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「私の蒙を啓いてくれたのは、実は長年の友、ローラン・サガールであると、白状しなければならない。言語学者であるサガールは、『第三惑星』の地図…を眺めると、要点としては以下のようなことを言った。『他の部分は実に興味深い。しかし『偶然』…の部分で言っていることは、いい加減だ。<周縁地域の保守性原則>を承知している研究者なら、君の言う共同体型というやつ、ここに赤だかベージュで塗られているのは、一続きの中央部的塊をなしており、濃い緑の直系型や青や薄緑の核家族型は、周縁部に分布しているということを、すぐに見て取るはずだ。これからすると、何らかの時期に、ユーラシアのどこかの中心点で共同体型への転換という革新が起こり、それが周縁部へと広がって行ったが、まだ空間全体をすっかり覆い尽くしてはいない、ということであるのは明白だ』と。…彼の立論は論理的に反論の余地のないものだった。…周縁地域の保守性原則は、単に論理的道具であるだけではない。それはもう1つの研究方法、歴史学と社会学のもう1つの考察次元、すなわち<伝播>というものへとわれわれを向かわせるのである。人間科学の近年の歴史の中で、<構造>というものの不幸な競争相手となっていたあの<伝播>へと」31頁→

(承前)「風習の、組織形態の伝播は、社会学的分析の抑圧された裏側に他ならなかった。フランスについては、人類学において構造主義的思考様式が勝利したことが、かなり大幅に、家族形態と親族システムの多様性を説明しようとする企ての挫折の原因となっているのである」31頁

「周縁地域の保守性の原則は、人類学に無縁のものではない。それはおそらく、人類学という学問分野にとって、言語学と同じように古くから縁のあるものである。例えば、すでに1923年にはアメリカ人ウィッスラーによって、この原則は完璧な形で開陳されている。アメリカ大陸全域にわたる、土器製造、機織りの技術、儀礼の検討を含む、『間歇的分布』の詳細な検討を行なったのち、彼はこう述べている。
 『分布の不連続性が周縁的形態をとるとしたら、(…)中央部の空虚は、諸特徴は中央部の諸文化の懐において最も変遷が進むということよって[ママ]もたらされたということになる』。
 これ以上に明快な説明はあり得ないだろう。もしかしたら私は、周縁地域の保守性原則の方法論についてのこの説明を、1920年代のアメリカの人類学から始めるべきだったのかもしれない。それは、伝播の過程をきわめて重要なものと見なしていた。
 私が言語学から始めることにしたのは、周縁地域の保守性原則が第二次世界大戦直後に人類学から消えてしまったことの異様さを感じてもらうためなのである。人類学からは、伝播の過程の分析を可能にする方法論全体が文字通り粛正[ママ]されていたのであり、それこそが、私がこの地図分析の技法を友人の言語学者から伝授して貰わねばならなかった理由」33-4→

(承前)「この退行が起こった時期は、ある程度正確に決めることができる。周縁地域の保守性原則は、1940年代末の構造主義大変革の直前には、まだ生きていた。それはレヴィ=ストロースにとっては完全に馴染みのものであり、彼はおそらくそれを、フランスの言語学者よりはむしろアメリカの人類学から受け継いだのである。この原則は、1947年に完成した『親族の基本構造』の中にも、決定的ではないまでも重要な原則として、何度も登場している。…
 『…中国を取り囲む一帯には、同じ婚姻規則と同じ親族システムが見いだされる。これは古代の生き残りを示唆する周縁的な位置を占めている。…』
 フランス構造主義だけの責任とするのは、不当であろう。アメリカの人類学も、自主的なやり方で周縁地域の保守性原則と伝播のメカニズムの分析を葬っているのだ。1949年に刊行された『社会構造』の中で、ジョージ・マードックは、人類学的現象の空間的知覚を禁止している。
 …周縁地域の保守性原則は、きわめて強力な分析道具である」34-5頁

「本書の中では、革新と反動からなる一対の組み合せが本質的に重要となる。父系変動が起こったと考えることによって、たしかに広大な一続きの地域を中央地域として定義するという結論がもたらされることとなった。しかしまた、父系変動はこの地域の周縁部に、多数の反動的な母系形態を産み出しもしたのである。これらの母系形態は人類学者たちが伝統的に抱き続けて来た驚嘆の対象であり、彼らはそれらに内在する固有の論理を発見しようとして、たくさんのエネルギーを浪費した。〔しかしそれらは内在する論理ではなく、反動という外在的な論理にしたがっているのである。〕反動はこの場合には、逆方向への転換の企てという形をとっている。
 革新の拒絶は、伝統に忠実だと称しながら、その実、全く同様に革新効果を揮う別の形態が出現することに繋がる。…己が正統に則っていると考える住民集団は、こうして母系原則を作り出すことになる。実際は、伝統的システムは<未分化状態>ないし<双方性>…だったのであり、子供の身分の定義に関しては父親も母親も等しく重要であったのだということを、忘れてしまうのである。…ガブリエル・ド・タルドは、<対抗模倣>の現象、ジョルジュ・ドゥヴルー…は<異文化の文理的受容>の現象という言い方を喚起している」36頁

「人間科学の歴史——動植物の種の研究も含むきわめて広い意味での——を繙くなら、構造の論理と伝播の論理との対立は、すでに19世紀半ばには存在していたことが明らかになる。方法論の観点からすれば、チャールズ・ダーウィンの『種の起源』は、構造的合同の原則に対する激烈な批判として読むことができる。生物の種の地理的分布は、単なる環境の、特に気候風土の作用によって説明することはできないということに気づいたダーウィンが、その理論によって実現したものは、革新と伝播という概念によって行なわれる分析の、おそらく最も有効で最も革命的な適用として今後も残り続けるだろう。…ダーウィンの検討手続きを見ると、地理的分布の解釈にある種ためらいのようなものが感じられる。時として、現実性の少ない伝播の軌道、特に山岳経由の軌道を仮定する、などということもやっているのだ。しかし『種の起源』の終わりに近付くと、周縁地域の保守性原則の先進的な定式化に到達するのである。
 『…昔行なわれた移動がいくつもの異なる状況において実行されたこと、輸送手段に事故が起こったこと、中間地域において種の絶滅が起こったこと…』」37頁

「周縁地域の保守性原則はしばしば、空間の中で時間が成し遂げたものを読み取ること、共時態を通時態に変換することを可能にしてくれるのであり、ここにおいては、核家族が同時的にイングランド人、アグタ人、ヤーガン人、ショショニ人の許に存在することをわれわれが理解するのを可能にしてくれるのである」38頁

「〈周縁的・古代的(アルカイック)形態としての核家族〉
…これら3つの非農耕民族[アグタ人、ショショニ人、ヤーガン人]は、理の当然として周縁的なものでしかあり得ないということを、認めなければならない。全く単純に、農業というものはそれ自体、狩猟と採集を残留的・周縁的な地域にしか存続させないような伝播の過程をたどって普及したのだ、という理由からである。もしこの3民族のケースだけを検討すればよいのであれば、われわれは、構造型の推論の基盤に立って、核家族は狩猟採集民の生活の必然的な相関素であると断定したくなったかも知れない。こうした結果は、1966年にシカゴで開催された『人間、この狩猟する存在』(Man the Hunter)と題するシンポジウムの結論と両立不可能なものではないだろう。このシンポジウムはいくつか重要な成果をもたらしたが、その1つは、ラドクリフ=ブラウンがオーストラリアのデータを誤読して確信してしまった、原初の家族形態は父方居住の移動集団であるとのファンタスムを、人類学から厄介払いしたことである。この専門家同士の対決は、狩猟採集民においては核家族からなる流動的な集団が優勢であることを示唆することになった」38-9頁

「高度に識字化され、きわめて効率的な農業を営む17世紀のイングランド人のケースがあるために、われわれは核家族を構造という概念と切り離して考えざるをえなくなったのである。彼らの存在のせいで、発展水準と家族類型の間のいかなる相関関係も廃棄されてしまうのだ。…
…父系革新が非核家族的家族形態の出現にとって不可欠なものである…[農業と同様に]父系革新もまた、紀元前3000年紀の半ばに中東においてその最初の(しかし唯一のではない)中心地を見出すことになる。ところがイングランドには、農業革新、次いで文字は、比較的遅い時期ではあっても到達はしたけれども、父系的概念という第3の革新と、それに結び付いた複合的な家族形態は、現実に到達することはなかった。それこそが、イングランドが1700年ころに、高度な技術水準と、未開人のものに近い家族形態との組み合せを出現させた理由である」39-40頁

「〈忘れられた快挙 両大戦間時代のアメリカ人類学〉
 初版が1919年に発行された、ロバート・ローウィの『原始社会論』は、おそらく第三千年紀初頭の新参者にとっても相変わらず最良の人類学入門書であるだろうが、かつて1934年ころに、クロード・レヴィ=ストロースにとっても最良の人類学入門だった。同書において、夫婦とその子供のみからなる核家族の普遍的にして、言わば原初的な性格は、すでに主張されていることが見いだされる。同書ではこの家族は、<双方家族>の名で示されている」40頁

「家族の核家族性、女性のステータスが高いこと、絆の柔軟性、個人と集団の移動性。ここにおいて起源的として提示される人類学的類型〔家族類型〕は、大して異国的(エキゾチック)なものとは見えない。最も深い過去の奥底を探ったらわれわれ西洋の現在に再会する、というのが、本書の中心的逆説なのである。逆に、かつてはヨーロッパの人類学から古代的(アルカイック)なものと見なされていた形態〔不可分の大家族、直系家族〕の方が、歴史の中で構築されたものとして立ち現れることになるだろうし、いかなる場合にも、原初性の残滓として立ち現れることはないだろう。一夫多妻制や一妻多夫制も、起源において支配的であった一夫一婦制からずっと後の発明物として現れることになろう」45頁

「親族集団が国家によって取って替わられたという、古典的な、しかし今でも完全に有効性を持つ社会・歴史的テーマ…これはしばしば、個人というものの出現と解釈された。しかしそれは誤りである。過去の稠密な大家族の神話を一たび葬り去った以上、われわれは、未開人より以上に、未開人より優れたあり方で個人である、などと主張することはできなくなってしまったのだ」46頁

「核家族はまた、17世紀イングランドの人類学的構造の全体をなしていたわけではない。それが最も核家族的であったところ、例えば中部諸州において、それは村落共同体に組み込まれており、とりわけ大規模農業経営によって支えられていた。言わば、青春期からの親と子供の分離のお膳立てをしたのは、この大規模経営なのである。人類学的であると同時に経済的なこのシステムなしでは、イングランドの絶対核家族は全く存在しなかった」46頁

「『文明』の4つの基本要素(農耕、都市、冶金、文字)は、それぞれそれ自体に本質的に内在する拡大の潜在力を秘めていることは認めなければならない。これらの要素が、地球の大部分に広がったのは、ガブリエル・ド・タルドが『模倣の法則』の中で用いた意味で、つまり合理的な意味で、『理の当然』なのである。歴史の現実においては、農耕によって人口密度が増大し、都市と文字によって組織立てられ、技術的・軍事的に強力になった民族は、周辺の人間集団に影響力を揮い、取って替わることができた。その上、淘汰が起こらなかったところでは、これらの民族は、自分たちの成功の元となったもの(農耕、都市、冶金、ないし文字)ばかりでなく、どれもがより多くの効率性に結び付くと先験的に想定してはならないような他の革新も、被支配者たちに伝えることがあり得たのである。支配者がもたらした社会形態であるという威信だけで、それらの要素が受入れられてしまったことは説明できる。家族に関わる変動のケースは、しばしばそうしたものだった。その中には、社会に活力を与えるにほど遠く、逆に対抗的な歴史的シークエンスを始動させてしまったものもある」49頁→

(承前)「現実には、父系・共同体革新は、それが押し付けられたところで、最後には発展過程を毀損するに至った。なぜなら、その最終局面においては、女性のステータスの低下に至り、そのことは当該住民の教育潜在力を減少させたからである。それでもそれが出現したとき、この家族形態は、技術文化の領域で革新的な民族によってもたらされ、当時の近代性の象徴として、威信溢れるものでありえたのである。これこそ、ガブリエル・ド・タルドが論理外的模倣と呼んだものの領域である」49頁

「工業化以前の時代において、父系的家族形態に内在する技術的優越性を喚起することのできる領域が1つある。すなわち戦争。父系原則は、特殊な組織編成力を持っている。住民の軍事化を容易にするのだ。男たちの尊属への帰属関係が排他的である〔唯一父親の子とされる〕ところから、各個人は社会構造の中で1つの位置を、それも唯一の位置を与えられる。各個人が同時にもしくは交互に、父方親族と母方親族に帰属する未分化システムの特徴たる複数帰属が持つゆとりは失われてしまう。未分化性ないし双方性の世界は、その本性からして曖昧で、可動的で、柔軟である。父系原則によって構造化された集団は、下位区分と階層序列が予め確立しており、あたかも戦争用に組織された恒常的軍隊のようなものである。父系の氏族(クラン)の血統図は、軍隊か官僚組織の組織図に似ている。また男性性と身体的力強さとの繋がりも忘れてはならない。父系原則は、攻撃、略奪、征服による拡大の内在的な潜在力を秘めているのである。…要するに父系性[ママ]の拡大の理由は、しばしば軍事的領域での優越性で説明がつくのである」49-50頁

「ユーラシアでは、父系原則の出現は農耕の出現より大幅に後になる。文字の発明よりも後なのだから、厳密な慣用的意味で『歴史時代』と呼ぶことのできる時代が始まって以降のことになるのである。…
…論理の土俵に立って言うなら、現段階において断定できることのすべては、これまでに検討されたいくつかの事実は以下のような仮説の総体と両立可能である、ということだけである。
 1 起源的家族は、夫婦を基本的要素とする核家族型のものであった。
 2 この核家族は、国家と労働によって促された社会的分化が出現するまでは、複数の核家族的単位からなる親族の現地バンドに包含されていた。
 3 この親族集団は、女を介する絆と男を介する絆を未分化的なやり方で用いていたという意味で、双方的であった。
 4 女性のステータスは高かったが、女性が集団の中で男性と同じ職務を持つわけではない。
 5 直系家族、共同体家族その他の、複合的な家族構造は、これより後に出現した。その出現の順序は、今後正確に確定する必要があるだろう」51-2頁

「地理学的分析と歴史学的分析はどんなに相互補完的か…そしてこの2つが組み合わさると、ときとしてどんなに論理的驚嘆の感情を生み出すことになるか…地図の分析は、周縁的形態を古代的(アルカイック)なシステムの残滓として特定することを可能にする。しかしそれは、ユーラシアの中心地域を歴史の中で掘り下げて行くなら、遠い過去の中に、周縁部ですでに観察した諸形態、人類学者が到来した時点において相変わらず生きていたあれらの諸形態ときわめて近い形態が、見いだされるであろうという意味なのである。歴史の時間の最も深い奥底において、われわれは単に現在に再会することになるのだ」52頁

「〈婚姻システム、そして構造主義への訣別〉
…構造主義人類学を1つの退行として提示する解釈モデルを持つ本[本書]が、婚姻の問題に取り組まないのは、奇妙な話ということになってしまう…
 われわれとしては、家族の歴史の包括的な分析から出発して、婚姻の問題を全般にわたって扱わなければならないのであって、レヴィ=ストロースのように、統計的にはマージナルな形態〔母方交叉イトコ婚〕の視点から出発して扱ってはならない」53頁

「〈ル・プレイの聖三位一体〉…
 この3要素[不安定(核)家族、直系家族、家父長(共同体)家族]からなる類型体系は、実際、歴史学者の上に長続きする催眠効果を揮った。最近までそれは、ラスレット革命の圧力に抵抗し続けたのである。…このイングランドの歴史学者〔ラスレット〕は、当初、直系家族の全般的非存在を証明しようと企て、直系家族に戦争を仕掛けたのである。もともと〔ジョン・〕ロックの専門家であった彼は、直系家族という人類学的類型〔家族類型〕とは、17世紀の反動的政治学者、ロバート・フィルマーのファンタスムにすぎないと信じていた。…ところが〔ラスレットの〕核家族の普遍性という仮説にとってまことに遺憾なことながら、研究の進展の結果、直系家族的形態がドイツ語圏、スウェーデン、フランス南西部、カタルーニャから北ポルトガルに至るイベリア半島北部に発見されることになった。共同体家族的形態は、トスカナ、セルビア、ロシアで見つかった」63-5頁→

(承前)「早くも1972年には、アメリカ人のルッツ・バークナーが、革新的な方法論による論文の中で、直系家族が3世代世帯の形を取るのは、その発展サイクルの一定の段階においてにすぎず、昔の資料の中に、3世代を含むか、連続する2世代に属する2組の夫婦を包含する世帯の比率がきわめて大きいという事例を探し求めても、なかなか見つかるものではないということを、オーストリアの例から証明している。それにもかかわらず、結婚年齢の専門家、ジョン・ハイナル…は、1983年に、核家族性と単一夫婦性はヨーロッパ西部の特徴であり、共同体家族的形態はヨーロッパ東部の特徴であるとする、単純化された馬鹿げた分類を提唱した。…この二項対立的な世界においては、NATOは、単一夫婦的かつ資本主義的、ワルシャワ条約は、家父長制的かつソ連的という風に姿を現わしていた。ドイツが東西に分裂されていたため、主たる分布地がドイツ語圏を中心とするヨーロッパである直系家族が、それ自体1つの類型をなすということが、考えられなかったのである」65頁

「エリック・ル・パンヴァンは、昔の名簿の分析の可能性を極限にまで押し進め、国勢調査を受けた個人関する年齢を用いて、家庭集団の発展サイクルを復元するということを、やっていた。そしてある時、ブルターニュ内陸部のプルーヌヴェ・カンタンという村で、ル・プレイのカテゴリーにどうしても組み込めない家族システムのあることを発見した。それは単一の主要な遺産相続者による相続がきわめて優勢な地域であった。ところが、複数の夫婦を含む世帯が見られ、しかもときとしてそれは、兄弟姉妹とその配偶者という具合に、単一の世代に属する夫婦なのである。…彼は私をいたずらっぽく追いつめて、ある種のブルターニュ類型は直系型にも共同体型にも分類することができないことを納得させた。私は最後には、ル・プレイの神聖なる3類型を脱却する以外に、解決は不可能であることを認めたのである」66頁

「ル・プレイは、自由と平等の革命、そして権威と不平等という反対の原理(君主制、貴族、カトリックの原理)と革命との対決を念頭においていたからこそ、自由と権威、平等と不平等という2つの論理的組み合せを見つけ出すことができ、それが彼の始めの2つの家族類型の定義につながったのである。研究者の問題設定は、この場合、イデオロギーの衝突から生まれたわけである」69頁

「ル・プレイの著作を見てみると、彼がロシア農民それ自体においても共同体的・父系的発展サイクルが優勢であることを承知していたことが、分かる。彼の弟子の何人かが著したモノグラフは、このような発展サイクルが、中東の大部分に拡大していることを、明らかにしている。
 反動的な人間の特権と言うべきか、ル・プレイは、19世紀後半にほとんどだれもが抱いていた、家族構造は原始時代の稠密性から近代の個人主義へと進化したという観念に染まることはなかったのである。彼はガリア人に『不安定』家族を想定し、人類の過去は核家族的であったとする仮説においても、すでにラスレットやマクファーレンよりさらに徹底的であった。イングランド個人主義の再発見を、ラスレットはルネサンスで、マクファーレンは中世まで遡ったところで止めているが、ル・プレイの方は、ローウィやレヴィ=ストロースを待つまでもなく、確実なデータもない状況で、ガリア人の家族上の個人主義とアメリカ・インディアンのそれとの間の類似を示唆しているのである」72頁

ル・プレイ「彼ら[ガリア人]の不安定家族と社会組織の総体は、いまなお同じ緯度の北アメリカの広大な森林に住むインディアン狩猟民のそれと、多くの点で類似している。
…若者は、早期の自由が引きつける力に、つねに身を委ねてしまう。というのも、早くから両親の許を去って、自分一人で獲物の追跡に従事するより気楽な生活を自ら作り出すからである。狩猟は、優れて個人的な労働であり、家族内で共同体の慣習を絶え間なく破壊する傾向がある。狩猟民の許では、家族は最も単純な表現に還元されてしまう。すなわち、若い夫婦の結合によって作られ、子供の誕生によって一時的に増大し、次いで子供が早期に成人して独立することによって縮小し、最後は親の死によって破壊され、後には何の痕跡も残さない」72-3頁

「ル・プレイは当初、家族形態と狩猟採集経済を結びつける構造的な見方を抱いていたが、やがて彼は、〔そうした見方を超えて〕己の毛嫌いする核家族というものを、ガリア人から19世紀のシャンパーニュの農民の許に至るまで、探り出していくのであった」73頁

「〈サイクルα〉とは、以下のようなものである。夫婦が子供を作る、子どもたちのうちの1人が成年に達すると、結婚し、配偶者を自分の出身家族に来させることになる。若い夫婦は、最初の子供の誕生ののち、家を出て、自立した世帯を創設する。すると今度は、弟か妹が配偶者を出身家族に連れて来ることになる。こうした兄弟姉妹が次々と同じことをし、最後に生まれた子に至る。この子は、他の者に家を出るよう追い立てられることはないので、両親とともに家に残り、老年期の親の面倒を見る。したがって〈サイクルα〉では、最後に生まれた者が特異な位置を占めることになるわけである。
…〈サイクルα〉は、理の当然として先験的に、共同体家族や直系家族と同様に、父方居住、母方居住、双処居住という変種に下位区分されることになる。このうち双処居住変種というのは、現実にはほとんど存在しない」82-3頁

「私としては、システムが正規の運行状態にあるとき、最終的につねに夫婦を夫の家族の許に入居させることになるものは、単に父方居住と見なすことにする。当初の母方居住的同居が、10年、15年と続くか、それがやがて最終的形態となるような夫婦の比率が高い場合には、そのシステムを双処居住と分類することにしよう。…
 フレイザーが〈サイクルα〉を把握したのは、最後に生まれた者の特殊な地位を特定したことによってである。末子相続はそれゆえ彼にとっては、家族の財の大部分を1人の子供だけに与えるシステムである直系家族の様態の一つなのではなく、最も若い者が高齢の両親の世話をするという事実を考慮した補償のメカニズムなのである」83頁

「平等、不平等、自由、権威という価値の定義が不在であったために、私は『第三惑星』の中で、東南アジア(母方居住変種)と中央ならびにアンデス山脈アメリカ(父方居住変種)で支配的な、一時的同居と末子相続を伴う家族類型を、『アノミー的家族』と名付けることになってしまった。
…『アノミー的家族』という表現を用いて、私は、昔はより『正常』であった類型の、病的屈折とは言わないまでも、悪質化を示唆したわけだが、これは間違いだった」86-7頁

「父系性[ママ]と母系性は、同一の単系原理の2つの様態にすぎず、真の論理という点からは互いに近いものであり…大抵は空間的にも近いのである。伝播のメカニズムの的確な理解にしっかりと依拠していたローウィは、すでに父系と母系の親族システムは、遅い時期に出現したと結論していた。双方的(もしくは未分化の)親族システムは、重要性という点で父方の親族と母方の親族を区別しないのであるから、ローウィー[ママ]によれば、時間的に先行していたということになる」88頁

「〈近接居住ないし囲い地内集住の核家族〉
…狩猟採集民の現地バンドは、複数の親族核家族が組み合わさって、一段上の次元の単一性の中にまとまっているという様態の一つに他ならない。英語で書かれたモノグラフの中に見られる、compound〔囲いをめぐらした住宅群〕という語は、私は自由に『囲い地』と訳すのだが、こうした分析のレベルというものが現にあることを示している。
 囲い地が存在するときには、同居というものを、そしてそれゆえ家族というものを、ただ一つのレベルだけを持つシステムと考えることは不可能となる。核家族とこれらの核家族の集まりという2つのレベルでの構造化というものを認めなければならない。それが自立と依存との共存を可能にしているわけである」90-1頁

「家族集団の分析では、ヤーマンの方がリーチよりはるかに優れている。家族システムの二元性の知覚に達しているからである。核家族を識別する要素は、ヤーマンによれば、調理場を所有しているということで、調理場は消費の単位をなす。ところが、1つの住居の中に複数の調理場が共存することもあるのである。しかしその場合、[リーチのような]家屋やcompound〔囲い地〕に関心を向ける者は、近接関係にある核家族というよりは、拡大家族を見ることになるだろう」93頁

「2001年にディオニジ・アルベラは…アルプス型直系家族の神話を破壊した。直系家族というのは山地と緊密に関連するという誤った常識は、経験的な現実の誠実な検討から派生したものではなく、むしろル・プレイの概念構築作業から派生したものであるらしい。アルベラはル・プレイの聖三位一体の最も根底的な総体的批判を作り出した。それが還元的であり、現実を見えなくする効果をもたらすことを、明らかにしたのである」95頁

「3つの変種(双処居住、父方居住、母方居住)に分かれる<一時的同居を伴う核家族>というものは、本質的に重要である。それに対して、親族の核家族が現地集団の中に集まっているという近接居住の概念は、一時的同居を伴う核家族の3つの変種というものに付け加わる新たな類型の定義につながるとしてはならない。一時的同居は、その後に親族家族の近くに居を構えるということ〔近接居住〕があまりにもしばしば起こるのであるから、新たなカテゴリーの追加は、大抵の場合、二重化と混同を引き起こすだろう。…一時的同居を伴う核家族と近接居住を伴う核家族は、1つの類型の中の2つの微妙な違い(ニュアンス)をなすにすぎない。
 それに対して、囲い地の中に<統合された核家族>は、一時的同居より以上のものを表象している。物質的限界による形式化は、より緊密な夫婦単位間の協力を含意する。したがって囲い地への統合…は、まさに一時的同居を伴う核家族から共同体家族へと仲介する中間的カテゴリーを作り出すのである」96頁

「<二重性> 家族の現実については、同時に2つの分析のレベルが存在することを忘れてはならない。核家族(夫婦とその子ども)のレベルと、核家族が集落に集まり協力することのできる枠組となる上位のレベルである。…核家族は外見上は〔核家族として〕『純粋』な形態を呈しているが、それはつねに代替の社会組織の中に統合されているのだ…それは、工業化以前の農村部における大規模農業経営に依存する村落共同体であり、現在の社会の場合では、社会保障型のメカニズムを含み持った、さまざまの形をとる地域共同体ないし一国共同体である。いずれの場合にも、国家というものが要になるように見える」97頁

「<別居と凝縮> しばらくの間、狩猟採集民の原初的社会形態、ということはすなわち人類の原初的社会形態は、双方的な親族の絆によって組織編成された現地バンドの中に組み込まれた、一時的同居を伴う核家族であった、としておこう。このシステムは、個人がそれに加わる際に選択の余地をたくさん残してくれる、かなり緩やかなものである。これなら、分化〔差異化〕によって、他の家族形態につながる先験的なモデルを容易に構築することができるだろう。というのも、このような原初の類型は、母細胞のように、すべての潜在性を内包しているからである。それは、人類学の古典的な次元のどれにおいても、『分化』していない。それは、複数の夫婦の別居が増大し、一時的同居が消滅することによって、核家族的方向へと特殊化することができる。逆に、双方的か父方居住か母方居住かの、安定した隣接関係の方へと進化し、やがては直系家族ないし共同体家族型の最終的な同居へと進化することもできる。別居は、基本的な動態的要素となり得る。それから機械的に生み出される効果の一つとは、複数家族が別居するか、安定的近接居住もしくは決定的同居によって稠密化するかの選択が、突きつけられるということである」97-8頁

「定住化は、農耕への移行と同じとすることはできない。中東の歴史の研究者は、今や定住化が植物の馴致に先行したことを認めている。それは、共通紀元前1万年のナトゥフ文化の最終局面の検討が証明しているところである。日本では、定住していたと思われる海産物採集者は、列島に農耕が出現する7000年以上前に土器を発明していた。…それらの家族形態の中には、それでもまだ核家族の隣接原則の痕跡が感じられる。
 逆に言うなら、農耕は決定的な定住化を意味するものではない。焼畑の技術は、数年間土地を開墾したのちに、集団が居住地を移転することを前提とする。より集約的な、しかし拡大的でもある農耕は、新たな開拓へと行き着き、諸家族の一部の拡散を助長する」98頁

「稠密化の過程にあるシステムの中では、居住先家族の選択について固定した選好が姿を現わすと、想像することができる。それが父親の家族なら、父系原則の出現へとつながり、母親の家族なら、母系原則の出現へとつながることができるが、ただし後者は…より稀に起こることである。ひとたび原則が確定すると、父系性もしくは母系性は、その厳密さそのものによって、家庭集団の追加的稠密化を促進して行く」98頁

フォロー

「[日本の]養子縁組は、実際には、母方居住の入り婿婚を形式化したものであった。これによって、娘による遺産の継承が可能になるのである。養子となる者は、親族の中から選ばれるのではあるが、世帯主の親族から選ばれるのが義務ではなく、時として世帯主の妻の親族の中から選ばれた。父系親族しか養子として認めない朝鮮のシステムとは、非常にかけ離れている。…
 男性長子相続も、普遍的ではなかった。…日本の南西部では、末子相続や、相続人の自由選定や、稀ではあるが、財産の可分性さえも観察される共同体が少数ながら存在した。北東部では、年長の娘が弟たちに優先する、絶対長子相続制が行なわれるところがあった。この多様性は、ゲルマン的周縁部での末子相続制やバスク地方の絶対長子相続制といった、ヨーロッパにおける等価物を参照するよう仕向けるがゆえに、最も常套的なル・プレイ的ヴィジョンを強化する」229頁

「〈長子相続の台頭〉
 現在入手可能な歴史データの示すところでは、男性長子相続が本当に日本に、その貴族層の中に登場したのは、鎌倉時代…後半になってから、すなわち、13世紀末から14世紀初頭までの時期においてであった。…農民層の中に不分割の規則が登場したのは、その頃か少し後のことだったと仮定することができる。家族変動がどのような社会階層の中に起こったのかという問題は、ある意味では言葉の用い方に関わる。というのも、日本の封建時代初期の特徴の一つは、ほとんど貴族である武装大農民と言うか、ほとんど農民である小貴族と言うか、どちらとも決められない中間的階層の登場だったからである。平均的階層を中心にして、その上と下に細かく階層分化したこのような農村的社会形態は、直系家族の古典的な相関者である。ここでは、どちらが原因でどちらが結果なのかは、即断しないでおこう。遺産の不分割の規則は、農村社会の両極化を妨げる。同じ現象がヨーロッパでも、フランスの南西部や南ドイツで観察される」240頁

「直系家族の台頭は、中国と同様に、日本でも父方居住現象と女性のステータスの低下の始まりを伴っていたわけである。日本は〈レベル1の父系制〉に達するが、その後、これを超えることはないだろう。親族用語は一般的特徴としては双系的なままである。
 直系家族の台頭は、農業経済の稠密化と集約化の段階に相当する。11世紀から12世紀の大開拓の後、13世紀半ばに,瀬戸内海沿岸では二毛作が出現する。…そしてまたしても、戦争は稠密化と直系家族を促進した。というのは、封建制日本は16世紀一杯、徳川国家の開設に至るまで、武力抗争の世界であったからである。…
 直系家族が台頭する日本は、土地の占有度と農民入植の古さが地域によって異なる異種混交的な国である。…日本型直系家族が抱える、中央部形態と北東の変異体という二元性…この後者は、農業と国家権力の拡大の最後の地域の特徴に他ならない」241-2頁

「〈日本型直系家族の発明〉
 日本型直系家族は、朝鮮経由にせよ直接にせよ、単に中国から到来したものであると考えることができないのは、明らかである。この両国の最初の緊密な接触の時代に、中国はすでに共同体家族化されていた。せいぜいのところ、法典と儒教的慣行の中に昔の中国型直系家族の儀式的痕跡が残るのに気付くことができるくらいであった。それだけでも概念的次元では無視できないが、ヨーロッパの封建時代にほんの少し遅いだけの日本の直系家族・封建時代は、中国の直系家族・封建時代の消滅の1000年以上も後に誕生した。平安時代末期の日本の貴族階級の家族システムについて知られていることはきわめてわずかだが、それでも、当時、いかなる直系家族的観念も家族的慣行の中に根付くのに成功しなかったということを明らかに示している」242頁

「直系家族が出現するには,大開拓の終了、国土の中心部における集約農業の出現、昔から人が居住する地帯——本州の西の3分の2、プラス四国島と九州島の人口稠密部分、としておこう——における日本農村社会の稠密化を待たなければならない。長子相続は鎌倉時代に出現した。この時代は、中央部地域の東に位置する〈関東〉の勢力上昇が顕著であり、この地域を発展の震央と考えるのは妥当と思われる。長子相続は、京都の宮廷の権威をはねつけた戦士的貴族たちによって、〈関東〉にもたらされたのである。家族の地理的分布を示す微妙な差が、このような仮説を確証してくれる。直系家族が、最も純粋な形態とは言えないまでも、絶対長子制や末子相続のような逸脱的要素をあまり含まない形で存在するのは、〈関東〉においてである。絶対長子制は、日本の北東部、〈東北〉の特徴であり、末子相続は、西部では数多くの例が見られるわけであるが」242頁

「日本北東部のケースの中に感じられると思われるのは、もともと存在した一時的双処同居を伴う核家族システムの上に、不平等という直系家族的概念が直接的に貼付けられたということである。もともとの兄弟姉妹の夫婦家族を連合する双処居住集団の痕跡さえ知覚することができる。直系家族的な序列原則が兄弟間の関係の上に直接に取り付けられたようなのである。父親は早期に引退する。〈本家・分家〉集団の中では、同じ株から枝分かれした世帯間の付き合いが重要となる。娘が長子である場合、その娘を跡取りとする絶対長子制の規則は、それが存在するのであるなら、もともとの双処居住の痕跡に他ならない。…分離した住居を伴う〈隠居〉は、核家族間の関係を組織していた柔軟なシステムの痕跡である」244-5頁

「私としてはアイヌ人の家族を一時的双処居住もしくは近接居住を伴う核家族のカテゴリーに入れるものである。ユーラシアの北東の果てに位置するというその位置取りからして、アイヌ人の家族は周縁部的かつ古代的(アルカイック)と定義される。要するにそれは、双処居住集団に組み入れられた核家族を人類の起源的類型と考える本書の全般的仮説を検証するわけである」250頁

「〈イトコ婚〉
 日本の直系家族は、軽度の内婚傾斜を持つところが、ドイツや朝鮮の直系家族と区別される。イトコ婚は、伝統的な農村的日本では禁止されていなかった。第二次世界大戦直後、すでに非常に都市化されていた社会で、本イトコ同士の結婚の全国比率は、7.2%だった。この数値自体は大きくないが、同時代のヨーロッパの1%以下という数値と比較されるべきである。…
 日本の近年の歴史は、慣習の脆さを示している。1947年から1967年までの間に、本イトコ同士の結婚の率は7.2%から0.9%に下落した。この急速な下落は、ついにはある程度の消滅に至ったわけである」251頁

「10世紀前後、内婚に対するある程度の許容が最上層の貴族の中に出現した。それは次いで日本社会の下の方へと伝播して行ったと想像することができる。とはいえこのモデルは、家族システムの中心的で安定した要素になるほど十分に強くはなかった。第二次世界大戦後のその急速な衰退と消滅がそれを証明している。…16世紀以降〔ママ〕の徳川の日本の政治的・文化的自己閉鎖と、家族や共同体の内婚的内向の間には関連があったのではなかろうか」253-4頁

「朝鮮の直系家族は、速水が指摘しているように、とりわけ、半島の直ぐ南に浮ぶ済州島で衰退している。この島では、3世代世帯がより少なく、娘による相続と、おそらくもともとは双処居住であったと思われる一時的同居を伴う核家族システムの存続を想起させる慣習の柔軟性が、より多く見られる。…
 男子長子相続と連合する初期の父系制が勢力伸長を果たした精密な時系列は確立することはできないが、とはいえあらゆる要素が、日本よりさらに遅い時期を喚起している。その屈折点は16、17世紀であった。…
 それに、朝鮮は外婚への強い愛着という点で日本と区別される」256-7頁

「親族用語としては、『北部のインド・アーリア』と『南部のドラヴィダ』という2つの親族システムの、そして婚姻モデルとしては、北部の外婚制、南部の内婚制という2つのモデルの二項対立の重要性…しかし、人口調査の分析は、この対立の有効性を部分的に認めるにすぎない。最東端部に位置するベンガルは、言語的にはインド・アーリア語であるが、核家族地帯に落ち着く。宗教的な分類基準も関与的とは見えない。イスラム教のパキスタンは、複合性の強い地帯に属すが、同じイスラム教のバングラデシュは、相対的には単純性の地域なのである」274頁

「インドでは社会的、儀式的階層が上昇するにつれて世帯が複合化の度合いを増すということ、これは北部と南部に共通する特徴である。南部では、農民カーストからバラモンへと移ると、一時的父方同居を伴う核家族から共同体家族に移行する。北部では、共同体家族が、下層カーストにおいては、中層もしくは上層カーストにおけるように十分に機能していないことが確認される。…
 一時的父方居住もしくは近接居住を伴う核家族を扱う場合、父方居住率が90%を超えると、複数の夫婦家族のひじょうに強固な現地集住を必ず伴うことになるために、システムの核家族性は相対化されるということを、承知しておく必要がある」278頁

「中国と同様インドの場合にも、中心部は父方居住共同体家族で、そこから〔周縁部に向かって〕複合性の少ない形態へと環状に家族類型が分布していると注意喚起することができる。すなわち、南と東では一時的同居を伴う核家族、北では直系家族、そして、いくつかのマージナルな集団においては双方性の痕跡が残る、という具合に。その外側、島嶼では真の双方性を見出すことができる。時として端的に母系のこともある母方居住システムは、父系性と直接接触する一帯に見られる。とはいえ中国とインドの分布地図は正確に同じ様相を呈しているとは言えない。中国は、こう言ってよければ、それ自体が自らの中心であるのに対して、インドは、中心がより西方に位置する父系地帯の東の端となっているからである。インドの父方居住の極が北西地域であるのはこのためである。
 中国を分析した際に、直系家族の局面は、核家族と共同体家族の中間的局面であることを、われわれは突き止めた。インドの共同体家族空間の周縁部、特に北部に、直系家族形態が存在するということは、このような直系家族局面がインドにも存在したかもしれないという可能性を示唆している」283頁

「地理的には、一妻多夫婚は、ヒマラヤ系直系家族の枠をはみ出して、重要な痕跡をあちこちに残している。インドのヒマラヤ山麓地帯の家族システムは、対称化され、平等主義的にして共同体家族的であっても、しばしば一妻多夫婚のメカニズムの痕跡を留めている。おそらく古代の直系家族形態の残存要素であろう。…
 同じ布置は、シッキムのレプチャ人の許に見出される。レプチャ人は、チベット・ビルマ語を話し、モンゴロイドの外貌をした民族で、ゴーラが研究している。彼らの許では、共同体家族が支配的だが、一妻多夫婚および兄の妻に対する性的使用権の痕跡が残されている。ここでもまた風俗慣習の自由は明白であり、配偶者の選択にあたって両親は一切介入しないこと、男性の童貞喪失に女性の方が積極的な役割を果たすことが、強調されている。兄弟が別居する際は、理論的には平等原則を尊重する財の分割の枠内で、家は長子のものとなる。実質的には直系家族にきわめて近いと言わざるを得ない。…一妻多夫婚はつねに直系家族を前提とするわけではない…ケーララとスリランカのような、〔直系家族とは無関係で〕長子相続の痕跡しか見出されない地域に、一妻多夫婚が姿を見せていることからすると、婚姻モデルにはある程度の自律性があるというのは明らかである」285頁

「〈最初の歴史的データ 共同体家族の前は直系家族〉
 インド亜大陸における家族類型の地理的分布を見ると、伝播現象の存在はほとんど疑いの余地を残さない。双方および核家族類型が周縁部に存在しているのは、古い基底の痕跡である。システムの中心部では父方居住共同体モデルが、父系原則と共同体家族原則の出発点たる革新地帯を代表している。伝播の中心が北西へとずれたところに位置しているのは、インドにおいては外部からの影響が重要であることを示している。…父方居住類型が、北西部では共同体家族、ヒマラヤでは直系家族、東部と南部では同居と近接居住を伴う核家族となる、その多様性」289-90頁

「〈古代の直系家族と初期のカースト〉
 私は先に、封建時代の中国に独特の階層序列的心性があったことを明らかにし、そのような心性が直系家族によって構造化された社会の大部分の中に姿を見せることを、示唆したものである。不平等原理は家族の中で作用するだけでは気が済まず、社会生活の全域で幅をきかすのである。そのため、身分と階級の多数の区別が生じることになる。…
 この古代インドの直系家族と最初のカースト制度との間には、関係があると考えられる」296頁

「〈遊牧民の侵略と共同体家族への移行〉
 北インドにおいて直系家族から共同体家族へと至った歴史的シークエンスは、中国について記述されたそれと大いに類似している可能性がある。中国の場合には、不平等主義的縦型形態が、兄弟の地位の対称化によって平等主義的縦型形態へと移行した原因は、既存の直系家族構造の上に、父系遊牧民集団の対称性が上塗りされたことであった。同じ説明を、侵略に関しては中国に引けをとらないインドに適用できるのである。侵略は同様にほとんどが北西からやって来た」297頁

「キリスト教徒の存在はより古く、おそらく共通紀元4世紀まで遡る。この年代からすると、ケーララのキリスト教は、イスラム教より古いだけでなく、最終的に多数派宗教となったバラモン・ヒンドゥー教より古い宗教形態ということになる。キリスト教の人類学的意味は、エチオピアとローマの家族システムの検討の際に研究されることとなるが、今からすでに、この宗教は外婚制および核家族性とそもそも強い連合性を有するということは、頭に入れておかねばならない。ケーララでも他の場所と同様に、もともとの家族形態は双処居住核家族であったと仮定してみよう。ケーララでは、父系革新や母系革新のずっと以前から定着したキリスト教は、古い核家族システムにとって保護被膜の役割を果たしたと考えるのは、不可能ではない」314頁

「中国の場合と同様に、現地のモノグラフは、南インドでの唯一の絶対的な禁止は、父の兄弟の娘である父方平行イトコに関するものであるということを、明らかにしている。姉妹同士の子どもたちの間の婚姻は許容される」317頁

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