古いものを表示

「ル・プレイは、自由と平等の革命、そして権威と不平等という反対の原理(君主制、貴族、カトリックの原理)と革命との対決を念頭においていたからこそ、自由と権威、平等と不平等という2つの論理的組み合せを見つけ出すことができ、それが彼の始めの2つの家族類型の定義につながったのである。研究者の問題設定は、この場合、イデオロギーの衝突から生まれたわけである」69頁

「ル・プレイの著作を見てみると、彼がロシア農民それ自体においても共同体的・父系的発展サイクルが優勢であることを承知していたことが、分かる。彼の弟子の何人かが著したモノグラフは、このような発展サイクルが、中東の大部分に拡大していることを、明らかにしている。
 反動的な人間の特権と言うべきか、ル・プレイは、19世紀後半にほとんどだれもが抱いていた、家族構造は原始時代の稠密性から近代の個人主義へと進化したという観念に染まることはなかったのである。彼はガリア人に『不安定』家族を想定し、人類の過去は核家族的であったとする仮説においても、すでにラスレットやマクファーレンよりさらに徹底的であった。イングランド個人主義の再発見を、ラスレットはルネサンスで、マクファーレンは中世まで遡ったところで止めているが、ル・プレイの方は、ローウィやレヴィ=ストロースを待つまでもなく、確実なデータもない状況で、ガリア人の家族上の個人主義とアメリカ・インディアンのそれとの間の類似を示唆しているのである」72頁

ル・プレイ「彼ら[ガリア人]の不安定家族と社会組織の総体は、いまなお同じ緯度の北アメリカの広大な森林に住むインディアン狩猟民のそれと、多くの点で類似している。
…若者は、早期の自由が引きつける力に、つねに身を委ねてしまう。というのも、早くから両親の許を去って、自分一人で獲物の追跡に従事するより気楽な生活を自ら作り出すからである。狩猟は、優れて個人的な労働であり、家族内で共同体の慣習を絶え間なく破壊する傾向がある。狩猟民の許では、家族は最も単純な表現に還元されてしまう。すなわち、若い夫婦の結合によって作られ、子供の誕生によって一時的に増大し、次いで子供が早期に成人して独立することによって縮小し、最後は親の死によって破壊され、後には何の痕跡も残さない」72-3頁

「ル・プレイは当初、家族形態と狩猟採集経済を結びつける構造的な見方を抱いていたが、やがて彼は、〔そうした見方を超えて〕己の毛嫌いする核家族というものを、ガリア人から19世紀のシャンパーニュの農民の許に至るまで、探り出していくのであった」73頁

「〈サイクルα〉とは、以下のようなものである。夫婦が子供を作る、子どもたちのうちの1人が成年に達すると、結婚し、配偶者を自分の出身家族に来させることになる。若い夫婦は、最初の子供の誕生ののち、家を出て、自立した世帯を創設する。すると今度は、弟か妹が配偶者を出身家族に連れて来ることになる。こうした兄弟姉妹が次々と同じことをし、最後に生まれた子に至る。この子は、他の者に家を出るよう追い立てられることはないので、両親とともに家に残り、老年期の親の面倒を見る。したがって〈サイクルα〉では、最後に生まれた者が特異な位置を占めることになるわけである。
…〈サイクルα〉は、理の当然として先験的に、共同体家族や直系家族と同様に、父方居住、母方居住、双処居住という変種に下位区分されることになる。このうち双処居住変種というのは、現実にはほとんど存在しない」82-3頁

「私としては、システムが正規の運行状態にあるとき、最終的につねに夫婦を夫の家族の許に入居させることになるものは、単に父方居住と見なすことにする。当初の母方居住的同居が、10年、15年と続くか、それがやがて最終的形態となるような夫婦の比率が高い場合には、そのシステムを双処居住と分類することにしよう。…
 フレイザーが〈サイクルα〉を把握したのは、最後に生まれた者の特殊な地位を特定したことによってである。末子相続はそれゆえ彼にとっては、家族の財の大部分を1人の子供だけに与えるシステムである直系家族の様態の一つなのではなく、最も若い者が高齢の両親の世話をするという事実を考慮した補償のメカニズムなのである」83頁

「平等、不平等、自由、権威という価値の定義が不在であったために、私は『第三惑星』の中で、東南アジア(母方居住変種)と中央ならびにアンデス山脈アメリカ(父方居住変種)で支配的な、一時的同居と末子相続を伴う家族類型を、『アノミー的家族』と名付けることになってしまった。
…『アノミー的家族』という表現を用いて、私は、昔はより『正常』であった類型の、病的屈折とは言わないまでも、悪質化を示唆したわけだが、これは間違いだった」86-7頁

「父系性[ママ]と母系性は、同一の単系原理の2つの様態にすぎず、真の論理という点からは互いに近いものであり…大抵は空間的にも近いのである。伝播のメカニズムの的確な理解にしっかりと依拠していたローウィは、すでに父系と母系の親族システムは、遅い時期に出現したと結論していた。双方的(もしくは未分化の)親族システムは、重要性という点で父方の親族と母方の親族を区別しないのであるから、ローウィー[ママ]によれば、時間的に先行していたということになる」88頁

「〈近接居住ないし囲い地内集住の核家族〉
…狩猟採集民の現地バンドは、複数の親族核家族が組み合わさって、一段上の次元の単一性の中にまとまっているという様態の一つに他ならない。英語で書かれたモノグラフの中に見られる、compound〔囲いをめぐらした住宅群〕という語は、私は自由に『囲い地』と訳すのだが、こうした分析のレベルというものが現にあることを示している。
 囲い地が存在するときには、同居というものを、そしてそれゆえ家族というものを、ただ一つのレベルだけを持つシステムと考えることは不可能となる。核家族とこれらの核家族の集まりという2つのレベルでの構造化というものを認めなければならない。それが自立と依存との共存を可能にしているわけである」90-1頁

「家族集団の分析では、ヤーマンの方がリーチよりはるかに優れている。家族システムの二元性の知覚に達しているからである。核家族を識別する要素は、ヤーマンによれば、調理場を所有しているということで、調理場は消費の単位をなす。ところが、1つの住居の中に複数の調理場が共存することもあるのである。しかしその場合、[リーチのような]家屋やcompound〔囲い地〕に関心を向ける者は、近接関係にある核家族というよりは、拡大家族を見ることになるだろう」93頁

「2001年にディオニジ・アルベラは…アルプス型直系家族の神話を破壊した。直系家族というのは山地と緊密に関連するという誤った常識は、経験的な現実の誠実な検討から派生したものではなく、むしろル・プレイの概念構築作業から派生したものであるらしい。アルベラはル・プレイの聖三位一体の最も根底的な総体的批判を作り出した。それが還元的であり、現実を見えなくする効果をもたらすことを、明らかにしたのである」95頁

「3つの変種(双処居住、父方居住、母方居住)に分かれる<一時的同居を伴う核家族>というものは、本質的に重要である。それに対して、親族の核家族が現地集団の中に集まっているという近接居住の概念は、一時的同居を伴う核家族の3つの変種というものに付け加わる新たな類型の定義につながるとしてはならない。一時的同居は、その後に親族家族の近くに居を構えるということ〔近接居住〕があまりにもしばしば起こるのであるから、新たなカテゴリーの追加は、大抵の場合、二重化と混同を引き起こすだろう。…一時的同居を伴う核家族と近接居住を伴う核家族は、1つの類型の中の2つの微妙な違い(ニュアンス)をなすにすぎない。
 それに対して、囲い地の中に<統合された核家族>は、一時的同居より以上のものを表象している。物質的限界による形式化は、より緊密な夫婦単位間の協力を含意する。したがって囲い地への統合…は、まさに一時的同居を伴う核家族から共同体家族へと仲介する中間的カテゴリーを作り出すのである」96頁

「<二重性> 家族の現実については、同時に2つの分析のレベルが存在することを忘れてはならない。核家族(夫婦とその子ども)のレベルと、核家族が集落に集まり協力することのできる枠組となる上位のレベルである。…核家族は外見上は〔核家族として〕『純粋』な形態を呈しているが、それはつねに代替の社会組織の中に統合されているのだ…それは、工業化以前の農村部における大規模農業経営に依存する村落共同体であり、現在の社会の場合では、社会保障型のメカニズムを含み持った、さまざまの形をとる地域共同体ないし一国共同体である。いずれの場合にも、国家というものが要になるように見える」97頁

「<別居と凝縮> しばらくの間、狩猟採集民の原初的社会形態、ということはすなわち人類の原初的社会形態は、双方的な親族の絆によって組織編成された現地バンドの中に組み込まれた、一時的同居を伴う核家族であった、としておこう。このシステムは、個人がそれに加わる際に選択の余地をたくさん残してくれる、かなり緩やかなものである。これなら、分化〔差異化〕によって、他の家族形態につながる先験的なモデルを容易に構築することができるだろう。というのも、このような原初の類型は、母細胞のように、すべての潜在性を内包しているからである。それは、人類学の古典的な次元のどれにおいても、『分化』していない。それは、複数の夫婦の別居が増大し、一時的同居が消滅することによって、核家族的方向へと特殊化することができる。逆に、双方的か父方居住か母方居住かの、安定した隣接関係の方へと進化し、やがては直系家族ないし共同体家族型の最終的な同居へと進化することもできる。別居は、基本的な動態的要素となり得る。それから機械的に生み出される効果の一つとは、複数家族が別居するか、安定的近接居住もしくは決定的同居によって稠密化するかの選択が、突きつけられるということである」97-8頁

「定住化は、農耕への移行と同じとすることはできない。中東の歴史の研究者は、今や定住化が植物の馴致に先行したことを認めている。それは、共通紀元前1万年のナトゥフ文化の最終局面の検討が証明しているところである。日本では、定住していたと思われる海産物採集者は、列島に農耕が出現する7000年以上前に土器を発明していた。…それらの家族形態の中には、それでもまだ核家族の隣接原則の痕跡が感じられる。
 逆に言うなら、農耕は決定的な定住化を意味するものではない。焼畑の技術は、数年間土地を開墾したのちに、集団が居住地を移転することを前提とする。より集約的な、しかし拡大的でもある農耕は、新たな開拓へと行き着き、諸家族の一部の拡散を助長する」98頁

「稠密化の過程にあるシステムの中では、居住先家族の選択について固定した選好が姿を現わすと、想像することができる。それが父親の家族なら、父系原則の出現へとつながり、母親の家族なら、母系原則の出現へとつながることができるが、ただし後者は…より稀に起こることである。ひとたび原則が確定すると、父系性もしくは母系性は、その厳密さそのものによって、家庭集団の追加的稠密化を促進して行く」98頁

「完璧に一貫性ある類型体系を先験的に定義するのは、不可能でもあれば無用でもあるのだ。なぜ今になって、人間精神の力の中に世界の現実性を探し求めるピタゴラス派ないしデカルト主義者の呪術的宇宙へと退行しなければならないのか。実を言えば、類型体系とは、図面なり図式のような具合に、データを展示する便宜を提供するにしても、それ自体ではいかなる科学的有用性も持たないものである。それにとって外部的な、1つないし複数の他の変数との関係の中に置かれるのでなければ、興味を引くものではないのだ。例えば『新ヨーロッパ大全』の4区分の類型体系が興味深いものであったのは、それがもたらす優れてイデオロギー的な判断基準が、農民の家族形態の多様性と近現代イデオロギーの多様性を、地理的分布の上で一致の状態に置くことを可能にしたからに他ならない。同様にして、15のカテゴリーの類型体系が興味を引くのは、地球上で観察可能な家族形態が互いにどのような割合を占めるのか、それを他の変数との対応関係に置くことができる形で記述することを可能にするからに他ならないのである」108頁

「核家族は、それが農耕という点で定義されるにせよ、都市化や識字化という点で定義されるにせよ、近代性と合致するわけではないのであり、複合家族の方も、未開性の地図と一致するわけではない。しかし本書においては、真の突き合わせは、空間との突き合わせであり、定義された類型が、それぞれ全く異なる、しかしそれぞれに有意的ないくつもの地帯に位置するのを、われわれは目にすることになるだろう。
 15区分の類型体系は、家族の組織編成のさまざまの形態を分類し、次いで空間の中に位置づけ、それらの位置の相互の関係から、それらの古さと進化の度合とについての明快な結論を引き出すことを、可能にしてくれるのである」108頁

「アラン・トレヴィシック…『結婚していると考えられる6億3500万人の地球上の男性人口のうちの確率は以下の通りである。一妻多夫的婚姻の者は1.1%、一夫多妻婚姻の者は3.8%、排他的同性愛者は4%、そして単婚の者は93%』…さまざまな婚姻様態の相対的比重が同じでないということは、先験的な価値判断に依拠するまでもなく了解できる。婚姻類型の統計的分布を見るなら、人類が単婚への傾向を持っているという穏当な結論に行き着くことになるのである。この断定は、一妻多夫婚を、いわんや一夫多妻婚を、いささかも異常な類型とするものではないが、全総体の中へのこの両者の取り組みを副次的なものにするようなデータ分析の戦略を示唆するものである」118-9頁

「件数と、結果の明瞭さとに鑑みるなら、双処居住にして核家族という家族構造は、周縁部的であり、それゆえに古代的(アルカイック)・保守的であるのは、確実なこととして提示することができる。<地図2-3>は、ユーラシアの人類史について何やら根本的なことを伝えているのだ。周縁部の核的かつ双処居住の家族モデルは、おそらくもともとは、大西洋と太平洋の間に位置したすべての住民集団の特徴であったシステムの残滓に他ならない、ということである。ブルターニュとフィリピンの間、ポルトガルとベーリング海峡の間、ラップランドとアンダマン諸島の間に居を構えた住民集団の身体的外見がひじょうに多様であるということは、この類型が、ユーラシアの人類が互いに異なるいくつもの表現型〔身体的外見〕に分化する多様性をもたらすことになった集団の拡散よりも、時代的に古いものであることを、示唆しているのである。本書第II巻で行なわれる、アフリカ、アメリカ、オセアニアについての家族に関するデータの分析は、身体的外見の差異の出現よりも時間的に先立つ起源的な家族原型についてのこの印象を、確証してくれることだろう」132頁

「あまりにも単純な家族類型体系に捕われていた当時の私は、モンゴル、カザフ、キルギス、トルクメン、ベドウィン・アラブ、もしくはイラン人集団の父系のクラン的組織編成は、家庭集団の共同体構造に対応するものではない、ということを見抜くことができなかった。というのも、これらの集団の明示的な父系イデオロギーは、一時的父方同居を伴う核家族構造の上に、重なっているのである」133頁

「母方居住というものは、とくに母系制というその極限形態において、〈対抗模倣〉ないし〈異文化の分離的否定受容〉の現象であるということで説明がつくことが分かって来る。なお〈退行模倣〉とは、ド・タルドの言葉であり、〈異文化の分離的否定受容〉とは、ドゥヴルーの言葉である。つまり母方居住は父系制の接近に対する反動であり、それの地理的分布が接触前線のような様相を呈するのは、まさにそのゆえに他ならないのである」154頁

「歴史上最初の中国王朝である商〔殷〕王朝…は、兄弟間の横の継承の慣習を出現させている。権力は、次の世代に移る前に兄から弟へと移行し、そののち長兄の長男へと戻っていく。横の動きに続いて、次の世代の年長の甥へと斜に降りるという相続のシークエンスは、『Z型継承』と名付けることができる。…古代日本や初期のファラオのエジプト、さらには今日のアフリカにおいて、これは何度か見出されることになる。…兄から弟への継承と、〈サイクルα〉の特徴である横への移行との間に何らかの関係があり得る。…
 さらに言うなら、亀甲上の文字は、兄弟間の継承を示唆しているとしても、父系社会を喚起しているわけではないのである」184頁

「〈直系家族の出現の背景としての稠密な農業〉
…出発点としては、狩猟採集民と最初の農耕民の特徴である、より幅広い双方的親族集団の中に組み込まれた、一時的双処同居を伴う核家族…農耕の進化と家族の進化の間には必然的に機能的関係がある…
 フレイザーが指摘していたように、最近結婚したばかりの子どもが両親の許に留まり、やがて次の者が交替する〈サイクルα〉は、流動的住民集団および拡張的生産システムと高度に両立する…しかし〈サイクルα〉は、移動農耕と全く同じように拡張的定住農耕とも両立する…実際には、初期の農耕民にとって、出発を促す力はきわめて強い。新しい土地は古い土地よりも肥沃だからである。古い土地の再生は、古い共同体にとって早くも問題となる可能性がある。フレイザーが記したように、『新石器時代の経済は拡張的である』…
…領土拡張のこの農業システムにおいて、土地の分割は可能であるが必須ではない。明確な遺産相続規則の定義は、無用であろう。したがって、平等原則も不平等原則もないのである。この局面においては、父方居住の実践も規範も想定させるものは何もない。とはいえ私は、一種末子相続制のごときものを想定する…非父系的で、遺産の最後の分け前を、両親の面倒を見る男子もしくは女子の子どもに与える、というだけのもの」189-91→

(承前)「しかし最後には、この拡張農業文明の中心部では土地は希少になり、ピエール・ショーニュの表現を借りるなら、『満員の世界の時代』が徐々に腰を据える。移住することは容易でなくなった。生産の増大は集約化の形態をとらなくてはならない。…こうした初めて、さまざまな子どもの遺産相続への権利についての理論的な問題が提起されることになる。可処分の財の量が、拡張可能な総体ではなく、有限の総体として知覚されたからである。ヨーロッパについて研究した多くの歴史家たちに続いて、私も、直系家族の仕組みが発明されたのは、どの土地にも持ち主がいるというこの閉ざされた世界の中においてであると思う。不可分性の規則は、地所の一体性を保証する。地所すなわち、社会的階層の上の者にとっては封土であり、下の者にとっては農場である。はるか後になって長子相続制が出現したヨーロッパのケースにおいては、その発明は社会構造の最高水準、すなわち王に由来する…」191-2頁→

(承前)「私は、必然的な因果過程を喚起しているわけではない。閉ざされた空間内で稠密化した定住農耕は、ここでは単に直系家族の出現に好ましいコンテクストとして記述されているにすぎない。直系家族は定住農耕の中につねに現われると、言っているのではない。…また、一たび発明された直系家族のメカニズムは、この元々のコンテクストから独立して広まることはできないと、言っているわけでもない。…
 この非常に慎ましいモデルは、なぜ不分割はたいていの場合父系的であるのかを述べることはできない。…歴史の中で観察される家族的シークエンスは、人間という種の心理的作動〔動き方〕について、何事かを明らかにしてくれると考えたいものである」192頁

「〈末子相続は長子相続よりも前か後か〉
 不分割の規則こそ、直系家族の作動を可能にするものだが、これにはいくつかの変種があり、主要なものは、長子相続と末子相続である。このうち前者の方が、はるかに頻繁である。…ここで私が関心を向けるのは、不完全な、〈レベル1の父系制〉に対応する父方居住直系家族についてである。…
 フレイザーの論理に従うなら、末子相続の方が先とする見方に行き着くだろう。彼は、末子相続制を〈サイクルα〉の『自然な』到達点と考えていた。…このような末子相続は、まだ不分割の規則によって規定されたものとすることはできない。これは何らかの直系家族システムを定義するわけではない。…農耕空間が閉ざされたことと不分割の概念の出現とが、どのように〈サイクルα〉の末子相続を変形するに至るのかを想像するにあたって、フレイザーのモデルは容易に延長することができる。すでに習慣によって家の相続者として指名されている最も若年の息子は、こうなると土地の不分割というものの恩恵に浴することになるだろう。そうなると、末子相続は意味が変わってしまう。拡大することをやめた世界の中で地所の大部分を所有する権利、つまり紛れもない特権となるのだ」193-4頁→

(承前)「これより後の段階になると、空間の完全な閉塞は規則の逆転を引き起こし、末子相続を長子相続へと転換させることになるかも知れない。他所へと移住する可能性を完全に奪われた長子は、最終的には『(成年に)先に着いた者から、先に食事にありつける』〔早い者勝ち〕という規則の効力で継承者として選ばれることだろう。…
 このようなシークエンスを暗示することができる事例は、かなりの数に上る。…ヨーロッパでは、実際に相続上の特権を含意するような末子相続を伴う直系家族は、長子相続を伴う直系家族に対して、たいていの場合、周縁部的である。空間内のこのような配置は、直系家族の歴史に2段階がある、すなわち第1段階は末子相続で、第2段階は長子相続であるとの仮説の検証となり得るであろう。
 男性末子相続から男性長子相続を引き出そうとするならば、一時的同居を伴う核家族の段階で単系制が出現したと仮定しなければならない。それはつまり、単系制は、当初は平面軸に沿って兄から弟への継承を伴って発展したということになるだろう。革新は、拡張的農耕システムというコンテクストの下で、ことさら生産システムの危機もないところで起こった、ということになる。だとすると、それはいかなる適応の刺激要因もないところで起こった純然たる発明であった」194頁→

(承前)「既知の事実と両立可能な解釈はもう一つある。一時的双処同居を伴う核家族の世界に直接、長子相続を伴う直系家族が出現したと仮定するのである。そうなると、単系制は、兄から弟ではなくむしろ父から息子へと続く縦の継承として、直ちに考案された、ということになろう。然るのちに、直系家族の父系革新は、自律的に、人口密度が低い周辺地域へと伝播・普及したということになり、それによって、それらの地域の一時的双処同居を伴う核家族が父系居住へと方向転換することになった、ということになる。…父系制が外部から到来して、父方居住制と明示的な男性末子相続とを同時に誘導したとする仮説は、一時的双処同居を伴う家族が実際上決して末子相続の規則を含むことがないことを示しているデータの解釈に、ぴったりと適合するのである。…
 提示された2番目の解釈によれば、末子相続は、長子相続とともに生まれた父系制の伝播に対する、部分的には分離的な適応反動にすぎない、ということになろう。この仮説の試みもまた、長子相続の周りに分布するという、末子相続の周縁部的配置を実に的確に説明する。それは中国のデータと完璧に両立する」194-5頁

「共同体家族と〈レベル2の父系制〉への移行…
…父方居住共同体家族の構造の定着と、それが女性のステータスに及ぼした長期的帰結を、慎重に区別して考えなくてはならないのである。〔女性の〕根底的な劣等性という観念は、少しずつ定着したにすぎない。ここでは、きわめて長い期間をかけて刻み込まれた心性の変遷を考えなければならないのである。
 この漸進的な現象が、中国でいかに進行したか…例えば、纒足は、女性を劣ったものにしようとする欲求と性的ファンタスムが交じり合って複雑に入り組んだコンプレックスをなしているわけだが、これが姿を現わしたのは、〈レベル2の父系制〉への到達のすぐ後というわけではなく、父方居住共同体家族の定着後1000年ほど経った、共通紀元後900年から950年までの間にすぎない」211頁

「中国は、家族システムを段階的に単純性から複合性へと導いて行くシークエンスを研究する機会を与えてくれた。このシークエンスは…複合性から単純性へ、共同体主義から個人主義への進化を把握しようとしていた、家族についてのこれまでの歴史社会学とは対立するものである。中国のシークエンスの場合、まず一時的同期を伴う核家族であったと思われる段階の次に、直系家族が現われ、そして最終的には、共同体家族システムが取って替わるが、それは息子の中の年長者に重要な儀式上の役割を残しておく直系家族段階の印を留めている」213頁

「家族類型(一時的同居を伴う核家族、父方居住直系家族、父方居住共同体家族)が姿を現わす順序は、諸価値の発明の一つのシークエンスを定義づけるが、そのシークエンスは、西洋政治学の表象とあまり一致しない。出発点は非定義状況であって、そこでは権威と自由、平等と不平等という近代的な概念は、ただ単に当てはまらないというだけの話である。一時的同居を伴う核家族は権威主義的でも自由主義的でもなく、平等主義的でも不平等主義的でもない。直系家族とともに、権威と不平等の概念が現われるが、それはすでに男性性の概念に結びついている。次の段階になると、共同体家族は権威の概念を受け継ぐが、それに平等の概念を付け加えるという革新を新たに施す。そこで平等の概念は不平等の概念にとって代わることになる。平等の概念はこの段階では男性にのみ関わる。…
 これは、平等を最も遠い過去の中に置き、不平等を直近の現在の中に置くルソーのシークエンスとは、正反対である。家族システムの歴史は、不平等の概念が平等の概念の前に発明されたことを示唆している」213-4頁

「人口統計学的推定では、縄文時代末期の日本列島の人口は16万人である。これは、採集と狩猟が支えることができた人口密度としては、相対的に高いものである。インゲン豆とごまの乾燥栽培が、最終段階で登場するが、日本の歴史の当初の独自性を最もよく説明するのは、海からもたらされる食物の重要性である。
 漁労というのは、生存手段として動物を捕食する営みのうち、現実的に農業革新の後に生き残って今日に至るただ一つのものである。今日なお、特に日本には、経済的に有意的な漁労民が存在する。…しかし、19世紀にヨーロッパ人と接触するようになったアメリカ大陸の北西海岸のサケ漁労民も、複合的な文明を築いていた」226-7頁

「縄文時代末期のものと推定される墓穴の中の骸骨の遺伝子分析を用いた最近の研究は、日本の南西部の異なる2つの地域に位置する2つの共同体において、婚姻後の夫婦の居住は双処居住だったことを検証した。その方法はまことに単純で、遺骸の調査によって、女性の骸骨の間と男性の骸骨の間で、遺伝子レベルでの血縁関係の量に差がないことが明らかになったというものである。それは農業の発達と列島の人口の大量増加より前の住民に関することであるが、この結果は、本書の中心的仮説を飛躍的に強化してくれる。歴史を最も遠い過去へと遡ると、そこで観察できるのは、実はわれわれが近代的だと信じているもの、すなわち、婚姻交換において男性と女性に異なる位置を割り当てることのない双方的親族システムに他ならないということである。…
 日本は、共通紀元以降、侵略されることなく歴史が続いた稀なケースを提供している。…日本はもちろん、家族形態の伝播・普及の過程から守られて来た[ママ]わけではない。しかし、伝播のベクトルは軍事的形態ではなかったという点には確信を持つことができる。伝播・普及は、日本においては、宗教者や商人や海賊といった、日本文明が海外に派遣した者たちが国外で観察した形態を自発的に模倣した結果であった」227頁

「[日本の]養子縁組は、実際には、母方居住の入り婿婚を形式化したものであった。これによって、娘による遺産の継承が可能になるのである。養子となる者は、親族の中から選ばれるのではあるが、世帯主の親族から選ばれるのが義務ではなく、時として世帯主の妻の親族の中から選ばれた。父系親族しか養子として認めない朝鮮のシステムとは、非常にかけ離れている。…
 男性長子相続も、普遍的ではなかった。…日本の南西部では、末子相続や、相続人の自由選定や、稀ではあるが、財産の可分性さえも観察される共同体が少数ながら存在した。北東部では、年長の娘が弟たちに優先する、絶対長子相続制が行なわれるところがあった。この多様性は、ゲルマン的周縁部での末子相続制やバスク地方の絶対長子相続制といった、ヨーロッパにおける等価物を参照するよう仕向けるがゆえに、最も常套的なル・プレイ的ヴィジョンを強化する」229頁

「〈長子相続の台頭〉
 現在入手可能な歴史データの示すところでは、男性長子相続が本当に日本に、その貴族層の中に登場したのは、鎌倉時代…後半になってから、すなわち、13世紀末から14世紀初頭までの時期においてであった。…農民層の中に不分割の規則が登場したのは、その頃か少し後のことだったと仮定することができる。家族変動がどのような社会階層の中に起こったのかという問題は、ある意味では言葉の用い方に関わる。というのも、日本の封建時代初期の特徴の一つは、ほとんど貴族である武装大農民と言うか、ほとんど農民である小貴族と言うか、どちらとも決められない中間的階層の登場だったからである。平均的階層を中心にして、その上と下に細かく階層分化したこのような農村的社会形態は、直系家族の古典的な相関者である。ここでは、どちらが原因でどちらが結果なのかは、即断しないでおこう。遺産の不分割の規則は、農村社会の両極化を妨げる。同じ現象がヨーロッパでも、フランスの南西部や南ドイツで観察される」240頁

フォロー

「この[東南アジアの]双処居住の地理的空間の中では、2つの類型が優越…1つは、本書で提示されたモデルに完全に合致する結果を示す近接居住を伴う核家族、もう1つは、非定型的な直系家族である。後者がモデルの観点から『正常』〔規範にかなったもの〕でないと言うことができるとすれば、それは双処居住のゆえに他ならない。
 『双処近接居住を伴う』家族とはいかなるものか。それは、男と女のどちらから始まっても構わない無差別的な親族のつながりによって集団の中に組み入れられた、純粋な核家族である。もっぱら世帯だけに関心を向けるなら、いかなる拡大も姿を現わすことなく、把握できるのは、両親と子どもを結び付けるだけの夫婦的形態という最も単純な家族形態のみである。それは、イングランドの絶対核家族あるいはパリ盆地の平等主義核家族に似ている。もちろんこの核家族は、『ロビンソン・クルーソー』の夫婦版よろしく、社会的空虚の中に存在するのではない。協力と相互扶助の集団の中に組み込まれているのであり、その集団なしには、生き延びることはできない」356頁→

(承前)「私は、分析と現実の2つのレベルが存在することを強調した。複数の夫婦を連合させる稠密な家族形態は、特に共同体的家族形態は、一段上のレベルを知覚することを副次的なこととしてしまうが、このレベルは相変わらず存在している。しかし、国家的組織編成を持たない狩猟採集民なり焼畑農耕民の核家族の場合には、複数の家族を包含する集団を知覚することは不可欠である。これらの住民集団は、現代的な社会の枠組の中へ統合されたのが近年になってからであるため、流動的だがなくてはならないこうした現地親族集団の重要な痕跡が存続することとなったわけである」356-7頁

「東南アジアにおいて末子の位置というものは、文化的に目立った要素であり、もちろんこの地域は、末子相続の一覧表作成にあたるフレイザーの注意を引いた。…末子相続は、つねに家族生活の父方ないし母方居住の方向性と組み合わさっているのである。末子相続は、一時的同居を伴う核家族システムにおける場合でも、〔父系か母系かの〕単系性の原則と不可分なのである。…男子であれ女子であれ子ども一般が継承するのだという場合には、男子であれ女子であれ[ママ]、一番下の子どもに特別の役割があるという考え方の出現につながることはない。ただし実際には、大抵の場合、こうした男女両性の末の子どもが、家と年老いた両親を引き取ることになるのであり、このメカニズムからは統計的な末子相続が生み出されることはあり得る」361頁

「〈起源的基底〉
 フィリピン、ボルネオ島北部、セレベス〔スラウェシ〕における、核家族システムと双処居住システムは、極限的な周縁部に位置することと、末子相続原則も含めて、明解な組織編成原則を持たないことから、われわれとしては、これらは最も太古のシステム、つまりわれわれのモデルによれば、人類の起源的な類型と考えられるものにきわめて近いシステムの残存であるとみなすことになる。
 この極限的周縁部では、家族構造と親族用語の間に素晴らしい照応を観察することができる。フィリピン諸島やボルネオ島、そして実を言えば東南アジアの残りのかなりの部分で見出されるのは、双方的ないし未分化的家族概念、すなわち男性の系統と女性の系統を区別することのない考え方を露呈する用語体系の絶対的な優位性である。このような用語体系としては、兄弟とイトコを区別する<エスキモー>型の用語体系と、それらを区別しない<ハワイ>型の用語体系のどちらかしかない。ユーラシアの最西端で行なわれるヨーロッパ的分類は、大抵はエスキモー型である」363頁→

(承前)「新郎新婦に男性の家族の方か女性の方のどちらに居を構えるかを自由に選ばせる一方、夫の親族と妻の親族の間にいかなる呼称の差も設けない人類学的システムは、同質的とみなすことができる。それに対して、東南アジアの母方居住部分では、親族用語体系は未分化的であり、家族システム〔は母方志向であり、そ〕の方向性とは軽い矛盾状態にあるように見えるかもしれない。…
 フィリピン群島とボルネオ島で観察された、家族システムの双処居住性と親族用語体系の未分化性の間の良好な照応関係は、これまでにあまり進化しておらず、そのすべての諸要素が古代的(アルカイック)で、いまだに調和を保っている、そうしたシステムを喚起するのである」364頁

「言語にせよ宗教にせよ、[東南アジアの]文化的にきわめて多様な空間の上に、『一時的母方同居と末子相続とを伴う核家族』という共通規範が、適用の度合いには差こそあれ、ともかくも優勢であるということをいかに説明するのか…家族構造の歴史としては中間的なこのレベルにおいて、一様な文化成層が見られることを、どのように説明したらよいのだろうか。
 この問いに対しては、1つの単純な答えしか存在しない。家族という点でこのように定義された地帯に、ある時点において対応したのは、ただ1つの明確に定義された空間、すなわち、共通紀元の始まりから小乗仏教およびイスラム教の導入までの間、この地帯で活動を続けたヒンドゥー文明の空間であった。一時的母方同居を伴う核家族の空間は、ジョルジュ・セデスが『外側のインド』と呼ぶもの、つまり、ヒンドゥー教の影響下で、東南アジアのうち、文字、宗教、国家、石の建築物の時代に平和的に参入したこの部分と一致しているのである。空間的な一致は、ほとんど疑いの余地を残さない。しかし。1つの逆説に立ち至る。文明化の要因たるインドは、その地域に影響力を行使したときに、レベルはさまざまに異なるにせよ、すでに父系化されていた、という逆説である」367-8頁

「すべての時代にわたって、[東南アジアへの]インドの影響は、程度の差はあれ、父系の側面を含んでいたはずである。男性長子相続を強調する『マヌ法典』は、東南アジアに到達している。
 いずれにせよ、父系原則が、バラモン僧、商人、冒険者たちによって運ばれて、東南アジアに達したことは確信することができる。しかし、それには軍事力の支援がなかった。父系原則は、インドから押し付けられたのではなく、言うならば、提案された威信ある文化システムの一要素として到来したのである。…
 入手可能な歴史資料は、父系原則は王侯や貴族階級によって適用されたが、住民の大部分はこれを適用しなかったことを、示唆している。〈外側のインド〉の諸社会の二重性、すなわち、ヒンドゥー化された貴族階級と昔からの風習を忠実に守り続ける住民集団という二重性、そしてとりわけその2言語性をつねに念頭に置いておかなければならない」368-9頁

「インドから[東南アジアに]到来した父系原則は王国と貴族階級に及んだが、そのとき父系原則は、まだ第1レベルにしか達していなかった。つまり、女性による継承が時宜を得ているのなら、それを拒みはしないというものであった。…出現したばかりの頃、父系原則は過激化していなかった。もっぱら継承という観念に支配されており、男女間対称性や女性の劣等性の観念にはそれほど支配されていなかったのである。
…女性による継承が一定の割合であるとしても、それは母系規範を想定するものではないのであり、〈レベル1の父系制〉システムを定義するには、一定の割合の女性による継承が、男性による継承に追加される必要があるのである。
 社会構造の中層・下層になると、文化の輸入は、おそらく全く別の結果、分離的な否定反動という効果をもたらした。すなわち、もともとは未分化なシステムが母方居住に屈折したのである。母方居住の末子相続は、父方居住の長子相続の反転と考えることさえできる。外国からの影響の否定と社会的な分化は、ここでは同じ方向で作用したのである。
…長期的にはこの地帯全体を、明確な母系制に構造化し直すのではなく、時として薄弱な場合もある母方居住への方向付へと導くことになった」371頁

「1 東南アジアは、もともと、未分化の親族システムと、近接居住ないし一時的同居を伴う双処居住親族システムを特徴としていた。いまでもフィリピンで観察されるシステムのような型のものである。
2 ヒンドゥーの父系原則の到来は、貴族階級における父系・父方居住の構造の構造の出現による、二元的家族文化の台頭を現出した。…バリ島で観察することができるものに近い、統合核家族と直系家族の間で揺れ動く、それほど明確ではない形態…これは貴族や王族の家系の動き方にぴったりと適応しているのである。
3 大陸とインドネシア諸島の民衆階級の中では、支配者の父系制は、母方居住反動を生み出した。それはたいていの場合、きわめて不完全なもので、末子相続の、一時的同居を伴う核家族システムの形成をもたらしたにすぎない。
4 ヒンドゥー教貴族社会の崩壊によって、父系の上部構造は消滅することになり、あとには民衆の母方居住原則が存続するばかりとなった。ただしそれは、カンボジアやミャンマーでは、その出現を引き起こした父系システムからする負の刺激がひとたび消滅してしまうと、弱体化することとなった」373-4頁

「〈家族と人口密度〉
…中国、日本、北インドの場合、父方居住直系家族と人口密度の増加との間に機能的関係があるかどうか、私は先に自問したものである。全面的に操作が行き届いた〈満員の世界〉の実現が、長子相続という相続が浮上するための好適な枠組みをなしていると、示唆したことがあった。新たに開拓すべき土地の欠如は、やがて、長男を両親の農地に押し止め、農業実践を集約化することに立ち至る。そうなると今度は、父方居住直系家族が、その効率性によって農村の人口密度の追加的増加を促すことになった。とはいえ、いかなる厳密な因果関係も確証されておらず、私はまた人口稠密化とは無関係な直系家族観念の伝播の可能性も喚起したものである」379頁

「ユーラシア大陸の最西端部をなす複雑に入り組んだこの半島[ヨーロッパ]には、古代的(アルカイック)家族形態のかなり見事な見本集を観察することができるのである。しかしながら全般的に言って、この地域に家族の起源的形態を見いだすことはないだろう。内因的な原因によるにせよ、のちに父系原則が到来したことで誘発されたにせよ、ともかく変化が起こることは起こった。しかし、こうした変化は、本書で研究している進行過程の尺度からすれば、近年のこととなる。直系家族の例は特徴的である。中国の場合には、共通紀元前1100年頃に、長子相続の原則が貴族階級の中に出現した、と私は述べている。…これとほぼ同様の男性長子相続がヨーロッパに出現した。…フランク人の貴族階級における長子相続の出現は、10世紀末に遡る。…直系家族という人類学的類型の前進…これは耕作適合地の人口密度の上昇という内因的必然性の結果であると同時に、威信効果による伝播運動の結果でもある。…彼[ディオニジ・アルベラ]の研究によれば、それがアルプス地方に到達したのは16、17世紀のことだという。これよりもさらに時代は下るが、19世紀後半のアイルランドにおいて、1845年から1851年の大飢饉の後に、遺産分割の慣習が放棄され、男性長子相続が定着するようになった」420-1頁

「ヨーロッパにおける直系家族の歴史は、中国に2000年の遅れをとっている…ヨーロッパのケースは日本のケースにかなり似通っているが、遥かに規模が大きい。ヨーロッパの多様性は、日出ずる国のそれより比較にならないほど大きいのである」421頁

「フランス、イタリア、スペインもしくはポルトガルの平等主義核家族は、かなり長い歴史の結果である。平等主義核家族は、ローマの家族の歴史を知らなければ理解することができない。それは古代性(アルカイズム)と近代性の精緻な組み合わせの結果である。イングランドの絶対核家族についても同じことが言える。この2つのケースでは、純粋な核家族的特徴が、次のような複合的形態との相互作用から生じていることを確認することになろう。すなわち、平等主義核家族の場合は、ローマの父系共同体的形態、イングランドの場合はフランス・ノルマン貴族によって持ち込まれた直系家族である」422頁

「初期の農業は粗放・移動型のものであった。耕作適合地域の安定化には、数千年を要することになろう。西ヨーロッパについては、この安定化が完成するのは、10世紀から13世紀の農業の拡大の終了の時であると考えることができる。14世紀前半には西ヨーロッパには、ピエール・ショーニュが〈満員の世界〉と定義した段階に到達する」423頁

「父系制は、4つの異なった軸にそってヨーロッパに作用を及ぼしている。
 1 中東の父系制が古典古代の全期間を通じて、地中海の東から西への軸に沿って広がり、ギリシャ、次いでローマに到達した。
 2 共通紀元5世紀のフン人の侵入は、ステップの遊牧民の父系原則——おそらく中国起源——の到来をもたらした。この侵入も東西の軸にしたがって行なわれたが、はるかに北方で行なわれた。それに続いて、同様の侵入が数波にわたって行なわれたが、その最後のものは13世紀のモンゴル人の侵入である。
 3 アラブの父系制は、ギリシャ人とローマ人のものと同じく中東に由来するが、7世紀から南を経由して、スペインと地中海西部の諸島嶼に達した。
 4 トルコ人の侵入は、15世紀から始まり、南東から北西への軸に沿って進んだが、これが父系制の4番目の勢力伸長にほかならない。
 全体としてみれば、父系制の勢力伸長は、東からの波動という形で押し寄せ、時には南に中継されている。ヨーロッパの北西部に最も核家族的にして最も女性尊重的な家族システムが存在するのは、理の当然と言えるのである」424-5頁

「父系制の空間に、私は父方居住の直系家族を入れなかった。この選択は逆説的と見えるかもしれない。なぜならの直系家族の父方居住の比率は、全体的に見て一時的父方同居を伴う核家族における比率よりも低いわけではないからである。私は特に…父方居住の直系家族をどうやら父系原則の起源らしいと考えていた。では、何故、ヨーロッパでは、直系家族を共同体的形態、ならびに一時的父方同居を伴う核家族的形態に結びつけないのか。それはごく単純に、父系制が地理的に1つにまとまっており、その原因は、〔直系家族から父系原則へというのとは〕別の切り離された歴史的シークエンスに求められなければならない、という理由からである。…家族形態の地理的分布から分かることは、ヨーロッパの直系家族は内因的生産物であり、それは東および南を通った父系制の伝播のメカニズムとは、その主要部分において、無関係であったということである」432頁

「ロシアでは家庭集団の父系制は女性のステータスの根本的低下を引き起こさなかった。父系制は〈レベル2〉を超えることは決してなかったのである」435頁

「ロシアの家族は、フィンランドではなく、バルト諸国に近付くにつれて、最も明瞭に共同体家族として姿を現わすと結論づけることができる」436頁

「〈アジアの父系制の影〉
 ヨーロッパの父系制空間の中では、共同体家族地帯と一時的同居もしくは近接居住を伴う核家族地帯が交互に存在し、また女性のステータスの低下がさまざまなレベルで分布している…
 父方居住は、アジアの父系制に連続する形で、〔ヨーロッパ〕大陸の東部に分布しているわけだが、これからしても、伝播のメカニズムが存在していることにはいかなる疑念の余地もない。とはいえこのメカニズムは、西および中央ヨーロッパの核家族空間と直系家族空間に到達するには至らなかった」453-4頁

「18世紀から20世紀までのヨーロッパの父系制は、ユーラシア大陸の中心部全体を含む地帯の西の先端として姿を現わすが、共通紀元前5、4世紀の父系制は、中東を中心とする地帯の西の端として姿を現わす。不一致は大きい。
 ギリシャとイタリア南部は、父系制の古代の分布地図に姿を見せている。しかしギリシャ島嶼部は今日では明らかに母方居住として姿を現わし、イタリア南部は双処居住として姿を現わしている」458頁

「〈古典期のローマの家族〉
 ローマの場合にも、拡大の形態と家族の形態との間に関係があると仮定することができる…ローマの軍事的で系統的な領土拡大は、父系のクランに他ならないゲンスの存在の結果である。ゲンスは、左右対称化されており、兄弟とイトコが左右対称の位置を占めている。ローマのゲンスは、モンゴルのクランと同じように、戦争と征服にうってつけの制度であった。
 …ローマには長子相続権は存在しなかった。十二表法は、いずれも相続者である兄弟の間に区別を設けていなかった」462頁

新しいものを表示
ログインして会話に参加
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。