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「私の研究者としての生涯の中で最も誇りとするところとは、実は、それが必要となったときに、方法論的な大転換を敢行することを得たということなのである。私は固定された家族システムとイデオロギー的・経済的上部構造の間の関連を確立したわけだが、研究者としての生涯の中途において、私はこうした構造主義的モデルから、家族類型そのものの出現・多様化・固定化のありようを理解するために、これとは全く異なる伝播論的モデルへと、転換したのである。私がこうした方法論的跳躍(ジャンプ)を行なうことができたのは、フランス有数の言語学者で、アジア諸言語の系統についての専門家である、友人のローラン・サガールのおかげである。彼のおかげで私は、自分の研究生活の第2部において、『社会構造』の諸レベルの間の構造的符合の諸問題を無視する、空間内での諸形態の伝播のモデルを提唱する、ということになったわけである」1頁

「本書は、全く通常と異なる、ほとんど逆の、とさえ言えそうな、人類の歴史の姿を提示するものである。ユーラシアの周縁部に位置する、現在最も先進的である国々、とりわけ西欧圏が、家族構造としては最も古代的(アルカイック)なものを持っているということを、示しているからである。発展の最終局面におけるヨーロッパ人の成功の一部は、そうした古代的な家族構造はかえって変化や進歩を促進し助長する体のものであり、彼らヨーロッパ人はそうした家族構造を保持してきた、ということに由来する。このような逆説は、日本と中国の関係の中にも見出される。日本は経済的に中国に比べてひじょうに進んでいるが、家族構造としてはより古代的なものを持っているのである。…歴史の逆転した姿(ヴィジョン)」3頁

「家族というのは、きわめて強力な説明変数であるが、社会構造の不動の要素でない以上、すべてであるわけではない。家族は、その変動の速度が、社会的、教育的、経済的、ないし政治的生活の他の成分よりもゆっくりしているとしても、やはり変動はする。家族システムの多様性の仮説というものは、各家族システムの担い手たる民族が、まるで家族構造によって本質化されたかのように他の民族と切り離されているという具合に、人類が複数の部分に分割されているという表象を与えるものではない、というのが、〔この仮説を提示するに当たっての〕私の趣意であった。例えば私の研究は、隣接する専門分野で行なわれた他の研究に続いて、いくつかの家族システムの破壊——流入移民の家族システムのとりわけ受入れ社会による破壊——と個人の全面的な同化という、独特の不安を伴わずにはいない過程を、解明した(『移民の運命』)。とりわけ、家族類型とは、歴史における実に多くの事象を説明するものであるが、それ自体、1つの歴史を持ち、共通の起源を有するのである」18-9頁

「人類全体に共通の起源的家族形態は、突き止め、かつ定義することができ、かつまた都市化と工業化による原住地からの離脱が起こる直前に観察し得た多様な人類学的類型〔家族類型〕の出現に至る分化の過程の一般的特徴は復元することができる」20頁

「本書『家族システムの起源』は、方法論の面では革命的な著作であると称するものではない。実のところ方法論的には、1920年から1945年のアメリカ人類学を、そしてとくにロバート・ローウィを新たな装いで踏襲しているにすぎない。しかしその中心的結果は、西欧世界と言われるものの虚栄に対する根底的な批判に行き着く。西欧圏は、マックス・ウェーバー以来、己の歴史的成功の鍵を、己の文化のあれこれの特殊性に探し求める習慣をいささか安易に身に付けて来たのである。私が到達した確信の1つは、旧世界の周縁部に位置するヨーロッパは、家族システムの面では、古い形態の保管庫であり、人類学的組織形態に関しては、われわれは起源的な形態にかなり近いところに留まり続けて来た、ということである。われわれ西欧人は、農業も都市も商業も牧畜も文字も算術も発明したわけではないのに、短い期間とはいえ、発展競争のトップランナーであったのは、技術的・経済的発展にとって麻痺的効果をもたらす家族システムの変遷というものを経験しないで済んだからなのである」20頁

「家族構造の専門家としての生涯の終わりに当たって、世界のすべての民族を単一の歴史の中に統合し、今から30年ほど前に自分自身が一時的に人間の集団と集団の間に打ち立てた境界線を廃棄するようなモデルを作り上げることができたということは、私にとっては混じりけのない純粋な喜びである。単一の歴史の根源は、ピーター・ラスレットがかつてちらりと垣間見た、核家族の謎に他ならない」20頁

「…19世紀もしくは20世紀初頭の主要な進化主義的モデルは、家族の歴史に言及するときには、きわめて特徴的であって、進歩の段階に応じてそれぞれ対応する親族システムなり家族類型がある、と考えた。
 第二次世界大戦後になると、人類学者たちは、ナチスの人種主義の打撃から立ち直れず、次いで民主主義諸国の植民地主義にうんざりしてしまい、大変な努力をして、進化主義を厄介払いしようとすることになる。まことに唐突に、かつまことに公式に、地球上の諸民族を階層序列化するのを止めたのである」28頁→

(承前)「彼らの善意は真摯なものであったが、それでも彼ら人類学者たちは、諸民族を同一水準に置くことに本当に成功したとは言えなかった。なぜなら、人類学は、『未開人』、つまりは非ヨーロッパ人の研究を専門的に行なう学問分野(ディシプリン)であると自らを定義することによって、発展の観念に乗り越えがたい公理としてのステータスを一挙に与えてしまうからである。人類学による一般化は、そのモデルにヨーロッパ人を組み込むことが決してできなかった。ヨーロッパ人は、明らかにその経済的成功によって、人類の総体を包含する法則の中に自らを占めることを免れたのである。それこそが、フィールドで実現するモノグラフが方法論的にいかに厳密であろうとも、学としての人類学が挫折したと言わざるを得ない根本的理由であると思う」28頁→

(承前)「しかしもしヨーロッパ人を先験的に『近代的』と見なすことを止め、どんな人間集団とも同様なものとして扱うとするなら、その場合には、<彼らの>核家族が、地上の最も『未開な』民族にも見られるということを、確認せざるを得なくなる。なぜ核家族は、〔近代イングランドのような〕複雑な社会システムと未開の共同体とに同時に対応し得るのかということを理解しようとすると、われわれは構造主義の公理から脱却しなければならなくなる。もっとも、経験的現実への服従という原則からすれば、われわれには選択の余地はないのだ。もし同じ要素が異なる構造、対立しさえする構造に組み込まれることがあるとするなら、社会というものはあらゆる点で首尾一貫しているわけではないということになる。社会生活の要素のなかには、他の要素からは独立して存在し得るものがあるのであり、そうした要素の変動を支配する法則は、特殊なものであるかも知れないのである」28-9頁

「家族構造とイデオロギー・システムの間の関係についての私の当初の仮説は、それ自体、こうした『構造的』思考様式の極端な形態に他ならなかった。それは人類学的体系と政治的類型体系の間に照応関係を打ち立てるものであったからである。しかしながら、社会を『構造』として表象する大多数の表象とは逆に、『第三惑星』のモデルは、発達の水準には無関心である。そこにおいては、イデオロギーも家族類型も、遅れたとか、進んだとか、昔のとか、近代的なとかと見なされない。私のモデルの独創性は、家族は下部構造でありイデオロギーは上部構造であるという主張から出て来るのではいささかもなく、それが経験的検証に合格したモデルであるというところから出て来るのである。…しかしそれは、部分的な合格にすぎなかった。私は、家族類型と生態的・経済的要因の間の合致の不在を説明することができるのは、偶然だけであると主張していた…。説明の不在は、それ自体、私が社会の構造的表象とは別のところに、論理的な説明形式を構想することができなかったということの帰結にすぎない」29頁

「周縁地域の保守性原則(PCZP)
…1912年には言語学において発見されていたが、これによって、ある一定の時点において把握された現象の地理的分布の歴史を演繹することが可能になる。地図上に表された2つの相互排他的な特徴AとBがあるとき、Bが一続きの中心地域を占め、Aがいくつもの孤立した周縁的地域を占めるのなら、特徴Bは何らかの革新が周縁部に広がったものである蓋然性が高い。特徴Aが占める地域は、地図空間全体においてかつて支配的であった特徴の残留的分布を表している。説明の信憑性ないし『蓋然性』は、周縁的なAの地域の数が多ければそれだけ増大する」30頁

「私の蒙を啓いてくれたのは、実は長年の友、ローラン・サガールであると、白状しなければならない。言語学者であるサガールは、『第三惑星』の地図…を眺めると、要点としては以下のようなことを言った。『他の部分は実に興味深い。しかし『偶然』…の部分で言っていることは、いい加減だ。<周縁地域の保守性原則>を承知している研究者なら、君の言う共同体型というやつ、ここに赤だかベージュで塗られているのは、一続きの中央部的塊をなしており、濃い緑の直系型や青や薄緑の核家族型は、周縁部に分布しているということを、すぐに見て取るはずだ。これからすると、何らかの時期に、ユーラシアのどこかの中心点で共同体型への転換という革新が起こり、それが周縁部へと広がって行ったが、まだ空間全体をすっかり覆い尽くしてはいない、ということであるのは明白だ』と。…彼の立論は論理的に反論の余地のないものだった。…周縁地域の保守性原則は、単に論理的道具であるだけではない。それはもう1つの研究方法、歴史学と社会学のもう1つの考察次元、すなわち<伝播>というものへとわれわれを向かわせるのである。人間科学の近年の歴史の中で、<構造>というものの不幸な競争相手となっていたあの<伝播>へと」31頁→

(承前)「風習の、組織形態の伝播は、社会学的分析の抑圧された裏側に他ならなかった。フランスについては、人類学において構造主義的思考様式が勝利したことが、かなり大幅に、家族形態と親族システムの多様性を説明しようとする企ての挫折の原因となっているのである」31頁

「周縁地域の保守性の原則は、人類学に無縁のものではない。それはおそらく、人類学という学問分野にとって、言語学と同じように古くから縁のあるものである。例えば、すでに1923年にはアメリカ人ウィッスラーによって、この原則は完璧な形で開陳されている。アメリカ大陸全域にわたる、土器製造、機織りの技術、儀礼の検討を含む、『間歇的分布』の詳細な検討を行なったのち、彼はこう述べている。
 『分布の不連続性が周縁的形態をとるとしたら、(…)中央部の空虚は、諸特徴は中央部の諸文化の懐において最も変遷が進むということよって[ママ]もたらされたということになる』。
 これ以上に明快な説明はあり得ないだろう。もしかしたら私は、周縁地域の保守性原則の方法論についてのこの説明を、1920年代のアメリカの人類学から始めるべきだったのかもしれない。それは、伝播の過程をきわめて重要なものと見なしていた。
 私が言語学から始めることにしたのは、周縁地域の保守性原則が第二次世界大戦直後に人類学から消えてしまったことの異様さを感じてもらうためなのである。人類学からは、伝播の過程の分析を可能にする方法論全体が文字通り粛正[ママ]されていたのであり、それこそが、私がこの地図分析の技法を友人の言語学者から伝授して貰わねばならなかった理由」33-4→

(承前)「この退行が起こった時期は、ある程度正確に決めることができる。周縁地域の保守性原則は、1940年代末の構造主義大変革の直前には、まだ生きていた。それはレヴィ=ストロースにとっては完全に馴染みのものであり、彼はおそらくそれを、フランスの言語学者よりはむしろアメリカの人類学から受け継いだのである。この原則は、1947年に完成した『親族の基本構造』の中にも、決定的ではないまでも重要な原則として、何度も登場している。…
 『…中国を取り囲む一帯には、同じ婚姻規則と同じ親族システムが見いだされる。これは古代の生き残りを示唆する周縁的な位置を占めている。…』
 フランス構造主義だけの責任とするのは、不当であろう。アメリカの人類学も、自主的なやり方で周縁地域の保守性原則と伝播のメカニズムの分析を葬っているのだ。1949年に刊行された『社会構造』の中で、ジョージ・マードックは、人類学的現象の空間的知覚を禁止している。
 …周縁地域の保守性原則は、きわめて強力な分析道具である」34-5頁

「本書の中では、革新と反動からなる一対の組み合せが本質的に重要となる。父系変動が起こったと考えることによって、たしかに広大な一続きの地域を中央地域として定義するという結論がもたらされることとなった。しかしまた、父系変動はこの地域の周縁部に、多数の反動的な母系形態を産み出しもしたのである。これらの母系形態は人類学者たちが伝統的に抱き続けて来た驚嘆の対象であり、彼らはそれらに内在する固有の論理を発見しようとして、たくさんのエネルギーを浪費した。〔しかしそれらは内在する論理ではなく、反動という外在的な論理にしたがっているのである。〕反動はこの場合には、逆方向への転換の企てという形をとっている。
 革新の拒絶は、伝統に忠実だと称しながら、その実、全く同様に革新効果を揮う別の形態が出現することに繋がる。…己が正統に則っていると考える住民集団は、こうして母系原則を作り出すことになる。実際は、伝統的システムは<未分化状態>ないし<双方性>…だったのであり、子供の身分の定義に関しては父親も母親も等しく重要であったのだということを、忘れてしまうのである。…ガブリエル・ド・タルドは、<対抗模倣>の現象、ジョルジュ・ドゥヴルー…は<異文化の文理的受容>の現象という言い方を喚起している」36頁

「人間科学の歴史——動植物の種の研究も含むきわめて広い意味での——を繙くなら、構造の論理と伝播の論理との対立は、すでに19世紀半ばには存在していたことが明らかになる。方法論の観点からすれば、チャールズ・ダーウィンの『種の起源』は、構造的合同の原則に対する激烈な批判として読むことができる。生物の種の地理的分布は、単なる環境の、特に気候風土の作用によって説明することはできないということに気づいたダーウィンが、その理論によって実現したものは、革新と伝播という概念によって行なわれる分析の、おそらく最も有効で最も革命的な適用として今後も残り続けるだろう。…ダーウィンの検討手続きを見ると、地理的分布の解釈にある種ためらいのようなものが感じられる。時として、現実性の少ない伝播の軌道、特に山岳経由の軌道を仮定する、などということもやっているのだ。しかし『種の起源』の終わりに近付くと、周縁地域の保守性原則の先進的な定式化に到達するのである。
 『…昔行なわれた移動がいくつもの異なる状況において実行されたこと、輸送手段に事故が起こったこと、中間地域において種の絶滅が起こったこと…』」37頁

「周縁地域の保守性原則はしばしば、空間の中で時間が成し遂げたものを読み取ること、共時態を通時態に変換することを可能にしてくれるのであり、ここにおいては、核家族が同時的にイングランド人、アグタ人、ヤーガン人、ショショニ人の許に存在することをわれわれが理解するのを可能にしてくれるのである」38頁

「〈周縁的・古代的(アルカイック)形態としての核家族〉
…これら3つの非農耕民族[アグタ人、ショショニ人、ヤーガン人]は、理の当然として周縁的なものでしかあり得ないということを、認めなければならない。全く単純に、農業というものはそれ自体、狩猟と採集を残留的・周縁的な地域にしか存続させないような伝播の過程をたどって普及したのだ、という理由からである。もしこの3民族のケースだけを検討すればよいのであれば、われわれは、構造型の推論の基盤に立って、核家族は狩猟採集民の生活の必然的な相関素であると断定したくなったかも知れない。こうした結果は、1966年にシカゴで開催された『人間、この狩猟する存在』(Man the Hunter)と題するシンポジウムの結論と両立不可能なものではないだろう。このシンポジウムはいくつか重要な成果をもたらしたが、その1つは、ラドクリフ=ブラウンがオーストラリアのデータを誤読して確信してしまった、原初の家族形態は父方居住の移動集団であるとのファンタスムを、人類学から厄介払いしたことである。この専門家同士の対決は、狩猟採集民においては核家族からなる流動的な集団が優勢であることを示唆することになった」38-9頁

「高度に識字化され、きわめて効率的な農業を営む17世紀のイングランド人のケースがあるために、われわれは核家族を構造という概念と切り離して考えざるをえなくなったのである。彼らの存在のせいで、発展水準と家族類型の間のいかなる相関関係も廃棄されてしまうのだ。…
…父系革新が非核家族的家族形態の出現にとって不可欠なものである…[農業と同様に]父系革新もまた、紀元前3000年紀の半ばに中東においてその最初の(しかし唯一のではない)中心地を見出すことになる。ところがイングランドには、農業革新、次いで文字は、比較的遅い時期ではあっても到達はしたけれども、父系的概念という第3の革新と、それに結び付いた複合的な家族形態は、現実に到達することはなかった。それこそが、イングランドが1700年ころに、高度な技術水準と、未開人のものに近い家族形態との組み合せを出現させた理由である」39-40頁

「〈忘れられた快挙 両大戦間時代のアメリカ人類学〉
 初版が1919年に発行された、ロバート・ローウィの『原始社会論』は、おそらく第三千年紀初頭の新参者にとっても相変わらず最良の人類学入門書であるだろうが、かつて1934年ころに、クロード・レヴィ=ストロースにとっても最良の人類学入門だった。同書において、夫婦とその子供のみからなる核家族の普遍的にして、言わば原初的な性格は、すでに主張されていることが見いだされる。同書ではこの家族は、<双方家族>の名で示されている」40頁

「家族の核家族性、女性のステータスが高いこと、絆の柔軟性、個人と集団の移動性。ここにおいて起源的として提示される人類学的類型〔家族類型〕は、大して異国的(エキゾチック)なものとは見えない。最も深い過去の奥底を探ったらわれわれ西洋の現在に再会する、というのが、本書の中心的逆説なのである。逆に、かつてはヨーロッパの人類学から古代的(アルカイック)なものと見なされていた形態〔不可分の大家族、直系家族〕の方が、歴史の中で構築されたものとして立ち現れることになるだろうし、いかなる場合にも、原初性の残滓として立ち現れることはないだろう。一夫多妻制や一妻多夫制も、起源において支配的であった一夫一婦制からずっと後の発明物として現れることになろう」45頁

「親族集団が国家によって取って替わられたという、古典的な、しかし今でも完全に有効性を持つ社会・歴史的テーマ…これはしばしば、個人というものの出現と解釈された。しかしそれは誤りである。過去の稠密な大家族の神話を一たび葬り去った以上、われわれは、未開人より以上に、未開人より優れたあり方で個人である、などと主張することはできなくなってしまったのだ」46頁

「核家族はまた、17世紀イングランドの人類学的構造の全体をなしていたわけではない。それが最も核家族的であったところ、例えば中部諸州において、それは村落共同体に組み込まれており、とりわけ大規模農業経営によって支えられていた。言わば、青春期からの親と子供の分離のお膳立てをしたのは、この大規模経営なのである。人類学的であると同時に経済的なこのシステムなしでは、イングランドの絶対核家族は全く存在しなかった」46頁

「『文明』の4つの基本要素(農耕、都市、冶金、文字)は、それぞれそれ自体に本質的に内在する拡大の潜在力を秘めていることは認めなければならない。これらの要素が、地球の大部分に広がったのは、ガブリエル・ド・タルドが『模倣の法則』の中で用いた意味で、つまり合理的な意味で、『理の当然』なのである。歴史の現実においては、農耕によって人口密度が増大し、都市と文字によって組織立てられ、技術的・軍事的に強力になった民族は、周辺の人間集団に影響力を揮い、取って替わることができた。その上、淘汰が起こらなかったところでは、これらの民族は、自分たちの成功の元となったもの(農耕、都市、冶金、ないし文字)ばかりでなく、どれもがより多くの効率性に結び付くと先験的に想定してはならないような他の革新も、被支配者たちに伝えることがあり得たのである。支配者がもたらした社会形態であるという威信だけで、それらの要素が受入れられてしまったことは説明できる。家族に関わる変動のケースは、しばしばそうしたものだった。その中には、社会に活力を与えるにほど遠く、逆に対抗的な歴史的シークエンスを始動させてしまったものもある」49頁→

(承前)「現実には、父系・共同体革新は、それが押し付けられたところで、最後には発展過程を毀損するに至った。なぜなら、その最終局面においては、女性のステータスの低下に至り、そのことは当該住民の教育潜在力を減少させたからである。それでもそれが出現したとき、この家族形態は、技術文化の領域で革新的な民族によってもたらされ、当時の近代性の象徴として、威信溢れるものでありえたのである。これこそ、ガブリエル・ド・タルドが論理外的模倣と呼んだものの領域である」49頁

「工業化以前の時代において、父系的家族形態に内在する技術的優越性を喚起することのできる領域が1つある。すなわち戦争。父系原則は、特殊な組織編成力を持っている。住民の軍事化を容易にするのだ。男たちの尊属への帰属関係が排他的である〔唯一父親の子とされる〕ところから、各個人は社会構造の中で1つの位置を、それも唯一の位置を与えられる。各個人が同時にもしくは交互に、父方親族と母方親族に帰属する未分化システムの特徴たる複数帰属が持つゆとりは失われてしまう。未分化性ないし双方性の世界は、その本性からして曖昧で、可動的で、柔軟である。父系原則によって構造化された集団は、下位区分と階層序列が予め確立しており、あたかも戦争用に組織された恒常的軍隊のようなものである。父系の氏族(クラン)の血統図は、軍隊か官僚組織の組織図に似ている。また男性性と身体的力強さとの繋がりも忘れてはならない。父系原則は、攻撃、略奪、征服による拡大の内在的な潜在力を秘めているのである。…要するに父系性[ママ]の拡大の理由は、しばしば軍事的領域での優越性で説明がつくのである」49-50頁

「ユーラシアでは、父系原則の出現は農耕の出現より大幅に後になる。文字の発明よりも後なのだから、厳密な慣用的意味で『歴史時代』と呼ぶことのできる時代が始まって以降のことになるのである。…
…論理の土俵に立って言うなら、現段階において断定できることのすべては、これまでに検討されたいくつかの事実は以下のような仮説の総体と両立可能である、ということだけである。
 1 起源的家族は、夫婦を基本的要素とする核家族型のものであった。
 2 この核家族は、国家と労働によって促された社会的分化が出現するまでは、複数の核家族的単位からなる親族の現地バンドに包含されていた。
 3 この親族集団は、女を介する絆と男を介する絆を未分化的なやり方で用いていたという意味で、双方的であった。
 4 女性のステータスは高かったが、女性が集団の中で男性と同じ職務を持つわけではない。
 5 直系家族、共同体家族その他の、複合的な家族構造は、これより後に出現した。その出現の順序は、今後正確に確定する必要があるだろう」51-2頁

「地理学的分析と歴史学的分析はどんなに相互補完的か…そしてこの2つが組み合わさると、ときとしてどんなに論理的驚嘆の感情を生み出すことになるか…地図の分析は、周縁的形態を古代的(アルカイック)なシステムの残滓として特定することを可能にする。しかしそれは、ユーラシアの中心地域を歴史の中で掘り下げて行くなら、遠い過去の中に、周縁部ですでに観察した諸形態、人類学者が到来した時点において相変わらず生きていたあれらの諸形態ときわめて近い形態が、見いだされるであろうという意味なのである。歴史の時間の最も深い奥底において、われわれは単に現在に再会することになるのだ」52頁

「〈婚姻システム、そして構造主義への訣別〉
…構造主義人類学を1つの退行として提示する解釈モデルを持つ本[本書]が、婚姻の問題に取り組まないのは、奇妙な話ということになってしまう…
 われわれとしては、家族の歴史の包括的な分析から出発して、婚姻の問題を全般にわたって扱わなければならないのであって、レヴィ=ストロースのように、統計的にはマージナルな形態〔母方交叉イトコ婚〕の視点から出発して扱ってはならない」53頁

「〈ル・プレイの聖三位一体〉…
 この3要素[不安定(核)家族、直系家族、家父長(共同体)家族]からなる類型体系は、実際、歴史学者の上に長続きする催眠効果を揮った。最近までそれは、ラスレット革命の圧力に抵抗し続けたのである。…このイングランドの歴史学者〔ラスレット〕は、当初、直系家族の全般的非存在を証明しようと企て、直系家族に戦争を仕掛けたのである。もともと〔ジョン・〕ロックの専門家であった彼は、直系家族という人類学的類型〔家族類型〕とは、17世紀の反動的政治学者、ロバート・フィルマーのファンタスムにすぎないと信じていた。…ところが〔ラスレットの〕核家族の普遍性という仮説にとってまことに遺憾なことながら、研究の進展の結果、直系家族的形態がドイツ語圏、スウェーデン、フランス南西部、カタルーニャから北ポルトガルに至るイベリア半島北部に発見されることになった。共同体家族的形態は、トスカナ、セルビア、ロシアで見つかった」63-5頁→

(承前)「早くも1972年には、アメリカ人のルッツ・バークナーが、革新的な方法論による論文の中で、直系家族が3世代世帯の形を取るのは、その発展サイクルの一定の段階においてにすぎず、昔の資料の中に、3世代を含むか、連続する2世代に属する2組の夫婦を包含する世帯の比率がきわめて大きいという事例を探し求めても、なかなか見つかるものではないということを、オーストリアの例から証明している。それにもかかわらず、結婚年齢の専門家、ジョン・ハイナル…は、1983年に、核家族性と単一夫婦性はヨーロッパ西部の特徴であり、共同体家族的形態はヨーロッパ東部の特徴であるとする、単純化された馬鹿げた分類を提唱した。…この二項対立的な世界においては、NATOは、単一夫婦的かつ資本主義的、ワルシャワ条約は、家父長制的かつソ連的という風に姿を現わしていた。ドイツが東西に分裂されていたため、主たる分布地がドイツ語圏を中心とするヨーロッパである直系家族が、それ自体1つの類型をなすということが、考えられなかったのである」65頁

「エリック・ル・パンヴァンは、昔の名簿の分析の可能性を極限にまで押し進め、国勢調査を受けた個人関する年齢を用いて、家庭集団の発展サイクルを復元するということを、やっていた。そしてある時、ブルターニュ内陸部のプルーヌヴェ・カンタンという村で、ル・プレイのカテゴリーにどうしても組み込めない家族システムのあることを発見した。それは単一の主要な遺産相続者による相続がきわめて優勢な地域であった。ところが、複数の夫婦を含む世帯が見られ、しかもときとしてそれは、兄弟姉妹とその配偶者という具合に、単一の世代に属する夫婦なのである。…彼は私をいたずらっぽく追いつめて、ある種のブルターニュ類型は直系型にも共同体型にも分類することができないことを納得させた。私は最後には、ル・プレイの神聖なる3類型を脱却する以外に、解決は不可能であることを認めたのである」66頁

「ル・プレイは、自由と平等の革命、そして権威と不平等という反対の原理(君主制、貴族、カトリックの原理)と革命との対決を念頭においていたからこそ、自由と権威、平等と不平等という2つの論理的組み合せを見つけ出すことができ、それが彼の始めの2つの家族類型の定義につながったのである。研究者の問題設定は、この場合、イデオロギーの衝突から生まれたわけである」69頁

「ル・プレイの著作を見てみると、彼がロシア農民それ自体においても共同体的・父系的発展サイクルが優勢であることを承知していたことが、分かる。彼の弟子の何人かが著したモノグラフは、このような発展サイクルが、中東の大部分に拡大していることを、明らかにしている。
 反動的な人間の特権と言うべきか、ル・プレイは、19世紀後半にほとんどだれもが抱いていた、家族構造は原始時代の稠密性から近代の個人主義へと進化したという観念に染まることはなかったのである。彼はガリア人に『不安定』家族を想定し、人類の過去は核家族的であったとする仮説においても、すでにラスレットやマクファーレンよりさらに徹底的であった。イングランド個人主義の再発見を、ラスレットはルネサンスで、マクファーレンは中世まで遡ったところで止めているが、ル・プレイの方は、ローウィやレヴィ=ストロースを待つまでもなく、確実なデータもない状況で、ガリア人の家族上の個人主義とアメリカ・インディアンのそれとの間の類似を示唆しているのである」72頁

ル・プレイ「彼ら[ガリア人]の不安定家族と社会組織の総体は、いまなお同じ緯度の北アメリカの広大な森林に住むインディアン狩猟民のそれと、多くの点で類似している。
…若者は、早期の自由が引きつける力に、つねに身を委ねてしまう。というのも、早くから両親の許を去って、自分一人で獲物の追跡に従事するより気楽な生活を自ら作り出すからである。狩猟は、優れて個人的な労働であり、家族内で共同体の慣習を絶え間なく破壊する傾向がある。狩猟民の許では、家族は最も単純な表現に還元されてしまう。すなわち、若い夫婦の結合によって作られ、子供の誕生によって一時的に増大し、次いで子供が早期に成人して独立することによって縮小し、最後は親の死によって破壊され、後には何の痕跡も残さない」72-3頁

「ル・プレイは当初、家族形態と狩猟採集経済を結びつける構造的な見方を抱いていたが、やがて彼は、〔そうした見方を超えて〕己の毛嫌いする核家族というものを、ガリア人から19世紀のシャンパーニュの農民の許に至るまで、探り出していくのであった」73頁

「〈サイクルα〉とは、以下のようなものである。夫婦が子供を作る、子どもたちのうちの1人が成年に達すると、結婚し、配偶者を自分の出身家族に来させることになる。若い夫婦は、最初の子供の誕生ののち、家を出て、自立した世帯を創設する。すると今度は、弟か妹が配偶者を出身家族に連れて来ることになる。こうした兄弟姉妹が次々と同じことをし、最後に生まれた子に至る。この子は、他の者に家を出るよう追い立てられることはないので、両親とともに家に残り、老年期の親の面倒を見る。したがって〈サイクルα〉では、最後に生まれた者が特異な位置を占めることになるわけである。
…〈サイクルα〉は、理の当然として先験的に、共同体家族や直系家族と同様に、父方居住、母方居住、双処居住という変種に下位区分されることになる。このうち双処居住変種というのは、現実にはほとんど存在しない」82-3頁

「私としては、システムが正規の運行状態にあるとき、最終的につねに夫婦を夫の家族の許に入居させることになるものは、単に父方居住と見なすことにする。当初の母方居住的同居が、10年、15年と続くか、それがやがて最終的形態となるような夫婦の比率が高い場合には、そのシステムを双処居住と分類することにしよう。…
 フレイザーが〈サイクルα〉を把握したのは、最後に生まれた者の特殊な地位を特定したことによってである。末子相続はそれゆえ彼にとっては、家族の財の大部分を1人の子供だけに与えるシステムである直系家族の様態の一つなのではなく、最も若い者が高齢の両親の世話をするという事実を考慮した補償のメカニズムなのである」83頁

「完璧に一貫性ある類型体系を先験的に定義するのは、不可能でもあれば無用でもあるのだ。なぜ今になって、人間精神の力の中に世界の現実性を探し求めるピタゴラス派ないしデカルト主義者の呪術的宇宙へと退行しなければならないのか。実を言えば、類型体系とは、図面なり図式のような具合に、データを展示する便宜を提供するにしても、それ自体ではいかなる科学的有用性も持たないものである。それにとって外部的な、1つないし複数の他の変数との関係の中に置かれるのでなければ、興味を引くものではないのだ。例えば『新ヨーロッパ大全』の4区分の類型体系が興味深いものであったのは、それがもたらす優れてイデオロギー的な判断基準が、農民の家族形態の多様性と近現代イデオロギーの多様性を、地理的分布の上で一致の状態に置くことを可能にしたからに他ならない。同様にして、15のカテゴリーの類型体系が興味を引くのは、地球上で観察可能な家族形態が互いにどのような割合を占めるのか、それを他の変数との対応関係に置くことができる形で記述することを可能にするからに他ならないのである」108頁

「核家族は、それが農耕という点で定義されるにせよ、都市化や識字化という点で定義されるにせよ、近代性と合致するわけではないのであり、複合家族の方も、未開性の地図と一致するわけではない。しかし本書においては、真の突き合わせは、空間との突き合わせであり、定義された類型が、それぞれ全く異なる、しかしそれぞれに有意的ないくつもの地帯に位置するのを、われわれは目にすることになるだろう。
 15区分の類型体系は、家族の組織編成のさまざまの形態を分類し、次いで空間の中に位置づけ、それらの位置の相互の関係から、それらの古さと進化の度合とについての明快な結論を引き出すことを、可能にしてくれるのである」108頁

「アラン・トレヴィシック…『結婚していると考えられる6億3500万人の地球上の男性人口のうちの確率は以下の通りである。一妻多夫的婚姻の者は1.1%、一夫多妻婚姻の者は3.8%、排他的同性愛者は4%、そして単婚の者は93%』…さまざまな婚姻様態の相対的比重が同じでないということは、先験的な価値判断に依拠するまでもなく了解できる。婚姻類型の統計的分布を見るなら、人類が単婚への傾向を持っているという穏当な結論に行き着くことになるのである。この断定は、一妻多夫婚を、いわんや一夫多妻婚を、いささかも異常な類型とするものではないが、全総体の中へのこの両者の取り組みを副次的なものにするようなデータ分析の戦略を示唆するものである」118-9頁

「件数と、結果の明瞭さとに鑑みるなら、双処居住にして核家族という家族構造は、周縁部的であり、それゆえに古代的(アルカイック)・保守的であるのは、確実なこととして提示することができる。<地図2-3>は、ユーラシアの人類史について何やら根本的なことを伝えているのだ。周縁部の核的かつ双処居住の家族モデルは、おそらくもともとは、大西洋と太平洋の間に位置したすべての住民集団の特徴であったシステムの残滓に他ならない、ということである。ブルターニュとフィリピンの間、ポルトガルとベーリング海峡の間、ラップランドとアンダマン諸島の間に居を構えた住民集団の身体的外見がひじょうに多様であるということは、この類型が、ユーラシアの人類が互いに異なるいくつもの表現型〔身体的外見〕に分化する多様性をもたらすことになった集団の拡散よりも、時代的に古いものであることを、示唆しているのである。本書第II巻で行なわれる、アフリカ、アメリカ、オセアニアについての家族に関するデータの分析は、身体的外見の差異の出現よりも時間的に先立つ起源的な家族原型についてのこの印象を、確証してくれることだろう」132頁

「あまりにも単純な家族類型体系に捕われていた当時の私は、モンゴル、カザフ、キルギス、トルクメン、ベドウィン・アラブ、もしくはイラン人集団の父系のクラン的組織編成は、家庭集団の共同体構造に対応するものではない、ということを見抜くことができなかった。というのも、これらの集団の明示的な父系イデオロギーは、一時的父方同居を伴う核家族構造の上に、重なっているのである」133頁

「母方居住というものは、とくに母系制というその極限形態において、〈対抗模倣〉ないし〈異文化の分離的否定受容〉の現象であるということで説明がつくことが分かって来る。なお〈退行模倣〉とは、ド・タルドの言葉であり、〈異文化の分離的否定受容〉とは、ドゥヴルーの言葉である。つまり母方居住は父系制の接近に対する反動であり、それの地理的分布が接触前線のような様相を呈するのは、まさにそのゆえに他ならないのである」154頁

「歴史上最初の中国王朝である商〔殷〕王朝…は、兄弟間の横の継承の慣習を出現させている。権力は、次の世代に移る前に兄から弟へと移行し、そののち長兄の長男へと戻っていく。横の動きに続いて、次の世代の年長の甥へと斜に降りるという相続のシークエンスは、『Z型継承』と名付けることができる。…古代日本や初期のファラオのエジプト、さらには今日のアフリカにおいて、これは何度か見出されることになる。…兄から弟への継承と、〈サイクルα〉の特徴である横への移行との間に何らかの関係があり得る。…
 さらに言うなら、亀甲上の文字は、兄弟間の継承を示唆しているとしても、父系社会を喚起しているわけではないのである」184頁

「〈直系家族の出現の背景としての稠密な農業〉
…出発点としては、狩猟採集民と最初の農耕民の特徴である、より幅広い双方的親族集団の中に組み込まれた、一時的双処同居を伴う核家族…農耕の進化と家族の進化の間には必然的に機能的関係がある…
 フレイザーが指摘していたように、最近結婚したばかりの子どもが両親の許に留まり、やがて次の者が交替する〈サイクルα〉は、流動的住民集団および拡張的生産システムと高度に両立する…しかし〈サイクルα〉は、移動農耕と全く同じように拡張的定住農耕とも両立する…実際には、初期の農耕民にとって、出発を促す力はきわめて強い。新しい土地は古い土地よりも肥沃だからである。古い土地の再生は、古い共同体にとって早くも問題となる可能性がある。フレイザーが記したように、『新石器時代の経済は拡張的である』…
…領土拡張のこの農業システムにおいて、土地の分割は可能であるが必須ではない。明確な遺産相続規則の定義は、無用であろう。したがって、平等原則も不平等原則もないのである。この局面においては、父方居住の実践も規範も想定させるものは何もない。とはいえ私は、一種末子相続制のごときものを想定する…非父系的で、遺産の最後の分け前を、両親の面倒を見る男子もしくは女子の子どもに与える、というだけのもの」189-91→

(承前)「しかし最後には、この拡張農業文明の中心部では土地は希少になり、ピエール・ショーニュの表現を借りるなら、『満員の世界の時代』が徐々に腰を据える。移住することは容易でなくなった。生産の増大は集約化の形態をとらなくてはならない。…こうした初めて、さまざまな子どもの遺産相続への権利についての理論的な問題が提起されることになる。可処分の財の量が、拡張可能な総体ではなく、有限の総体として知覚されたからである。ヨーロッパについて研究した多くの歴史家たちに続いて、私も、直系家族の仕組みが発明されたのは、どの土地にも持ち主がいるというこの閉ざされた世界の中においてであると思う。不可分性の規則は、地所の一体性を保証する。地所すなわち、社会的階層の上の者にとっては封土であり、下の者にとっては農場である。はるか後になって長子相続制が出現したヨーロッパのケースにおいては、その発明は社会構造の最高水準、すなわち王に由来する…」191-2頁→

(承前)「私は、必然的な因果過程を喚起しているわけではない。閉ざされた空間内で稠密化した定住農耕は、ここでは単に直系家族の出現に好ましいコンテクストとして記述されているにすぎない。直系家族は定住農耕の中につねに現われると、言っているのではない。…また、一たび発明された直系家族のメカニズムは、この元々のコンテクストから独立して広まることはできないと、言っているわけでもない。…
 この非常に慎ましいモデルは、なぜ不分割はたいていの場合父系的であるのかを述べることはできない。…歴史の中で観察される家族的シークエンスは、人間という種の心理的作動〔動き方〕について、何事かを明らかにしてくれると考えたいものである」192頁

「〈末子相続は長子相続よりも前か後か〉
 不分割の規則こそ、直系家族の作動を可能にするものだが、これにはいくつかの変種があり、主要なものは、長子相続と末子相続である。このうち前者の方が、はるかに頻繁である。…ここで私が関心を向けるのは、不完全な、〈レベル1の父系制〉に対応する父方居住直系家族についてである。…
 フレイザーの論理に従うなら、末子相続の方が先とする見方に行き着くだろう。彼は、末子相続制を〈サイクルα〉の『自然な』到達点と考えていた。…このような末子相続は、まだ不分割の規則によって規定されたものとすることはできない。これは何らかの直系家族システムを定義するわけではない。…農耕空間が閉ざされたことと不分割の概念の出現とが、どのように〈サイクルα〉の末子相続を変形するに至るのかを想像するにあたって、フレイザーのモデルは容易に延長することができる。すでに習慣によって家の相続者として指名されている最も若年の息子は、こうなると土地の不分割というものの恩恵に浴することになるだろう。そうなると、末子相続は意味が変わってしまう。拡大することをやめた世界の中で地所の大部分を所有する権利、つまり紛れもない特権となるのだ」193-4頁→

(承前)「これより後の段階になると、空間の完全な閉塞は規則の逆転を引き起こし、末子相続を長子相続へと転換させることになるかも知れない。他所へと移住する可能性を完全に奪われた長子は、最終的には『(成年に)先に着いた者から、先に食事にありつける』〔早い者勝ち〕という規則の効力で継承者として選ばれることだろう。…
 このようなシークエンスを暗示することができる事例は、かなりの数に上る。…ヨーロッパでは、実際に相続上の特権を含意するような末子相続を伴う直系家族は、長子相続を伴う直系家族に対して、たいていの場合、周縁部的である。空間内のこのような配置は、直系家族の歴史に2段階がある、すなわち第1段階は末子相続で、第2段階は長子相続であるとの仮説の検証となり得るであろう。
 男性末子相続から男性長子相続を引き出そうとするならば、一時的同居を伴う核家族の段階で単系制が出現したと仮定しなければならない。それはつまり、単系制は、当初は平面軸に沿って兄から弟への継承を伴って発展したということになるだろう。革新は、拡張的農耕システムというコンテクストの下で、ことさら生産システムの危機もないところで起こった、ということになる。だとすると、それはいかなる適応の刺激要因もないところで起こった純然たる発明であった」194頁→

(承前)「既知の事実と両立可能な解釈はもう一つある。一時的双処同居を伴う核家族の世界に直接、長子相続を伴う直系家族が出現したと仮定するのである。そうなると、単系制は、兄から弟ではなくむしろ父から息子へと続く縦の継承として、直ちに考案された、ということになろう。然るのちに、直系家族の父系革新は、自律的に、人口密度が低い周辺地域へと伝播・普及したということになり、それによって、それらの地域の一時的双処同居を伴う核家族が父系居住へと方向転換することになった、ということになる。…父系制が外部から到来して、父方居住制と明示的な男性末子相続とを同時に誘導したとする仮説は、一時的双処同居を伴う家族が実際上決して末子相続の規則を含むことがないことを示しているデータの解釈に、ぴったりと適合するのである。…
 提示された2番目の解釈によれば、末子相続は、長子相続とともに生まれた父系制の伝播に対する、部分的には分離的な適応反動にすぎない、ということになろう。この仮説の試みもまた、長子相続の周りに分布するという、末子相続の周縁部的配置を実に的確に説明する。それは中国のデータと完璧に両立する」194-5頁

「共同体家族と〈レベル2の父系制〉への移行…
…父方居住共同体家族の構造の定着と、それが女性のステータスに及ぼした長期的帰結を、慎重に区別して考えなくてはならないのである。〔女性の〕根底的な劣等性という観念は、少しずつ定着したにすぎない。ここでは、きわめて長い期間をかけて刻み込まれた心性の変遷を考えなければならないのである。
 この漸進的な現象が、中国でいかに進行したか…例えば、纒足は、女性を劣ったものにしようとする欲求と性的ファンタスムが交じり合って複雑に入り組んだコンプレックスをなしているわけだが、これが姿を現わしたのは、〈レベル2の父系制〉への到達のすぐ後というわけではなく、父方居住共同体家族の定着後1000年ほど経った、共通紀元後900年から950年までの間にすぎない」211頁

「中国は、家族システムを段階的に単純性から複合性へと導いて行くシークエンスを研究する機会を与えてくれた。このシークエンスは…複合性から単純性へ、共同体主義から個人主義への進化を把握しようとしていた、家族についてのこれまでの歴史社会学とは対立するものである。中国のシークエンスの場合、まず一時的同期を伴う核家族であったと思われる段階の次に、直系家族が現われ、そして最終的には、共同体家族システムが取って替わるが、それは息子の中の年長者に重要な儀式上の役割を残しておく直系家族段階の印を留めている」213頁

「家族類型(一時的同居を伴う核家族、父方居住直系家族、父方居住共同体家族)が姿を現わす順序は、諸価値の発明の一つのシークエンスを定義づけるが、そのシークエンスは、西洋政治学の表象とあまり一致しない。出発点は非定義状況であって、そこでは権威と自由、平等と不平等という近代的な概念は、ただ単に当てはまらないというだけの話である。一時的同居を伴う核家族は権威主義的でも自由主義的でもなく、平等主義的でも不平等主義的でもない。直系家族とともに、権威と不平等の概念が現われるが、それはすでに男性性の概念に結びついている。次の段階になると、共同体家族は権威の概念を受け継ぐが、それに平等の概念を付け加えるという革新を新たに施す。そこで平等の概念は不平等の概念にとって代わることになる。平等の概念はこの段階では男性にのみ関わる。…
 これは、平等を最も遠い過去の中に置き、不平等を直近の現在の中に置くルソーのシークエンスとは、正反対である。家族システムの歴史は、不平等の概念が平等の概念の前に発明されたことを示唆している」213-4頁

「人口統計学的推定では、縄文時代末期の日本列島の人口は16万人である。これは、採集と狩猟が支えることができた人口密度としては、相対的に高いものである。インゲン豆とごまの乾燥栽培が、最終段階で登場するが、日本の歴史の当初の独自性を最もよく説明するのは、海からもたらされる食物の重要性である。
 漁労というのは、生存手段として動物を捕食する営みのうち、現実的に農業革新の後に生き残って今日に至るただ一つのものである。今日なお、特に日本には、経済的に有意的な漁労民が存在する。…しかし、19世紀にヨーロッパ人と接触するようになったアメリカ大陸の北西海岸のサケ漁労民も、複合的な文明を築いていた」226-7頁

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