「『文明』の4つの基本要素(農耕、都市、冶金、文字)は、それぞれそれ自体に本質的に内在する拡大の潜在力を秘めていることは認めなければならない。これらの要素が、地球の大部分に広がったのは、ガブリエル・ド・タルドが『模倣の法則』の中で用いた意味で、つまり合理的な意味で、『理の当然』なのである。歴史の現実においては、農耕によって人口密度が増大し、都市と文字によって組織立てられ、技術的・軍事的に強力になった民族は、周辺の人間集団に影響力を揮い、取って替わることができた。その上、淘汰が起こらなかったところでは、これらの民族は、自分たちの成功の元となったもの(農耕、都市、冶金、ないし文字)ばかりでなく、どれもがより多くの効率性に結び付くと先験的に想定してはならないような他の革新も、被支配者たちに伝えることがあり得たのである。支配者がもたらした社会形態であるという威信だけで、それらの要素が受入れられてしまったことは説明できる。家族に関わる変動のケースは、しばしばそうしたものだった。その中には、社会に活力を与えるにほど遠く、逆に対抗的な歴史的シークエンスを始動させてしまったものもある」49頁→
「工業化以前の時代において、父系的家族形態に内在する技術的優越性を喚起することのできる領域が1つある。すなわち戦争。父系原則は、特殊な組織編成力を持っている。住民の軍事化を容易にするのだ。男たちの尊属への帰属関係が排他的である〔唯一父親の子とされる〕ところから、各個人は社会構造の中で1つの位置を、それも唯一の位置を与えられる。各個人が同時にもしくは交互に、父方親族と母方親族に帰属する未分化システムの特徴たる複数帰属が持つゆとりは失われてしまう。未分化性ないし双方性の世界は、その本性からして曖昧で、可動的で、柔軟である。父系原則によって構造化された集団は、下位区分と階層序列が予め確立しており、あたかも戦争用に組織された恒常的軍隊のようなものである。父系の氏族(クラン)の血統図は、軍隊か官僚組織の組織図に似ている。また男性性と身体的力強さとの繋がりも忘れてはならない。父系原則は、攻撃、略奪、征服による拡大の内在的な潜在力を秘めているのである。…要するに父系性[ママ]の拡大の理由は、しばしば軍事的領域での優越性で説明がつくのである」49-50頁
「ユーラシアでは、父系原則の出現は農耕の出現より大幅に後になる。文字の発明よりも後なのだから、厳密な慣用的意味で『歴史時代』と呼ぶことのできる時代が始まって以降のことになるのである。…
…論理の土俵に立って言うなら、現段階において断定できることのすべては、これまでに検討されたいくつかの事実は以下のような仮説の総体と両立可能である、ということだけである。
1 起源的家族は、夫婦を基本的要素とする核家族型のものであった。
2 この核家族は、国家と労働によって促された社会的分化が出現するまでは、複数の核家族的単位からなる親族の現地バンドに包含されていた。
3 この親族集団は、女を介する絆と男を介する絆を未分化的なやり方で用いていたという意味で、双方的であった。
4 女性のステータスは高かったが、女性が集団の中で男性と同じ職務を持つわけではない。
5 直系家族、共同体家族その他の、複合的な家族構造は、これより後に出現した。その出現の順序は、今後正確に確定する必要があるだろう」51-2頁
「〈ル・プレイの聖三位一体〉…
この3要素[不安定(核)家族、直系家族、家父長(共同体)家族]からなる類型体系は、実際、歴史学者の上に長続きする催眠効果を揮った。最近までそれは、ラスレット革命の圧力に抵抗し続けたのである。…このイングランドの歴史学者〔ラスレット〕は、当初、直系家族の全般的非存在を証明しようと企て、直系家族に戦争を仕掛けたのである。もともと〔ジョン・〕ロックの専門家であった彼は、直系家族という人類学的類型〔家族類型〕とは、17世紀の反動的政治学者、ロバート・フィルマーのファンタスムにすぎないと信じていた。…ところが〔ラスレットの〕核家族の普遍性という仮説にとってまことに遺憾なことながら、研究の進展の結果、直系家族的形態がドイツ語圏、スウェーデン、フランス南西部、カタルーニャから北ポルトガルに至るイベリア半島北部に発見されることになった。共同体家族的形態は、トスカナ、セルビア、ロシアで見つかった」63-5頁→
(承前)「早くも1972年には、アメリカ人のルッツ・バークナーが、革新的な方法論による論文の中で、直系家族が3世代世帯の形を取るのは、その発展サイクルの一定の段階においてにすぎず、昔の資料の中に、3世代を含むか、連続する2世代に属する2組の夫婦を包含する世帯の比率がきわめて大きいという事例を探し求めても、なかなか見つかるものではないということを、オーストリアの例から証明している。それにもかかわらず、結婚年齢の専門家、ジョン・ハイナル…は、1983年に、核家族性と単一夫婦性はヨーロッパ西部の特徴であり、共同体家族的形態はヨーロッパ東部の特徴であるとする、単純化された馬鹿げた分類を提唱した。…この二項対立的な世界においては、NATOは、単一夫婦的かつ資本主義的、ワルシャワ条約は、家父長制的かつソ連的という風に姿を現わしていた。ドイツが東西に分裂されていたため、主たる分布地がドイツ語圏を中心とするヨーロッパである直系家族が、それ自体1つの類型をなすということが、考えられなかったのである」65頁
「エリック・ル・パンヴァンは、昔の名簿の分析の可能性を極限にまで押し進め、国勢調査を受けた個人関する年齢を用いて、家庭集団の発展サイクルを復元するということを、やっていた。そしてある時、ブルターニュ内陸部のプルーヌヴェ・カンタンという村で、ル・プレイのカテゴリーにどうしても組み込めない家族システムのあることを発見した。それは単一の主要な遺産相続者による相続がきわめて優勢な地域であった。ところが、複数の夫婦を含む世帯が見られ、しかもときとしてそれは、兄弟姉妹とその配偶者という具合に、単一の世代に属する夫婦なのである。…彼は私をいたずらっぽく追いつめて、ある種のブルターニュ類型は直系型にも共同体型にも分類することができないことを納得させた。私は最後には、ル・プレイの神聖なる3類型を脱却する以外に、解決は不可能であることを認めたのである」66頁
「ル・プレイの著作を見てみると、彼がロシア農民それ自体においても共同体的・父系的発展サイクルが優勢であることを承知していたことが、分かる。彼の弟子の何人かが著したモノグラフは、このような発展サイクルが、中東の大部分に拡大していることを、明らかにしている。
反動的な人間の特権と言うべきか、ル・プレイは、19世紀後半にほとんどだれもが抱いていた、家族構造は原始時代の稠密性から近代の個人主義へと進化したという観念に染まることはなかったのである。彼はガリア人に『不安定』家族を想定し、人類の過去は核家族的であったとする仮説においても、すでにラスレットやマクファーレンよりさらに徹底的であった。イングランド個人主義の再発見を、ラスレットはルネサンスで、マクファーレンは中世まで遡ったところで止めているが、ル・プレイの方は、ローウィやレヴィ=ストロースを待つまでもなく、確実なデータもない状況で、ガリア人の家族上の個人主義とアメリカ・インディアンのそれとの間の類似を示唆しているのである」72頁
ル・プレイ「彼ら[ガリア人]の不安定家族と社会組織の総体は、いまなお同じ緯度の北アメリカの広大な森林に住むインディアン狩猟民のそれと、多くの点で類似している。
…若者は、早期の自由が引きつける力に、つねに身を委ねてしまう。というのも、早くから両親の許を去って、自分一人で獲物の追跡に従事するより気楽な生活を自ら作り出すからである。狩猟は、優れて個人的な労働であり、家族内で共同体の慣習を絶え間なく破壊する傾向がある。狩猟民の許では、家族は最も単純な表現に還元されてしまう。すなわち、若い夫婦の結合によって作られ、子供の誕生によって一時的に増大し、次いで子供が早期に成人して独立することによって縮小し、最後は親の死によって破壊され、後には何の痕跡も残さない」72-3頁
「〈サイクルα〉とは、以下のようなものである。夫婦が子供を作る、子どもたちのうちの1人が成年に達すると、結婚し、配偶者を自分の出身家族に来させることになる。若い夫婦は、最初の子供の誕生ののち、家を出て、自立した世帯を創設する。すると今度は、弟か妹が配偶者を出身家族に連れて来ることになる。こうした兄弟姉妹が次々と同じことをし、最後に生まれた子に至る。この子は、他の者に家を出るよう追い立てられることはないので、両親とともに家に残り、老年期の親の面倒を見る。したがって〈サイクルα〉では、最後に生まれた者が特異な位置を占めることになるわけである。
…〈サイクルα〉は、理の当然として先験的に、共同体家族や直系家族と同様に、父方居住、母方居住、双処居住という変種に下位区分されることになる。このうち双処居住変種というのは、現実にはほとんど存在しない」82-3頁
「私としては、システムが正規の運行状態にあるとき、最終的につねに夫婦を夫の家族の許に入居させることになるものは、単に父方居住と見なすことにする。当初の母方居住的同居が、10年、15年と続くか、それがやがて最終的形態となるような夫婦の比率が高い場合には、そのシステムを双処居住と分類することにしよう。…
フレイザーが〈サイクルα〉を把握したのは、最後に生まれた者の特殊な地位を特定したことによってである。末子相続はそれゆえ彼にとっては、家族の財の大部分を1人の子供だけに与えるシステムである直系家族の様態の一つなのではなく、最も若い者が高齢の両親の世話をするという事実を考慮した補償のメカニズムなのである」83頁
「〈近接居住ないし囲い地内集住の核家族〉
…狩猟採集民の現地バンドは、複数の親族核家族が組み合わさって、一段上の次元の単一性の中にまとまっているという様態の一つに他ならない。英語で書かれたモノグラフの中に見られる、compound〔囲いをめぐらした住宅群〕という語は、私は自由に『囲い地』と訳すのだが、こうした分析のレベルというものが現にあることを示している。
囲い地が存在するときには、同居というものを、そしてそれゆえ家族というものを、ただ一つのレベルだけを持つシステムと考えることは不可能となる。核家族とこれらの核家族の集まりという2つのレベルでの構造化というものを認めなければならない。それが自立と依存との共存を可能にしているわけである」90-1頁
「3つの変種(双処居住、父方居住、母方居住)に分かれる<一時的同居を伴う核家族>というものは、本質的に重要である。それに対して、親族の核家族が現地集団の中に集まっているという近接居住の概念は、一時的同居を伴う核家族の3つの変種というものに付け加わる新たな類型の定義につながるとしてはならない。一時的同居は、その後に親族家族の近くに居を構えるということ〔近接居住〕があまりにもしばしば起こるのであるから、新たなカテゴリーの追加は、大抵の場合、二重化と混同を引き起こすだろう。…一時的同居を伴う核家族と近接居住を伴う核家族は、1つの類型の中の2つの微妙な違い(ニュアンス)をなすにすぎない。
それに対して、囲い地の中に<統合された核家族>は、一時的同居より以上のものを表象している。物質的限界による形式化は、より緊密な夫婦単位間の協力を含意する。したがって囲い地への統合…は、まさに一時的同居を伴う核家族から共同体家族へと仲介する中間的カテゴリーを作り出すのである」96頁
「<別居と凝縮> しばらくの間、狩猟採集民の原初的社会形態、ということはすなわち人類の原初的社会形態は、双方的な親族の絆によって組織編成された現地バンドの中に組み込まれた、一時的同居を伴う核家族であった、としておこう。このシステムは、個人がそれに加わる際に選択の余地をたくさん残してくれる、かなり緩やかなものである。これなら、分化〔差異化〕によって、他の家族形態につながる先験的なモデルを容易に構築することができるだろう。というのも、このような原初の類型は、母細胞のように、すべての潜在性を内包しているからである。それは、人類学の古典的な次元のどれにおいても、『分化』していない。それは、複数の夫婦の別居が増大し、一時的同居が消滅することによって、核家族的方向へと特殊化することができる。逆に、双方的か父方居住か母方居住かの、安定した隣接関係の方へと進化し、やがては直系家族ないし共同体家族型の最終的な同居へと進化することもできる。別居は、基本的な動態的要素となり得る。それから機械的に生み出される効果の一つとは、複数家族が別居するか、安定的近接居住もしくは決定的同居によって稠密化するかの選択が、突きつけられるということである」97-8頁
「定住化は、農耕への移行と同じとすることはできない。中東の歴史の研究者は、今や定住化が植物の馴致に先行したことを認めている。それは、共通紀元前1万年のナトゥフ文化の最終局面の検討が証明しているところである。日本では、定住していたと思われる海産物採集者は、列島に農耕が出現する7000年以上前に土器を発明していた。…それらの家族形態の中には、それでもまだ核家族の隣接原則の痕跡が感じられる。
逆に言うなら、農耕は決定的な定住化を意味するものではない。焼畑の技術は、数年間土地を開墾したのちに、集団が居住地を移転することを前提とする。より集約的な、しかし拡大的でもある農耕は、新たな開拓へと行き着き、諸家族の一部の拡散を助長する」98頁
「完璧に一貫性ある類型体系を先験的に定義するのは、不可能でもあれば無用でもあるのだ。なぜ今になって、人間精神の力の中に世界の現実性を探し求めるピタゴラス派ないしデカルト主義者の呪術的宇宙へと退行しなければならないのか。実を言えば、類型体系とは、図面なり図式のような具合に、データを展示する便宜を提供するにしても、それ自体ではいかなる科学的有用性も持たないものである。それにとって外部的な、1つないし複数の他の変数との関係の中に置かれるのでなければ、興味を引くものではないのだ。例えば『新ヨーロッパ大全』の4区分の類型体系が興味深いものであったのは、それがもたらす優れてイデオロギー的な判断基準が、農民の家族形態の多様性と近現代イデオロギーの多様性を、地理的分布の上で一致の状態に置くことを可能にしたからに他ならない。同様にして、15のカテゴリーの類型体系が興味を引くのは、地球上で観察可能な家族形態が互いにどのような割合を占めるのか、それを他の変数との対応関係に置くことができる形で記述することを可能にするからに他ならないのである」108頁
「アラン・トレヴィシック…『結婚していると考えられる6億3500万人の地球上の男性人口のうちの確率は以下の通りである。一妻多夫的婚姻の者は1.1%、一夫多妻婚姻の者は3.8%、排他的同性愛者は4%、そして単婚の者は93%』…さまざまな婚姻様態の相対的比重が同じでないということは、先験的な価値判断に依拠するまでもなく了解できる。婚姻類型の統計的分布を見るなら、人類が単婚への傾向を持っているという穏当な結論に行き着くことになるのである。この断定は、一妻多夫婚を、いわんや一夫多妻婚を、いささかも異常な類型とするものではないが、全総体の中へのこの両者の取り組みを副次的なものにするようなデータ分析の戦略を示唆するものである」118-9頁
「件数と、結果の明瞭さとに鑑みるなら、双処居住にして核家族という家族構造は、周縁部的であり、それゆえに古代的(アルカイック)・保守的であるのは、確実なこととして提示することができる。<地図2-3>は、ユーラシアの人類史について何やら根本的なことを伝えているのだ。周縁部の核的かつ双処居住の家族モデルは、おそらくもともとは、大西洋と太平洋の間に位置したすべての住民集団の特徴であったシステムの残滓に他ならない、ということである。ブルターニュとフィリピンの間、ポルトガルとベーリング海峡の間、ラップランドとアンダマン諸島の間に居を構えた住民集団の身体的外見がひじょうに多様であるということは、この類型が、ユーラシアの人類が互いに異なるいくつもの表現型〔身体的外見〕に分化する多様性をもたらすことになった集団の拡散よりも、時代的に古いものであることを、示唆しているのである。本書第II巻で行なわれる、アフリカ、アメリカ、オセアニアについての家族に関するデータの分析は、身体的外見の差異の出現よりも時間的に先立つ起源的な家族原型についてのこの印象を、確証してくれることだろう」132頁
「〈直系家族の出現の背景としての稠密な農業〉
…出発点としては、狩猟採集民と最初の農耕民の特徴である、より幅広い双方的親族集団の中に組み込まれた、一時的双処同居を伴う核家族…農耕の進化と家族の進化の間には必然的に機能的関係がある…
フレイザーが指摘していたように、最近結婚したばかりの子どもが両親の許に留まり、やがて次の者が交替する〈サイクルα〉は、流動的住民集団および拡張的生産システムと高度に両立する…しかし〈サイクルα〉は、移動農耕と全く同じように拡張的定住農耕とも両立する…実際には、初期の農耕民にとって、出発を促す力はきわめて強い。新しい土地は古い土地よりも肥沃だからである。古い土地の再生は、古い共同体にとって早くも問題となる可能性がある。フレイザーが記したように、『新石器時代の経済は拡張的である』…
…領土拡張のこの農業システムにおいて、土地の分割は可能であるが必須ではない。明確な遺産相続規則の定義は、無用であろう。したがって、平等原則も不平等原則もないのである。この局面においては、父方居住の実践も規範も想定させるものは何もない。とはいえ私は、一種末子相続制のごときものを想定する…非父系的で、遺産の最後の分け前を、両親の面倒を見る男子もしくは女子の子どもに与える、というだけのもの」189-91→
(承前)「しかし最後には、この拡張農業文明の中心部では土地は希少になり、ピエール・ショーニュの表現を借りるなら、『満員の世界の時代』が徐々に腰を据える。移住することは容易でなくなった。生産の増大は集約化の形態をとらなくてはならない。…こうした初めて、さまざまな子どもの遺産相続への権利についての理論的な問題が提起されることになる。可処分の財の量が、拡張可能な総体ではなく、有限の総体として知覚されたからである。ヨーロッパについて研究した多くの歴史家たちに続いて、私も、直系家族の仕組みが発明されたのは、どの土地にも持ち主がいるというこの閉ざされた世界の中においてであると思う。不可分性の規則は、地所の一体性を保証する。地所すなわち、社会的階層の上の者にとっては封土であり、下の者にとっては農場である。はるか後になって長子相続制が出現したヨーロッパのケースにおいては、その発明は社会構造の最高水準、すなわち王に由来する…」191-2頁→
(承前)「私は、必然的な因果過程を喚起しているわけではない。閉ざされた空間内で稠密化した定住農耕は、ここでは単に直系家族の出現に好ましいコンテクストとして記述されているにすぎない。直系家族は定住農耕の中につねに現われると、言っているのではない。…また、一たび発明された直系家族のメカニズムは、この元々のコンテクストから独立して広まることはできないと、言っているわけでもない。…
この非常に慎ましいモデルは、なぜ不分割はたいていの場合父系的であるのかを述べることはできない。…歴史の中で観察される家族的シークエンスは、人間という種の心理的作動〔動き方〕について、何事かを明らかにしてくれると考えたいものである」192頁
「インドでは社会的、儀式的階層が上昇するにつれて世帯が複合化の度合いを増すということ、これは北部と南部に共通する特徴である。南部では、農民カーストからバラモンへと移ると、一時的父方同居を伴う核家族から共同体家族に移行する。北部では、共同体家族が、下層カーストにおいては、中層もしくは上層カーストにおけるように十分に機能していないことが確認される。…
一時的父方居住もしくは近接居住を伴う核家族を扱う場合、父方居住率が90%を超えると、複数の夫婦家族のひじょうに強固な現地集住を必ず伴うことになるために、システムの核家族性は相対化されるということを、承知しておく必要がある」278頁
「地理的には、一妻多夫婚は、ヒマラヤ系直系家族の枠をはみ出して、重要な痕跡をあちこちに残している。インドのヒマラヤ山麓地帯の家族システムは、対称化され、平等主義的にして共同体家族的であっても、しばしば一妻多夫婚のメカニズムの痕跡を留めている。おそらく古代の直系家族形態の残存要素であろう。…
同じ布置は、シッキムのレプチャ人の許に見出される。レプチャ人は、チベット・ビルマ語を話し、モンゴロイドの外貌をした民族で、ゴーラが研究している。彼らの許では、共同体家族が支配的だが、一妻多夫婚および兄の妻に対する性的使用権の痕跡が残されている。ここでもまた風俗慣習の自由は明白であり、配偶者の選択にあたって両親は一切介入しないこと、男性の童貞喪失に女性の方が積極的な役割を果たすことが、強調されている。兄弟が別居する際は、理論的には平等原則を尊重する財の分割の枠内で、家は長子のものとなる。実質的には直系家族にきわめて近いと言わざるを得ない。…一妻多夫婚はつねに直系家族を前提とするわけではない…ケーララとスリランカのような、〔直系家族とは無関係で〕長子相続の痕跡しか見出されない地域に、一妻多夫婚が姿を見せていることからすると、婚姻モデルにはある程度の自律性があるというのは明らかである」285頁
「キリスト教徒の存在はより古く、おそらく共通紀元4世紀まで遡る。この年代からすると、ケーララのキリスト教は、イスラム教より古いだけでなく、最終的に多数派宗教となったバラモン・ヒンドゥー教より古い宗教形態ということになる。キリスト教の人類学的意味は、エチオピアとローマの家族システムの検討の際に研究されることとなるが、今からすでに、この宗教は外婚制および核家族性とそもそも強い連合性を有するということは、頭に入れておかねばならない。ケーララでも他の場所と同様に、もともとの家族形態は双処居住核家族であったと仮定してみよう。ケーララでは、父系革新や母系革新のずっと以前から定着したキリスト教は、古い核家族システムにとって保護被膜の役割を果たしたと考えるのは、不可能ではない」314頁
「この[東南アジアの]双処居住の地理的空間の中では、2つの類型が優越…1つは、本書で提示されたモデルに完全に合致する結果を示す近接居住を伴う核家族、もう1つは、非定型的な直系家族である。後者がモデルの観点から『正常』〔規範にかなったもの〕でないと言うことができるとすれば、それは双処居住のゆえに他ならない。
『双処近接居住を伴う』家族とはいかなるものか。それは、男と女のどちらから始まっても構わない無差別的な親族のつながりによって集団の中に組み入れられた、純粋な核家族である。もっぱら世帯だけに関心を向けるなら、いかなる拡大も姿を現わすことなく、把握できるのは、両親と子どもを結び付けるだけの夫婦的形態という最も単純な家族形態のみである。それは、イングランドの絶対核家族あるいはパリ盆地の平等主義核家族に似ている。もちろんこの核家族は、『ロビンソン・クルーソー』の夫婦版よろしく、社会的空虚の中に存在するのではない。協力と相互扶助の集団の中に組み込まれているのであり、その集団なしには、生き延びることはできない」356頁→
「東南アジアにおいて末子の位置というものは、文化的に目立った要素であり、もちろんこの地域は、末子相続の一覧表作成にあたるフレイザーの注意を引いた。…末子相続は、つねに家族生活の父方ないし母方居住の方向性と組み合わさっているのである。末子相続は、一時的同居を伴う核家族システムにおける場合でも、〔父系か母系かの〕単系性の原則と不可分なのである。…男子であれ女子であれ子ども一般が継承するのだという場合には、男子であれ女子であれ[ママ]、一番下の子どもに特別の役割があるという考え方の出現につながることはない。ただし実際には、大抵の場合、こうした男女両性の末の子どもが、家と年老いた両親を引き取ることになるのであり、このメカニズムからは統計的な末子相続が生み出されることはあり得る」361頁
「〈起源的基底〉 フィリピン、ボルネオ島北部、セレベス〔スラウェシ〕における、核家族システムと双処居住システムは、極限的な周縁部に位置することと、末子相続原則も含めて、明解な組織編成原則を持たないことから、われわれとしては、これらは最も太古のシステム、つまりわれわれのモデルによれば、人類の起源的な類型と考えられるものにきわめて近いシステムの残存であるとみなすことになる。 この極限的周縁部では、家族構造と親族用語の間に素晴らしい照応を観察することができる。フィリピン諸島やボルネオ島、そして実を言えば東南アジアの残りのかなりの部分で見出されるのは、双方的ないし未分化的家族概念、すなわち男性の系統と女性の系統を区別することのない考え方を露呈する用語体系の絶対的な優位性である。このような用語体系としては、兄弟とイトコを区別する<エスキモー>型の用語体系と、それらを区別しない<ハワイ>型の用語体系のどちらかしかない。ユーラシアの最西端で行なわれるヨーロッパ的分類は、大抵はエスキモー型である」363頁→
(承前)「新郎新婦に男性の家族の方か女性の方のどちらに居を構えるかを自由に選ばせる一方、夫の親族と妻の親族の間にいかなる呼称の差も設けない人類学的システムは、同質的とみなすことができる。それに対して、東南アジアの母方居住部分では、親族用語体系は未分化的であり、家族システム〔は母方志向であり、そ〕の方向性とは軽い矛盾状態にあるように見えるかもしれない。…
フィリピン群島とボルネオ島で観察された、家族システムの双処居住性と親族用語体系の未分化性の間の良好な照応関係は、これまでにあまり進化しておらず、そのすべての諸要素が古代的(アルカイック)で、いまだに調和を保っている、そうしたシステムを喚起するのである」364頁
「言語にせよ宗教にせよ、[東南アジアの]文化的にきわめて多様な空間の上に、『一時的母方同居と末子相続とを伴う核家族』という共通規範が、適用の度合いには差こそあれ、ともかくも優勢であるということをいかに説明するのか…家族構造の歴史としては中間的なこのレベルにおいて、一様な文化成層が見られることを、どのように説明したらよいのだろうか。
この問いに対しては、1つの単純な答えしか存在しない。家族という点でこのように定義された地帯に、ある時点において対応したのは、ただ1つの明確に定義された空間、すなわち、共通紀元の始まりから小乗仏教およびイスラム教の導入までの間、この地帯で活動を続けたヒンドゥー文明の空間であった。一時的母方同居を伴う核家族の空間は、ジョルジュ・セデスが『外側のインド』と呼ぶもの、つまり、ヒンドゥー教の影響下で、東南アジアのうち、文字、宗教、国家、石の建築物の時代に平和的に参入したこの部分と一致しているのである。空間的な一致は、ほとんど疑いの余地を残さない。しかし。1つの逆説に立ち至る。文明化の要因たるインドは、その地域に影響力を行使したときに、レベルはさまざまに異なるにせよ、すでに父系化されていた、という逆説である」367-8頁
「すべての時代にわたって、[東南アジアへの]インドの影響は、程度の差はあれ、父系の側面を含んでいたはずである。男性長子相続を強調する『マヌ法典』は、東南アジアに到達している。
いずれにせよ、父系原則が、バラモン僧、商人、冒険者たちによって運ばれて、東南アジアに達したことは確信することができる。しかし、それには軍事力の支援がなかった。父系原則は、インドから押し付けられたのではなく、言うならば、提案された威信ある文化システムの一要素として到来したのである。…
入手可能な歴史資料は、父系原則は王侯や貴族階級によって適用されたが、住民の大部分はこれを適用しなかったことを、示唆している。〈外側のインド〉の諸社会の二重性、すなわち、ヒンドゥー化された貴族階級と昔からの風習を忠実に守り続ける住民集団という二重性、そしてとりわけその2言語性をつねに念頭に置いておかなければならない」368-9頁
「インドから[東南アジアに]到来した父系原則は王国と貴族階級に及んだが、そのとき父系原則は、まだ第1レベルにしか達していなかった。つまり、女性による継承が時宜を得ているのなら、それを拒みはしないというものであった。…出現したばかりの頃、父系原則は過激化していなかった。もっぱら継承という観念に支配されており、男女間対称性や女性の劣等性の観念にはそれほど支配されていなかったのである。
…女性による継承が一定の割合であるとしても、それは母系規範を想定するものではないのであり、〈レベル1の父系制〉システムを定義するには、一定の割合の女性による継承が、男性による継承に追加される必要があるのである。
社会構造の中層・下層になると、文化の輸入は、おそらく全く別の結果、分離的な否定反動という効果をもたらした。すなわち、もともとは未分化なシステムが母方居住に屈折したのである。母方居住の末子相続は、父方居住の長子相続の反転と考えることさえできる。外国からの影響の否定と社会的な分化は、ここでは同じ方向で作用したのである。
…長期的にはこの地帯全体を、明確な母系制に構造化し直すのではなく、時として薄弱な場合もある母方居住への方向付へと導くことになった」371頁
「1 東南アジアは、もともと、未分化の親族システムと、近接居住ないし一時的同居を伴う双処居住親族システムを特徴としていた。いまでもフィリピンで観察されるシステムのような型のものである。
2 ヒンドゥーの父系原則の到来は、貴族階級における父系・父方居住の構造の構造の出現による、二元的家族文化の台頭を現出した。…バリ島で観察することができるものに近い、統合核家族と直系家族の間で揺れ動く、それほど明確ではない形態…これは貴族や王族の家系の動き方にぴったりと適応しているのである。
3 大陸とインドネシア諸島の民衆階級の中では、支配者の父系制は、母方居住反動を生み出した。それはたいていの場合、きわめて不完全なもので、末子相続の、一時的同居を伴う核家族システムの形成をもたらしたにすぎない。
4 ヒンドゥー教貴族社会の崩壊によって、父系の上部構造は消滅することになり、あとには民衆の母方居住原則が存続するばかりとなった。ただしそれは、カンボジアやミャンマーでは、その出現を引き起こした父系システムからする負の刺激がひとたび消滅してしまうと、弱体化することとなった」373-4頁
「〈家族と人口密度〉
…中国、日本、北インドの場合、父方居住直系家族と人口密度の増加との間に機能的関係があるかどうか、私は先に自問したものである。全面的に操作が行き届いた〈満員の世界〉の実現が、長子相続という相続が浮上するための好適な枠組みをなしていると、示唆したことがあった。新たに開拓すべき土地の欠如は、やがて、長男を両親の農地に押し止め、農業実践を集約化することに立ち至る。そうなると今度は、父方居住直系家族が、その効率性によって農村の人口密度の追加的増加を促すことになった。とはいえ、いかなる厳密な因果関係も確証されておらず、私はまた人口稠密化とは無関係な直系家族観念の伝播の可能性も喚起したものである」379頁
「ユーラシア大陸の最西端部をなす複雑に入り組んだこの半島[ヨーロッパ]には、古代的(アルカイック)家族形態のかなり見事な見本集を観察することができるのである。しかしながら全般的に言って、この地域に家族の起源的形態を見いだすことはないだろう。内因的な原因によるにせよ、のちに父系原則が到来したことで誘発されたにせよ、ともかく変化が起こることは起こった。しかし、こうした変化は、本書で研究している進行過程の尺度からすれば、近年のこととなる。直系家族の例は特徴的である。中国の場合には、共通紀元前1100年頃に、長子相続の原則が貴族階級の中に出現した、と私は述べている。…これとほぼ同様の男性長子相続がヨーロッパに出現した。…フランク人の貴族階級における長子相続の出現は、10世紀末に遡る。…直系家族という人類学的類型の前進…これは耕作適合地の人口密度の上昇という内因的必然性の結果であると同時に、威信効果による伝播運動の結果でもある。…彼[ディオニジ・アルベラ]の研究によれば、それがアルプス地方に到達したのは16、17世紀のことだという。これよりもさらに時代は下るが、19世紀後半のアイルランドにおいて、1845年から1851年の大飢饉の後に、遺産分割の慣習が放棄され、男性長子相続が定着するようになった」420-1頁
「中国と同様インドの場合にも、中心部は父方居住共同体家族で、そこから〔周縁部に向かって〕複合性の少ない形態へと環状に家族類型が分布していると注意喚起することができる。すなわち、南と東では一時的同居を伴う核家族、北では直系家族、そして、いくつかのマージナルな集団においては双方性の痕跡が残る、という具合に。その外側、島嶼では真の双方性を見出すことができる。時として端的に母系のこともある母方居住システムは、父系性と直接接触する一帯に見られる。とはいえ中国とインドの分布地図は正確に同じ様相を呈しているとは言えない。中国は、こう言ってよければ、それ自体が自らの中心であるのに対して、インドは、中心がより西方に位置する父系地帯の東の端となっているからである。インドの父方居住の極が北西地域であるのはこのためである。
中国を分析した際に、直系家族の局面は、核家族と共同体家族の中間的局面であることを、われわれは突き止めた。インドの共同体家族空間の周縁部、特に北部に、直系家族形態が存在するということは、このような直系家族局面がインドにも存在したかもしれないという可能性を示唆している」283頁