という、ラスレット革命以前の家族の世界史の姿を凝縮したものに類似していた。ゲンス〔クラン〕が、ついでファミリア〔家門〕が、姿を消して行き、後期ローマ帝国時代には核家族に席を譲った、というわけである。この図式は、核家族性への逆行という図式と両立し得ることを、指摘しておこう。重要な差異は…伝統的な図式はも、ともに強力な父系制と複合性から出発していたという点である。
この古典的な進化論的ヴィジョンに対して…ローマの家族がより核家族的であると考えるサラーは、不変説へと向かうヴィジョンを対置する」476-7頁
「すでに中国のケースを検討した時から、父方居住で外婚制の共同体家族というものが、どれほど自然なものではなく、個人にとって拘束的なシステムであったかを、私は強調している。私の解釈では、この家族の出現には特別な条件が必要であった。中国では、まず定住民の間で父方居住直系家族が出現し、次いで北方の遊牧民に萌芽状態の父系原則が伝達され、この原則がステップにおいて対称化され、最後にそれが中国を征服することによって帰還を果たすという複雑な過程があった。ステップのクランの父系制的対称性が、中国の父方居住の直系家族の上に上塗りされることによって、父方居住の共同体家族の出現が可能となったというわけである。このモデルを私はインド北部に適用することができた」500-1頁
「共同体家族の2つの変異体を区別すべきではなかろうか。1つは縦軸によって支配されたもので、もう1つは横軸によって支配されたものである。家族構造によってイデオロギーが決定されることを論じた私のこれまでの著作の問題系を再び取り上げるならば、縦型の傾向が見られる共同体家族と横型の傾向が見られる共同体家族を区別することによって、セルビアならびにイタリアの共産主義とロシアの共産主義との間に存在する重要な差異を理解することができるはずであると、認めなければならない。ロシアのボリシェヴィズムの厳格さとイタリアおよびユーゴスラヴィアの共産主義の柔軟性との間の対比は、第3インターナショナルの歴史の決まり文句であった」。おそらくこれはグラムシ…の柔軟性とユーゴスラヴィアの自主管理の起源に他ならないのである」503-4頁
「<幻想1——起源的母系制>
…母系制の罠は、ギリシャ人の民族誌学者によって仕掛けられたものである。彼らは女性のステータスを著しく低下させた父系世界の出身で、女性の自立性を示すいかなる印をも系統的に母系制の証拠あるいは痕跡と解釈した。ギリシャ語の専門用語を用いるなら、〈家母長制〉(matriarcat)とか〈婦人覇権〉(gynécocratie)ということになるが、ここでは母系制とのみ言っておこう。…この罠は人文科学の歴史の最大の誤りの1つ、意味を持たない文書を大量に生産する、まさに精神の墓場となっていった。…
1861年に出版されたバッハオーフェンの大著『母権制(Das Mutterrechit)』は、あらゆる誤りの生みの親とみなすことができる。…中国の民族誌学者たちはギリシャの民族誌学者と全く同じように父系制的精神を持っており、したがってわれわれにチベットとインド北部に存在する女性国家の存在と歴史に関する『証言』を残している。バーゼルのエリートたるバッハオーフェンは、ギリシャ人と中国人のように、父系制は文明のより進んだ局面として家母長制の後に出現した、と明らかに信じていた」504-5頁
「現在の母系制社会と未分化社会の現実を観察した者にとってはまったく単純なある事実…女性のステータスは、実際は母系制社会よりも未分化社会の親族システムにおける方が高いのである。この真理は、母系制システム…が、征服的な父系制に対する反動にすぎないことを理解すれば、より容易に認められるようになる。女性がステータスと財産の継承の主体になったとしても、女性が未分化システムにおけるよりも支配的であるということにはならない。未分化状態では女性は単に男性と同じように自由に配偶者を選ぶことができる。母系制の下では、女性のステータスは、父系の組織編成におけるよりも当然高くなる。しかし女性はもはやシステムの中の1つの要素に過ぎないのであるから、そのステータスは、未分化の世界の中で占めていた位置と比べれば、自立性が減少したものとなるのである。母系制システムでの女性の中心性というものには、夫が平均して妻より10歳年上であるというような、きわめて大きな夫婦間の年齢差が伴う場合がある。要するに、未分化システムの特徴たる夫婦間の年齢の相対的同等性というものとは、大分異なるのである」505-6頁
「母系制は北アメリカのすべてのインディアン住民の特徴というけではまったくなかった。北アメリカには多数の家族システムの変種が共存していたのである。しかし親族名称分析によって、実際に人類学の歴史に革新をもたらした重要人物であるモーガンが母系制を主張したとなると、もう取り返しがつかなかった。…この理論はいまや成熟し、中国人類学に影響を与えることになる。中国人類学の方は、婦人覇権的幻想を語る己自身の古典的著作を再発見することになるのである。円環は閉じられた。ギリシャ民族誌学者と中国のマルクス主義者は、同じ父系制の社会の出身であり、時間的・空間的に遠く離れているにもかかわらず、容易に意見の一致点を見いだすことができたわけである。過去において、母系制、母方居住、家母長制、等々が支配していたという一致点を」506-7頁
「<幻想2——インド・ヨーロッパ父系制>…
最初は父系制であったとする仮説は、家族構造が複合的なものから単純なものへと進化するという仮説と容易に組み合わされる。メインはインド・ヨーロッパ語族が過去において父系制であったと想像した時に、彼は北部インドの〈ジョイント・ファミリー〉を念頭に置いている。彼はそれを古代的(アルカイック)なものと考えたが、これはその時代のヨーロッパのすべての学者たちが、核家族とは近代の獲得物であると想像していたのと同じ考え方に他ならない。…インド・ヨーロッパ語族という幻想は、歴史社会学の〔父系制という〕この常識に調和的に統合されていたのである。
父系制の仮説それ自体は、本来的には母系制の幻想と矛盾するものではない。ギリシャ人は文明化された家父長制という理想が、家母長制の後に現われたと想像していた。この両概念の両立が難しくなったのは、インド・ヨーロッパ語族という仮説が付け加えられたからである。なぜならそれによって、父系制ははるか以前の過去のものとなってしまい、〔起源的過去のものとされていた〕母系制の幻想が処理不可能になってしまうからである」510頁
「ギリシャは多数の都市国家に細分化されていたために、アテネの勢力伸長以前の、女性のステータスの高さの痕跡を観察することができる。…スパルタの女性のステータスは、古典時代には文化的常識であり、スパルタが古代的(アルカイック)であることの印と解釈されていた。アテネあるいはローマの父系制を、インド・ヨーロッパ語族全体に共通した古代的(アルカイック)状態の残滓として提示するというのは、実のところ、歴史的な良識がかなり欠けているところを曝け出すことなのだ。なぜならアテネとローマは、まずは類型に収まらない都市国家であり、その後、歴史的成功を収め、伝統の保守よりもむしろ革新[父系革新?]の場となったのだからである」511頁
「長子相続制度は、最後はドイツ語圏を支配することになり、イングランドにも影響を及ぼしたが、生まれたのはフランスにおいてである。この革新はカペー朝初期に、パリ盆地のフランス貴族もしくはフランス・ノルマン貴族のもとで始まった。…本書の全篇を通じて一貫するテーマの1つは、人類学においては、ある概念とその反対概念とは相対的に近接しているということである。例えば、父系制と母系制については、そのそれぞれが未分化性に対して持つ距離よりも、互いの間の距離の方が近いのである。家族生活に関しては、権威と自由、あるいは平等と不平等についても同じことが言える。権威と自由の2つはともに、世代間の実践的相互作用が不明確な状況というものに対立する。平等と不平等は両方とも、個人を互いにランク付けすることに対する無関心というものと区別されるのである。分析がここまで来ると、未分化性の概念を以下のように一般化することができる。すなわちこの概念は、父方親族と母方親族、自由と権威、平等と不平等の間に打ち立てられる区別がいずれも存在しないということを含む、と」520頁
「絶対核家族——もっとも平等主義核家族もだが——は、いかなる人類学的・社会的実体もない空虚の中で、それだけがひとりでに機能することができると思い込むのは、大きな誤りであろう。絶対核家族は、起源的家族を囲い込んでいた双方的親族集団を脱ぎ捨てて、一時的同居および末子による高齢の両親の世話という実用的慣行を捨て去って——いずれにせよイングランド中心部では——、純粋なものとなったわけだが、これらの要素に代わる代替メカニズムに頼る必要が生じる。ケンブリッジ学派はもちろん、家族の超個人主義によって生み出された具体的な困難が、いかにして管理され得たかということを、思料した。…現地の共同体の機能の仕方…その重要性は、広範な親族関係の役割が減少するにつれて増大するのである。16世紀から19世紀までのイングランドの特徴の1つはまさしく、小教区の扶助と拘束の役割が、国家に依拠しつつ、早期に制度化されたことである。これはおそらくヨーロッパでも唯一無比の事例である」549頁
「工業化以前の社会保障も、世帯の純粋な核家族的構造も、平等主義的核家族のケースで、支配的ではあるが排他的ではないものとしてわれわれが出会った、大規模農業経営がなかったなら、考えられなかっただろう。確かに核家族は他の形で機能することもあるだろうが、次のようなことは確実である。すなわち、農業賃金労働は、昔の農村の枠内では、一般的に小さな家と、庭と、多少の家畜、それに共同体の土地での入会地放牧権と落ち穂拾いの権利の所有を随伴するが、ここの賃金労働は両親と子供の分離を可能にするということである。賃金労働が老人を助けることがあるとしても、それは副次的なことにすぎない。一方、賃金労働のおかげで、若者は使用人として働くことで資産を蓄積することができ、次いで両親から独立して収入を得ることができるようになる。イングランドでは大農民の息子たちも他の大農民の家に使用人として送り出されていた。こうしたセンディング・アウト〔送り出し〕の慣行は、純粋に経済的な面ではまったく正当化されるものではなかったが、これなくしては農村上流階級における絶対核家族の作動は、考えられないのである」550頁→
(承前)「したがって平等主義核家族地帯と同じく絶対核家族地帯において、家族の核家族としての完璧性と農地の集中との間の連合が見出されるのは、意外なことではない。とはいえ大規模農業経営と核家族との相互補完性を強調するからといって、経済的決定の観念に賛同していることには、いささかもならない。農地の集中はたいていの場合、経済的近代化の過程の結果として出現するのではなく、ひじょうに古いかもしれず、もしかしたら社会が成立したとき以来であるかもしれない歴史に由来する構造的要素として姿を見せるのである。このことは、カウツキーが気付いたことであったが、マルクスはそれに気付かなかった。私は『新ヨーロッパ大全』で、中世の大領地と近代の大規模経営との間に存在する連続性を分析した。…
…イングランドのケースでは、17、18世紀のエンクロージャーの動きが、貧しい農民が持つ共同体内の権利を清算することによって、それまでにすでに二極化していた農村の形態を完成させた。しかしエンクロージャーの分布図それ自体、中世の大領地の分布図と合致していたのである」550-1頁
「ローマ法のユスティニアヌスによる変動は、平等主義核家族の出生証明であるとさえ言いたくなる。…晩期ローマが平等主義核家族にとって原型となっているという仮説は正しいだろう。
この最終的な形式化は6世紀にビザンティウムで行なわれた。しかし本当のターニングポイント、つまり父系的家族観から双方的家族ヴィジョンへと移る転換点は、はるかに早い時期に位置づけられなければならない。早くも共通紀元前2世紀」479頁