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「<別居と凝縮> しばらくの間、狩猟採集民の原初的社会形態、ということはすなわち人類の原初的社会形態は、双方的な親族の絆によって組織編成された現地バンドの中に組み込まれた、一時的同居を伴う核家族であった、としておこう。このシステムは、個人がそれに加わる際に選択の余地をたくさん残してくれる、かなり緩やかなものである。これなら、分化〔差異化〕によって、他の家族形態につながる先験的なモデルを容易に構築することができるだろう。というのも、このような原初の類型は、母細胞のように、すべての潜在性を内包しているからである。それは、人類学の古典的な次元のどれにおいても、『分化』していない。それは、複数の夫婦の別居が増大し、一時的同居が消滅することによって、核家族的方向へと特殊化することができる。逆に、双方的か父方居住か母方居住かの、安定した隣接関係の方へと進化し、やがては直系家族ないし共同体家族型の最終的な同居へと進化することもできる。別居は、基本的な動態的要素となり得る。それから機械的に生み出される効果の一つとは、複数家族が別居するか、安定的近接居住もしくは決定的同居によって稠密化するかの選択が、突きつけられるということである」97-8頁

「定住化は、農耕への移行と同じとすることはできない。中東の歴史の研究者は、今や定住化が植物の馴致に先行したことを認めている。それは、共通紀元前1万年のナトゥフ文化の最終局面の検討が証明しているところである。日本では、定住していたと思われる海産物採集者は、列島に農耕が出現する7000年以上前に土器を発明していた。…それらの家族形態の中には、それでもまだ核家族の隣接原則の痕跡が感じられる。
 逆に言うなら、農耕は決定的な定住化を意味するものではない。焼畑の技術は、数年間土地を開墾したのちに、集団が居住地を移転することを前提とする。より集約的な、しかし拡大的でもある農耕は、新たな開拓へと行き着き、諸家族の一部の拡散を助長する」98頁

「稠密化の過程にあるシステムの中では、居住先家族の選択について固定した選好が姿を現わすと、想像することができる。それが父親の家族なら、父系原則の出現へとつながり、母親の家族なら、母系原則の出現へとつながることができるが、ただし後者は…より稀に起こることである。ひとたび原則が確定すると、父系性もしくは母系性は、その厳密さそのものによって、家庭集団の追加的稠密化を促進して行く」98頁

「完璧に一貫性ある類型体系を先験的に定義するのは、不可能でもあれば無用でもあるのだ。なぜ今になって、人間精神の力の中に世界の現実性を探し求めるピタゴラス派ないしデカルト主義者の呪術的宇宙へと退行しなければならないのか。実を言えば、類型体系とは、図面なり図式のような具合に、データを展示する便宜を提供するにしても、それ自体ではいかなる科学的有用性も持たないものである。それにとって外部的な、1つないし複数の他の変数との関係の中に置かれるのでなければ、興味を引くものではないのだ。例えば『新ヨーロッパ大全』の4区分の類型体系が興味深いものであったのは、それがもたらす優れてイデオロギー的な判断基準が、農民の家族形態の多様性と近現代イデオロギーの多様性を、地理的分布の上で一致の状態に置くことを可能にしたからに他ならない。同様にして、15のカテゴリーの類型体系が興味を引くのは、地球上で観察可能な家族形態が互いにどのような割合を占めるのか、それを他の変数との対応関係に置くことができる形で記述することを可能にするからに他ならないのである」108頁

「核家族は、それが農耕という点で定義されるにせよ、都市化や識字化という点で定義されるにせよ、近代性と合致するわけではないのであり、複合家族の方も、未開性の地図と一致するわけではない。しかし本書においては、真の突き合わせは、空間との突き合わせであり、定義された類型が、それぞれ全く異なる、しかしそれぞれに有意的ないくつもの地帯に位置するのを、われわれは目にすることになるだろう。
 15区分の類型体系は、家族の組織編成のさまざまの形態を分類し、次いで空間の中に位置づけ、それらの位置の相互の関係から、それらの古さと進化の度合とについての明快な結論を引き出すことを、可能にしてくれるのである」108頁

「アラン・トレヴィシック…『結婚していると考えられる6億3500万人の地球上の男性人口のうちの確率は以下の通りである。一妻多夫的婚姻の者は1.1%、一夫多妻婚姻の者は3.8%、排他的同性愛者は4%、そして単婚の者は93%』…さまざまな婚姻様態の相対的比重が同じでないということは、先験的な価値判断に依拠するまでもなく了解できる。婚姻類型の統計的分布を見るなら、人類が単婚への傾向を持っているという穏当な結論に行き着くことになるのである。この断定は、一妻多夫婚を、いわんや一夫多妻婚を、いささかも異常な類型とするものではないが、全総体の中へのこの両者の取り組みを副次的なものにするようなデータ分析の戦略を示唆するものである」118-9頁

「件数と、結果の明瞭さとに鑑みるなら、双処居住にして核家族という家族構造は、周縁部的であり、それゆえに古代的(アルカイック)・保守的であるのは、確実なこととして提示することができる。<地図2-3>は、ユーラシアの人類史について何やら根本的なことを伝えているのだ。周縁部の核的かつ双処居住の家族モデルは、おそらくもともとは、大西洋と太平洋の間に位置したすべての住民集団の特徴であったシステムの残滓に他ならない、ということである。ブルターニュとフィリピンの間、ポルトガルとベーリング海峡の間、ラップランドとアンダマン諸島の間に居を構えた住民集団の身体的外見がひじょうに多様であるということは、この類型が、ユーラシアの人類が互いに異なるいくつもの表現型〔身体的外見〕に分化する多様性をもたらすことになった集団の拡散よりも、時代的に古いものであることを、示唆しているのである。本書第II巻で行なわれる、アフリカ、アメリカ、オセアニアについての家族に関するデータの分析は、身体的外見の差異の出現よりも時間的に先立つ起源的な家族原型についてのこの印象を、確証してくれることだろう」132頁

「あまりにも単純な家族類型体系に捕われていた当時の私は、モンゴル、カザフ、キルギス、トルクメン、ベドウィン・アラブ、もしくはイラン人集団の父系のクラン的組織編成は、家庭集団の共同体構造に対応するものではない、ということを見抜くことができなかった。というのも、これらの集団の明示的な父系イデオロギーは、一時的父方同居を伴う核家族構造の上に、重なっているのである」133頁

「母方居住というものは、とくに母系制というその極限形態において、〈対抗模倣〉ないし〈異文化の分離的否定受容〉の現象であるということで説明がつくことが分かって来る。なお〈退行模倣〉とは、ド・タルドの言葉であり、〈異文化の分離的否定受容〉とは、ドゥヴルーの言葉である。つまり母方居住は父系制の接近に対する反動であり、それの地理的分布が接触前線のような様相を呈するのは、まさにそのゆえに他ならないのである」154頁

「歴史上最初の中国王朝である商〔殷〕王朝…は、兄弟間の横の継承の慣習を出現させている。権力は、次の世代に移る前に兄から弟へと移行し、そののち長兄の長男へと戻っていく。横の動きに続いて、次の世代の年長の甥へと斜に降りるという相続のシークエンスは、『Z型継承』と名付けることができる。…古代日本や初期のファラオのエジプト、さらには今日のアフリカにおいて、これは何度か見出されることになる。…兄から弟への継承と、〈サイクルα〉の特徴である横への移行との間に何らかの関係があり得る。…
 さらに言うなら、亀甲上の文字は、兄弟間の継承を示唆しているとしても、父系社会を喚起しているわけではないのである」184頁

「〈直系家族の出現の背景としての稠密な農業〉
…出発点としては、狩猟採集民と最初の農耕民の特徴である、より幅広い双方的親族集団の中に組み込まれた、一時的双処同居を伴う核家族…農耕の進化と家族の進化の間には必然的に機能的関係がある…
 フレイザーが指摘していたように、最近結婚したばかりの子どもが両親の許に留まり、やがて次の者が交替する〈サイクルα〉は、流動的住民集団および拡張的生産システムと高度に両立する…しかし〈サイクルα〉は、移動農耕と全く同じように拡張的定住農耕とも両立する…実際には、初期の農耕民にとって、出発を促す力はきわめて強い。新しい土地は古い土地よりも肥沃だからである。古い土地の再生は、古い共同体にとって早くも問題となる可能性がある。フレイザーが記したように、『新石器時代の経済は拡張的である』…
…領土拡張のこの農業システムにおいて、土地の分割は可能であるが必須ではない。明確な遺産相続規則の定義は、無用であろう。したがって、平等原則も不平等原則もないのである。この局面においては、父方居住の実践も規範も想定させるものは何もない。とはいえ私は、一種末子相続制のごときものを想定する…非父系的で、遺産の最後の分け前を、両親の面倒を見る男子もしくは女子の子どもに与える、というだけのもの」189-91→

(承前)「しかし最後には、この拡張農業文明の中心部では土地は希少になり、ピエール・ショーニュの表現を借りるなら、『満員の世界の時代』が徐々に腰を据える。移住することは容易でなくなった。生産の増大は集約化の形態をとらなくてはならない。…こうした初めて、さまざまな子どもの遺産相続への権利についての理論的な問題が提起されることになる。可処分の財の量が、拡張可能な総体ではなく、有限の総体として知覚されたからである。ヨーロッパについて研究した多くの歴史家たちに続いて、私も、直系家族の仕組みが発明されたのは、どの土地にも持ち主がいるというこの閉ざされた世界の中においてであると思う。不可分性の規則は、地所の一体性を保証する。地所すなわち、社会的階層の上の者にとっては封土であり、下の者にとっては農場である。はるか後になって長子相続制が出現したヨーロッパのケースにおいては、その発明は社会構造の最高水準、すなわち王に由来する…」191-2頁→

(承前)「私は、必然的な因果過程を喚起しているわけではない。閉ざされた空間内で稠密化した定住農耕は、ここでは単に直系家族の出現に好ましいコンテクストとして記述されているにすぎない。直系家族は定住農耕の中につねに現われると、言っているのではない。…また、一たび発明された直系家族のメカニズムは、この元々のコンテクストから独立して広まることはできないと、言っているわけでもない。…
 この非常に慎ましいモデルは、なぜ不分割はたいていの場合父系的であるのかを述べることはできない。…歴史の中で観察される家族的シークエンスは、人間という種の心理的作動〔動き方〕について、何事かを明らかにしてくれると考えたいものである」192頁

「〈末子相続は長子相続よりも前か後か〉
 不分割の規則こそ、直系家族の作動を可能にするものだが、これにはいくつかの変種があり、主要なものは、長子相続と末子相続である。このうち前者の方が、はるかに頻繁である。…ここで私が関心を向けるのは、不完全な、〈レベル1の父系制〉に対応する父方居住直系家族についてである。…
 フレイザーの論理に従うなら、末子相続の方が先とする見方に行き着くだろう。彼は、末子相続制を〈サイクルα〉の『自然な』到達点と考えていた。…このような末子相続は、まだ不分割の規則によって規定されたものとすることはできない。これは何らかの直系家族システムを定義するわけではない。…農耕空間が閉ざされたことと不分割の概念の出現とが、どのように〈サイクルα〉の末子相続を変形するに至るのかを想像するにあたって、フレイザーのモデルは容易に延長することができる。すでに習慣によって家の相続者として指名されている最も若年の息子は、こうなると土地の不分割というものの恩恵に浴することになるだろう。そうなると、末子相続は意味が変わってしまう。拡大することをやめた世界の中で地所の大部分を所有する権利、つまり紛れもない特権となるのだ」193-4頁→

(承前)「これより後の段階になると、空間の完全な閉塞は規則の逆転を引き起こし、末子相続を長子相続へと転換させることになるかも知れない。他所へと移住する可能性を完全に奪われた長子は、最終的には『(成年に)先に着いた者から、先に食事にありつける』〔早い者勝ち〕という規則の効力で継承者として選ばれることだろう。…
 このようなシークエンスを暗示することができる事例は、かなりの数に上る。…ヨーロッパでは、実際に相続上の特権を含意するような末子相続を伴う直系家族は、長子相続を伴う直系家族に対して、たいていの場合、周縁部的である。空間内のこのような配置は、直系家族の歴史に2段階がある、すなわち第1段階は末子相続で、第2段階は長子相続であるとの仮説の検証となり得るであろう。
 男性末子相続から男性長子相続を引き出そうとするならば、一時的同居を伴う核家族の段階で単系制が出現したと仮定しなければならない。それはつまり、単系制は、当初は平面軸に沿って兄から弟への継承を伴って発展したということになるだろう。革新は、拡張的農耕システムというコンテクストの下で、ことさら生産システムの危機もないところで起こった、ということになる。だとすると、それはいかなる適応の刺激要因もないところで起こった純然たる発明であった」194頁→

(承前)「既知の事実と両立可能な解釈はもう一つある。一時的双処同居を伴う核家族の世界に直接、長子相続を伴う直系家族が出現したと仮定するのである。そうなると、単系制は、兄から弟ではなくむしろ父から息子へと続く縦の継承として、直ちに考案された、ということになろう。然るのちに、直系家族の父系革新は、自律的に、人口密度が低い周辺地域へと伝播・普及したということになり、それによって、それらの地域の一時的双処同居を伴う核家族が父系居住へと方向転換することになった、ということになる。…父系制が外部から到来して、父方居住制と明示的な男性末子相続とを同時に誘導したとする仮説は、一時的双処同居を伴う家族が実際上決して末子相続の規則を含むことがないことを示しているデータの解釈に、ぴったりと適合するのである。…
 提示された2番目の解釈によれば、末子相続は、長子相続とともに生まれた父系制の伝播に対する、部分的には分離的な適応反動にすぎない、ということになろう。この仮説の試みもまた、長子相続の周りに分布するという、末子相続の周縁部的配置を実に的確に説明する。それは中国のデータと完璧に両立する」194-5頁

「共同体家族と〈レベル2の父系制〉への移行…
…父方居住共同体家族の構造の定着と、それが女性のステータスに及ぼした長期的帰結を、慎重に区別して考えなくてはならないのである。〔女性の〕根底的な劣等性という観念は、少しずつ定着したにすぎない。ここでは、きわめて長い期間をかけて刻み込まれた心性の変遷を考えなければならないのである。
 この漸進的な現象が、中国でいかに進行したか…例えば、纒足は、女性を劣ったものにしようとする欲求と性的ファンタスムが交じり合って複雑に入り組んだコンプレックスをなしているわけだが、これが姿を現わしたのは、〈レベル2の父系制〉への到達のすぐ後というわけではなく、父方居住共同体家族の定着後1000年ほど経った、共通紀元後900年から950年までの間にすぎない」211頁

「中国は、家族システムを段階的に単純性から複合性へと導いて行くシークエンスを研究する機会を与えてくれた。このシークエンスは…複合性から単純性へ、共同体主義から個人主義への進化を把握しようとしていた、家族についてのこれまでの歴史社会学とは対立するものである。中国のシークエンスの場合、まず一時的同期を伴う核家族であったと思われる段階の次に、直系家族が現われ、そして最終的には、共同体家族システムが取って替わるが、それは息子の中の年長者に重要な儀式上の役割を残しておく直系家族段階の印を留めている」213頁

「家族類型(一時的同居を伴う核家族、父方居住直系家族、父方居住共同体家族)が姿を現わす順序は、諸価値の発明の一つのシークエンスを定義づけるが、そのシークエンスは、西洋政治学の表象とあまり一致しない。出発点は非定義状況であって、そこでは権威と自由、平等と不平等という近代的な概念は、ただ単に当てはまらないというだけの話である。一時的同居を伴う核家族は権威主義的でも自由主義的でもなく、平等主義的でも不平等主義的でもない。直系家族とともに、権威と不平等の概念が現われるが、それはすでに男性性の概念に結びついている。次の段階になると、共同体家族は権威の概念を受け継ぐが、それに平等の概念を付け加えるという革新を新たに施す。そこで平等の概念は不平等の概念にとって代わることになる。平等の概念はこの段階では男性にのみ関わる。…
 これは、平等を最も遠い過去の中に置き、不平等を直近の現在の中に置くルソーのシークエンスとは、正反対である。家族システムの歴史は、不平等の概念が平等の概念の前に発明されたことを示唆している」213-4頁

「人口統計学的推定では、縄文時代末期の日本列島の人口は16万人である。これは、採集と狩猟が支えることができた人口密度としては、相対的に高いものである。インゲン豆とごまの乾燥栽培が、最終段階で登場するが、日本の歴史の当初の独自性を最もよく説明するのは、海からもたらされる食物の重要性である。
 漁労というのは、生存手段として動物を捕食する営みのうち、現実的に農業革新の後に生き残って今日に至るただ一つのものである。今日なお、特に日本には、経済的に有意的な漁労民が存在する。…しかし、19世紀にヨーロッパ人と接触するようになったアメリカ大陸の北西海岸のサケ漁労民も、複合的な文明を築いていた」226-7頁

「縄文時代末期のものと推定される墓穴の中の骸骨の遺伝子分析を用いた最近の研究は、日本の南西部の異なる2つの地域に位置する2つの共同体において、婚姻後の夫婦の居住は双処居住だったことを検証した。その方法はまことに単純で、遺骸の調査によって、女性の骸骨の間と男性の骸骨の間で、遺伝子レベルでの血縁関係の量に差がないことが明らかになったというものである。それは農業の発達と列島の人口の大量増加より前の住民に関することであるが、この結果は、本書の中心的仮説を飛躍的に強化してくれる。歴史を最も遠い過去へと遡ると、そこで観察できるのは、実はわれわれが近代的だと信じているもの、すなわち、婚姻交換において男性と女性に異なる位置を割り当てることのない双方的親族システムに他ならないということである。…
 日本は、共通紀元以降、侵略されることなく歴史が続いた稀なケースを提供している。…日本はもちろん、家族形態の伝播・普及の過程から守られて来た[ママ]わけではない。しかし、伝播のベクトルは軍事的形態ではなかったという点には確信を持つことができる。伝播・普及は、日本においては、宗教者や商人や海賊といった、日本文明が海外に派遣した者たちが国外で観察した形態を自発的に模倣した結果であった」227頁

「[日本の]養子縁組は、実際には、母方居住の入り婿婚を形式化したものであった。これによって、娘による遺産の継承が可能になるのである。養子となる者は、親族の中から選ばれるのではあるが、世帯主の親族から選ばれるのが義務ではなく、時として世帯主の妻の親族の中から選ばれた。父系親族しか養子として認めない朝鮮のシステムとは、非常にかけ離れている。…
 男性長子相続も、普遍的ではなかった。…日本の南西部では、末子相続や、相続人の自由選定や、稀ではあるが、財産の可分性さえも観察される共同体が少数ながら存在した。北東部では、年長の娘が弟たちに優先する、絶対長子相続制が行なわれるところがあった。この多様性は、ゲルマン的周縁部での末子相続制やバスク地方の絶対長子相続制といった、ヨーロッパにおける等価物を参照するよう仕向けるがゆえに、最も常套的なル・プレイ的ヴィジョンを強化する」229頁

「〈長子相続の台頭〉
 現在入手可能な歴史データの示すところでは、男性長子相続が本当に日本に、その貴族層の中に登場したのは、鎌倉時代…後半になってから、すなわち、13世紀末から14世紀初頭までの時期においてであった。…農民層の中に不分割の規則が登場したのは、その頃か少し後のことだったと仮定することができる。家族変動がどのような社会階層の中に起こったのかという問題は、ある意味では言葉の用い方に関わる。というのも、日本の封建時代初期の特徴の一つは、ほとんど貴族である武装大農民と言うか、ほとんど農民である小貴族と言うか、どちらとも決められない中間的階層の登場だったからである。平均的階層を中心にして、その上と下に細かく階層分化したこのような農村的社会形態は、直系家族の古典的な相関者である。ここでは、どちらが原因でどちらが結果なのかは、即断しないでおこう。遺産の不分割の規則は、農村社会の両極化を妨げる。同じ現象がヨーロッパでも、フランスの南西部や南ドイツで観察される」240頁

「直系家族の台頭は、中国と同様に、日本でも父方居住現象と女性のステータスの低下の始まりを伴っていたわけである。日本は〈レベル1の父系制〉に達するが、その後、これを超えることはないだろう。親族用語は一般的特徴としては双系的なままである。
 直系家族の台頭は、農業経済の稠密化と集約化の段階に相当する。11世紀から12世紀の大開拓の後、13世紀半ばに,瀬戸内海沿岸では二毛作が出現する。…そしてまたしても、戦争は稠密化と直系家族を促進した。というのは、封建制日本は16世紀一杯、徳川国家の開設に至るまで、武力抗争の世界であったからである。…
 直系家族が台頭する日本は、土地の占有度と農民入植の古さが地域によって異なる異種混交的な国である。…日本型直系家族が抱える、中央部形態と北東の変異体という二元性…この後者は、農業と国家権力の拡大の最後の地域の特徴に他ならない」241-2頁

「〈日本型直系家族の発明〉
 日本型直系家族は、朝鮮経由にせよ直接にせよ、単に中国から到来したものであると考えることができないのは、明らかである。この両国の最初の緊密な接触の時代に、中国はすでに共同体家族化されていた。せいぜいのところ、法典と儒教的慣行の中に昔の中国型直系家族の儀式的痕跡が残るのに気付くことができるくらいであった。それだけでも概念的次元では無視できないが、ヨーロッパの封建時代にほんの少し遅いだけの日本の直系家族・封建時代は、中国の直系家族・封建時代の消滅の1000年以上も後に誕生した。平安時代末期の日本の貴族階級の家族システムについて知られていることはきわめてわずかだが、それでも、当時、いかなる直系家族的観念も家族的慣行の中に根付くのに成功しなかったということを明らかに示している」242頁

「直系家族が出現するには,大開拓の終了、国土の中心部における集約農業の出現、昔から人が居住する地帯——本州の西の3分の2、プラス四国島と九州島の人口稠密部分、としておこう——における日本農村社会の稠密化を待たなければならない。長子相続は鎌倉時代に出現した。この時代は、中央部地域の東に位置する〈関東〉の勢力上昇が顕著であり、この地域を発展の震央と考えるのは妥当と思われる。長子相続は、京都の宮廷の権威をはねつけた戦士的貴族たちによって、〈関東〉にもたらされたのである。家族の地理的分布を示す微妙な差が、このような仮説を確証してくれる。直系家族が、最も純粋な形態とは言えないまでも、絶対長子制や末子相続のような逸脱的要素をあまり含まない形で存在するのは、〈関東〉においてである。絶対長子制は、日本の北東部、〈東北〉の特徴であり、末子相続は、西部では数多くの例が見られるわけであるが」242頁

「日本北東部のケースの中に感じられると思われるのは、もともと存在した一時的双処同居を伴う核家族システムの上に、不平等という直系家族的概念が直接的に貼付けられたということである。もともとの兄弟姉妹の夫婦家族を連合する双処居住集団の痕跡さえ知覚することができる。直系家族的な序列原則が兄弟間の関係の上に直接に取り付けられたようなのである。父親は早期に引退する。〈本家・分家〉集団の中では、同じ株から枝分かれした世帯間の付き合いが重要となる。娘が長子である場合、その娘を跡取りとする絶対長子制の規則は、それが存在するのであるなら、もともとの双処居住の痕跡に他ならない。…分離した住居を伴う〈隠居〉は、核家族間の関係を組織していた柔軟なシステムの痕跡である」244-5頁

「私としてはアイヌ人の家族を一時的双処居住もしくは近接居住を伴う核家族のカテゴリーに入れるものである。ユーラシアの北東の果てに位置するというその位置取りからして、アイヌ人の家族は周縁部的かつ古代的(アルカイック)と定義される。要するにそれは、双処居住集団に組み入れられた核家族を人類の起源的類型と考える本書の全般的仮説を検証するわけである」250頁

「〈イトコ婚〉
 日本の直系家族は、軽度の内婚傾斜を持つところが、ドイツや朝鮮の直系家族と区別される。イトコ婚は、伝統的な農村的日本では禁止されていなかった。第二次世界大戦直後、すでに非常に都市化されていた社会で、本イトコ同士の結婚の全国比率は、7.2%だった。この数値自体は大きくないが、同時代のヨーロッパの1%以下という数値と比較されるべきである。…
 日本の近年の歴史は、慣習の脆さを示している。1947年から1967年までの間に、本イトコ同士の結婚の率は7.2%から0.9%に下落した。この急速な下落は、ついにはある程度の消滅に至ったわけである」251頁

「10世紀前後、内婚に対するある程度の許容が最上層の貴族の中に出現した。それは次いで日本社会の下の方へと伝播して行ったと想像することができる。とはいえこのモデルは、家族システムの中心的で安定した要素になるほど十分に強くはなかった。第二次世界大戦後のその急速な衰退と消滅がそれを証明している。…16世紀以降〔ママ〕の徳川の日本の政治的・文化的自己閉鎖と、家族や共同体の内婚的内向の間には関連があったのではなかろうか」253-4頁

「朝鮮の直系家族は、速水が指摘しているように、とりわけ、半島の直ぐ南に浮ぶ済州島で衰退している。この島では、3世代世帯がより少なく、娘による相続と、おそらくもともとは双処居住であったと思われる一時的同居を伴う核家族システムの存続を想起させる慣習の柔軟性が、より多く見られる。…
 男子長子相続と連合する初期の父系制が勢力伸長を果たした精密な時系列は確立することはできないが、とはいえあらゆる要素が、日本よりさらに遅い時期を喚起している。その屈折点は16、17世紀であった。…
 それに、朝鮮は外婚への強い愛着という点で日本と区別される」256-7頁

「親族用語としては、『北部のインド・アーリア』と『南部のドラヴィダ』という2つの親族システムの、そして婚姻モデルとしては、北部の外婚制、南部の内婚制という2つのモデルの二項対立の重要性…しかし、人口調査の分析は、この対立の有効性を部分的に認めるにすぎない。最東端部に位置するベンガルは、言語的にはインド・アーリア語であるが、核家族地帯に落ち着く。宗教的な分類基準も関与的とは見えない。イスラム教のパキスタンは、複合性の強い地帯に属すが、同じイスラム教のバングラデシュは、相対的には単純性の地域なのである」274頁

「インドでは社会的、儀式的階層が上昇するにつれて世帯が複合化の度合いを増すということ、これは北部と南部に共通する特徴である。南部では、農民カーストからバラモンへと移ると、一時的父方同居を伴う核家族から共同体家族に移行する。北部では、共同体家族が、下層カーストにおいては、中層もしくは上層カーストにおけるように十分に機能していないことが確認される。…
 一時的父方居住もしくは近接居住を伴う核家族を扱う場合、父方居住率が90%を超えると、複数の夫婦家族のひじょうに強固な現地集住を必ず伴うことになるために、システムの核家族性は相対化されるということを、承知しておく必要がある」278頁

「中国と同様インドの場合にも、中心部は父方居住共同体家族で、そこから〔周縁部に向かって〕複合性の少ない形態へと環状に家族類型が分布していると注意喚起することができる。すなわち、南と東では一時的同居を伴う核家族、北では直系家族、そして、いくつかのマージナルな集団においては双方性の痕跡が残る、という具合に。その外側、島嶼では真の双方性を見出すことができる。時として端的に母系のこともある母方居住システムは、父系性と直接接触する一帯に見られる。とはいえ中国とインドの分布地図は正確に同じ様相を呈しているとは言えない。中国は、こう言ってよければ、それ自体が自らの中心であるのに対して、インドは、中心がより西方に位置する父系地帯の東の端となっているからである。インドの父方居住の極が北西地域であるのはこのためである。
 中国を分析した際に、直系家族の局面は、核家族と共同体家族の中間的局面であることを、われわれは突き止めた。インドの共同体家族空間の周縁部、特に北部に、直系家族形態が存在するということは、このような直系家族局面がインドにも存在したかもしれないという可能性を示唆している」283頁

「地理的には、一妻多夫婚は、ヒマラヤ系直系家族の枠をはみ出して、重要な痕跡をあちこちに残している。インドのヒマラヤ山麓地帯の家族システムは、対称化され、平等主義的にして共同体家族的であっても、しばしば一妻多夫婚のメカニズムの痕跡を留めている。おそらく古代の直系家族形態の残存要素であろう。…
 同じ布置は、シッキムのレプチャ人の許に見出される。レプチャ人は、チベット・ビルマ語を話し、モンゴロイドの外貌をした民族で、ゴーラが研究している。彼らの許では、共同体家族が支配的だが、一妻多夫婚および兄の妻に対する性的使用権の痕跡が残されている。ここでもまた風俗慣習の自由は明白であり、配偶者の選択にあたって両親は一切介入しないこと、男性の童貞喪失に女性の方が積極的な役割を果たすことが、強調されている。兄弟が別居する際は、理論的には平等原則を尊重する財の分割の枠内で、家は長子のものとなる。実質的には直系家族にきわめて近いと言わざるを得ない。…一妻多夫婚はつねに直系家族を前提とするわけではない…ケーララとスリランカのような、〔直系家族とは無関係で〕長子相続の痕跡しか見出されない地域に、一妻多夫婚が姿を見せていることからすると、婚姻モデルにはある程度の自律性があるというのは明らかである」285頁

フォロー

「父系制は、4つの異なった軸にそってヨーロッパに作用を及ぼしている。
 1 中東の父系制が古典古代の全期間を通じて、地中海の東から西への軸に沿って広がり、ギリシャ、次いでローマに到達した。
 2 共通紀元5世紀のフン人の侵入は、ステップの遊牧民の父系原則——おそらく中国起源——の到来をもたらした。この侵入も東西の軸にしたがって行なわれたが、はるかに北方で行なわれた。それに続いて、同様の侵入が数波にわたって行なわれたが、その最後のものは13世紀のモンゴル人の侵入である。
 3 アラブの父系制は、ギリシャ人とローマ人のものと同じく中東に由来するが、7世紀から南を経由して、スペインと地中海西部の諸島嶼に達した。
 4 トルコ人の侵入は、15世紀から始まり、南東から北西への軸に沿って進んだが、これが父系制の4番目の勢力伸長にほかならない。
 全体としてみれば、父系制の勢力伸長は、東からの波動という形で押し寄せ、時には南に中継されている。ヨーロッパの北西部に最も核家族的にして最も女性尊重的な家族システムが存在するのは、理の当然と言えるのである」424-5頁

「父系制の空間に、私は父方居住の直系家族を入れなかった。この選択は逆説的と見えるかもしれない。なぜならの直系家族の父方居住の比率は、全体的に見て一時的父方同居を伴う核家族における比率よりも低いわけではないからである。私は特に…父方居住の直系家族をどうやら父系原則の起源らしいと考えていた。では、何故、ヨーロッパでは、直系家族を共同体的形態、ならびに一時的父方同居を伴う核家族的形態に結びつけないのか。それはごく単純に、父系制が地理的に1つにまとまっており、その原因は、〔直系家族から父系原則へというのとは〕別の切り離された歴史的シークエンスに求められなければならない、という理由からである。…家族形態の地理的分布から分かることは、ヨーロッパの直系家族は内因的生産物であり、それは東および南を通った父系制の伝播のメカニズムとは、その主要部分において、無関係であったということである」432頁

「ロシアでは家庭集団の父系制は女性のステータスの根本的低下を引き起こさなかった。父系制は〈レベル2〉を超えることは決してなかったのである」435頁

「ロシアの家族は、フィンランドではなく、バルト諸国に近付くにつれて、最も明瞭に共同体家族として姿を現わすと結論づけることができる」436頁

「〈アジアの父系制の影〉
 ヨーロッパの父系制空間の中では、共同体家族地帯と一時的同居もしくは近接居住を伴う核家族地帯が交互に存在し、また女性のステータスの低下がさまざまなレベルで分布している…
 父方居住は、アジアの父系制に連続する形で、〔ヨーロッパ〕大陸の東部に分布しているわけだが、これからしても、伝播のメカニズムが存在していることにはいかなる疑念の余地もない。とはいえこのメカニズムは、西および中央ヨーロッパの核家族空間と直系家族空間に到達するには至らなかった」453-4頁

「18世紀から20世紀までのヨーロッパの父系制は、ユーラシア大陸の中心部全体を含む地帯の西の先端として姿を現わすが、共通紀元前5、4世紀の父系制は、中東を中心とする地帯の西の端として姿を現わす。不一致は大きい。
 ギリシャとイタリア南部は、父系制の古代の分布地図に姿を見せている。しかしギリシャ島嶼部は今日では明らかに母方居住として姿を現わし、イタリア南部は双処居住として姿を現わしている」458頁

「〈古典期のローマの家族〉
 ローマの場合にも、拡大の形態と家族の形態との間に関係があると仮定することができる…ローマの軍事的で系統的な領土拡大は、父系のクランに他ならないゲンスの存在の結果である。ゲンスは、左右対称化されており、兄弟とイトコが左右対称の位置を占めている。ローマのゲンスは、モンゴルのクランと同じように、戦争と征服にうってつけの制度であった。
 …ローマには長子相続権は存在しなかった。十二表法は、いずれも相続者である兄弟の間に区別を設けていなかった」462頁

「リチャード・サラー…ローマ人の心情や実践の中に、紛れもない夫婦家族が存在することを、掘り出してみせたのである。世帯の構造化に関しては、複数の夫婦単位の同居はまれで、正常でないとみなしている。彼によれば、法学者たちは、共和政時代の者も含めて、既婚の兄弟同士もしくは父親と既婚の息子を連合させる合同世帯(joint household)の可能性を排除していた、という。…きわめてラスレット的な核家族への選好の痕跡」464頁

「ゲンスはパトリキの制度であった。だからあらゆる時代を通じて、貴族階級の家族よりも平民の家族の方が核家族的で、夫婦の絆が強く、女性尊重的であったとする仮説を立てても大胆過ぎるようには見えない」466頁

「〈ローマの進化の理論上の重要性〉
…分析を進めると、いくつかの歴史的変動の可逆性が浮き彫りになってくる。父系制の推進力が、微妙な差異に富んだ、時には局地的に偶然的な姿を見せるに至るのである。…父系制が今日でも、中国南部とインド南部において、いわゆる西洋的な近代化の外見を超えて、前進し続けている…日本のケースは、実質的な進化の例を提供してくれた。しかしその進化は、直系家族段階、すなわち息子がいない場合に娘による相続をつねに認める〈レベル1の父系制〉の段階で停止した。東南アジアの最大部分では、父系原則は、家族の母方居住反動、そして時には親族システムの母系反動を生み出したにすぎない。フイリピン人は長い距離と海とに守られて、起源的未分化状態からのいかなる変化をも免れた。
 父系制の作用は、全面的か部分的か、反動的か、もしくはゼロであるにしても、いずれにせよ不可逆的であるとこれまで思われてきた。これまでに研究されたケースは、つねに双処居住から単線性へと向かうものであった。ところがローマ帝国については、明瞭な逆行を経験することになるのだ。すなわち、親族に関しては、父系制から双方制へ、家族構造に関しては、複合性から核家族性への逆行である」475頁

「双方向性と核家族性への逆行は、2つの要因で説明がつく。まずローマの父系制が当初は脆弱であったことと、世帯の次元で稠密な父方居住共同体主義が不在であったこと。次いで、ローマが、蛮族の地か否かを問わず、女性のステータスの高さを特徴とする広大な空間を征服したこと。この空間は、西ヨーロッパだけでなく…エジプトも含む。敗れた者が破った者に作用を及ぼしたのだ」476頁

「〈帝国期の変動 核家族の新たな類型〉
 ローマの家族の歴史の標準的な姿というものは、最近まで、複合性から核家族性への、また権威主義から個人主義への粛々と進む前進という、ラスレット革命以前の家族の世界史の姿を凝縮したものに類似していた。ゲンス〔クラン〕が、ついでファミリア〔家門〕が、姿を消して行き、後期ローマ帝国時代には核家族に席を譲った、というわけである。この図式は、核家族性への逆行という図式と両立し得ることを、指摘しておこう。重要な差異は…伝統的な図式はも、ともに強力な父系制と複合性から出発していたという点である。
 この古典的な進化論的ヴィジョンに対して…ローマの家族がより核家族的であると考えるサラーは、不変説へと向かうヴィジョンを対置する」476-7頁

「ローマ法のユスティニアヌスによる変動は、平等主義核家族の出生証明であるとさえ言いたくなる。…晩期ローマが平等主義核家族にとって原型となっているという仮説は正しいだろう。
 この最終的な形式化は6世紀にビザンティウムで行なわれた。しかし本当のターニングポイント、つまり父系的家族観から双方的家族ヴィジョンへと移る転換点は、はるかに早い時期に位置づけられなければならない。早くも共通紀元前2世紀」479頁

「〈ヨーロッパにおける古代の父系制から近年の父系制へ 全般的図式〉
 ヨーロッパへの父系制の伝播はきわめて部分的なものであった。…それは以下の4つの段階を含むものとなる。出発点は未分化状態、次いで、地中海への父系制の最初の到来、この最初の地中海の極の自己破壊、そしてヨーロッパのステップからやって来た父系制の新たな波の到来である。
 初めは、他の地域と同じように、ヨーロッパでも未分化のシステムが支配的であった。それは核家族とこの核家族を包含する親族集団を組み合わせたものと想像することができる」486頁

「ギリシャの家族の歴史の特徴たる不連続制[ママ]を説明したいと思うならば、本質的な要素はおそらく、ユスティニアヌスの平等主義核家族モデルの存在が長い間続いたことである。ビザンツの歴史が終わったのは、1453年のことにすぎない。これは、ローマ帝国末に成熟期を迎えた双方家族のイメージの優位が10世紀近くも続いたことを意味するのである」487頁

「ロシアの農民は16世紀末まで自由であったが、その後17世紀の間に農奴化したのである。農奴制の確立と共同体世帯の採用との間に関連を打ち立てるのは魅力的な試みである。農地の構造と家族の構造は、他のところでもそうだが、ロシアにおいても、一まとまりの全体をなしており、1つの人類学的システムを定義するのである。これは農奴制・共同体主義という一まとまりの誕生ということになろう」498-9頁

「[ダニエル]カイザーは、農民の家族は17世紀まで核家族であったとするロシアの歴史研究者の多数派の結論を、多少の疑問を呈しながらも確証している」499頁

「すでに中国のケースを検討した時から、父方居住で外婚制の共同体家族というものが、どれほど自然なものではなく、個人にとって拘束的なシステムであったかを、私は強調している。私の解釈では、この家族の出現には特別な条件が必要であった。中国では、まず定住民の間で父方居住直系家族が出現し、次いで北方の遊牧民に萌芽状態の父系原則が伝達され、この原則がステップにおいて対称化され、最後にそれが中国を征服することによって帰還を果たすという複雑な過程があった。ステップのクランの父系制的対称性が、中国の父方居住の直系家族の上に上塗りされることによって、父方居住の共同体家族の出現が可能となったというわけである。このモデルを私はインド北部に適用することができた」500-1頁

「共同体家族の2つの変異体を区別すべきではなかろうか。1つは縦軸によって支配されたもので、もう1つは横軸によって支配されたものである。家族構造によってイデオロギーが決定されることを論じた私のこれまでの著作の問題系を再び取り上げるならば、縦型の傾向が見られる共同体家族と横型の傾向が見られる共同体家族を区別することによって、セルビアならびにイタリアの共産主義とロシアの共産主義との間に存在する重要な差異を理解することができるはずであると、認めなければならない。ロシアのボリシェヴィズムの厳格さとイタリアおよびユーゴスラヴィアの共産主義の柔軟性との間の対比は、第3インターナショナルの歴史の決まり文句であった」。おそらくこれはグラムシ…の柔軟性とユーゴスラヴィアの自主管理の起源に他ならないのである」503-4頁

「<幻想1——起源的母系制>
…母系制の罠は、ギリシャ人の民族誌学者によって仕掛けられたものである。彼らは女性のステータスを著しく低下させた父系世界の出身で、女性の自立性を示すいかなる印をも系統的に母系制の証拠あるいは痕跡と解釈した。ギリシャ語の専門用語を用いるなら、〈家母長制〉(matriarcat)とか〈婦人覇権〉(gynécocratie)ということになるが、ここでは母系制とのみ言っておこう。…この罠は人文科学の歴史の最大の誤りの1つ、意味を持たない文書を大量に生産する、まさに精神の墓場となっていった。…
 1861年に出版されたバッハオーフェンの大著『母権制(Das Mutterrechit)』は、あらゆる誤りの生みの親とみなすことができる。…中国の民族誌学者たちはギリシャの民族誌学者と全く同じように父系制的精神を持っており、したがってわれわれにチベットとインド北部に存在する女性国家の存在と歴史に関する『証言』を残している。バーゼルのエリートたるバッハオーフェンは、ギリシャ人と中国人のように、父系制は文明のより進んだ局面として家母長制の後に出現した、と明らかに信じていた」504-5頁

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