「生命の進化はそのつどの偶然な環境にたいする一連の適応とは別ものであるとしても、それは計画の実現ではなおさらない。…反対にもしも進化が不断にくりかえす創造であるなら、それは生命の諸形態をつぎつぎに創造してゆくばかりでなく、さらに知性なるものが生命を理解するのに役だつ観念や生命を表現するのによいような用語までもつぎつぎに創造してゆく。すなわち進化にあっては未来は現在の岸から溢れ、したがって現在のなかでひとつの理想としては描きだせぬことになる。
ここに目的論の第1のあやまりがある。第2のもっと困ったあやまりがそれにつづく。
もし生命が計画を実現するものなら、それはさきに進むにつれていっそう高い調和をあらわすはずであろう。…これに反し、もしも生命の統一が、時間の流れる道にそって生命を推進するはずみのなかに全部ごっそりこもっているとすると、調和は前方にはなく背後にある。統一は<背後の力>からくる。それは衝力としてはじめに与えられ、引力として終端に置かれてはいない。はずみは伝わりながらますます分岐する。生命は進展につれてさまざまな姿に現われながら分散する。…こうして種相互の不調和は高まってゆく」133-4頁
「進化運動を分裂させるのと同じ原因のはたらきで生命は進化の途中しばしば自分から脱けだし、いま自分が生んだばかりの形態の上に眠りこけるのである。…もちろん進化というものを最初の衝力できまった一般的な方向をたえずすすむことの意味に解するなら、進歩はしている。しかしそのような進歩のとげられるのは2、3の重要な進化の線だけであり、そこではいよいよ複雑でますます高等な形態がつぎつぎに浮き彫られてゆく。それらの線のあいだをたくさんの小道が走り、そこでは反対に脱線や行きどまりや逆もどりがたびたび重なる。…偶然にもたっぷりと持分を与えてかからなければいけない。自然界では何もかもがうまく嚙みあっているわけではないことをみとめなければならない。…そこには計画やその実現を越えたもっとすぐれたものがある。計画とは仕事にあてがわれた目標である。それは未来を形にえがきながら未来を閉じる。これに反し、生命進化の前方には未来の扉が明けっぱなしになっている。それは運動しはじめたときの力ではてしなくつづけられる創造なのである。この運動が有機的世界の統一を作る。それは実り多い無限にゆたかな統一であり、どんな知性の夢みるものにもまさっている。知性はこの運動のひとつの相面ないしひとつの産物にすぎぬからである」134-5頁
「生命のひとつの本質的発露でほかの発露の特徴を萌芽ないし潜勢の状態で示さぬものはない。逆に、進化のある線上で他の線にそって発達しているもののいわば思出にぶつかったら、私たちはおなじ原傾向の分裂から生じた諸要素を相手にしているのだと結論すべきである。そのような意味で、植物と動物とは生命の2方向に開いた主要な発展をたしかに代表している。植物は固着性と無感覚によって動物から区別されるにしても、運動や意識も植物のなかに思出としてまどろんでいて、いつ甦えるかわからない。こうして常態どおり眠りこんでいる思出のほかに、目ざめて活動している思出ももとよりある。…<ひとつの傾向が発展しながら分解するとき、そこに生じた特殊な諸傾向はいずれも自分の専門となった仕事と両立できそうなものなら何でも原傾向のなかから取りとめて発展させようとするものだ>。ここから説明されるのはほかでもない、進化の独立な諸線上におなじ複雑な器官が形成されるという…事実であろう」149-50頁
「高等な有機体は本質的には消化・呼吸・循環・分泌等の器官の上に感覚・運動系統が据えつけられたといった構造になっていて、それらの器官はこの系統を修復し清掃し保護してやり、また恒常的な内部運動をそのために作ってやり、最後になかんずく潜在エネルギをそれに送って場処運動にかえさせるなどの役割をもつ。…高等な有機体では機能の複雑化は無限にすすむ。それゆえそうした有機体のひとつを研究すると、そこでは一切が一切の手段をつとめているかのようになっていて、私たちは円運動に巻きこまれてしまう。だからといってこの円にやはり中心がないわけではない。その中心が、感覚器官と運動装置のあいだに張りわたされた神経要素の系統なのである」156頁
「最下等なモネラ…から天賦にもっともめぐまれた昆虫類やすぐれて知的な脊椎動物にいたるまで、動物がとげてきた進歩はなかんずく神経系統の進歩であり、それもこの進歩の各段階に応じて必要となった諸部分のあらゆる創造と複雑化とをともなっての進歩であった。…生命の役目は物質に不確定性をはめこむことにある。生命が進化の歩みにつれて創造する形態は不確定な、すなわち予見されぬものである。それらの形態が運び手をつとめるはずの活動もまたいよいよ不確定に、すなわちいよいよ自由になる。…ノイロンをもった神経系統はそれこそ<不確定性の貯蔵所>ではないか。生命衝動の本質がこの種の装置の創造にむかって進んできたのだということは、有機的世界の全体を一目みわたせばわかるように思われる」157-8頁
「有機的世界をつらぬいて進化する力はかぎられた力であること、自分を超えようとつねにつとめながら自分の生み出そうとする仕事にたいしていつもきまって背丈が足りぬということは、忘れられてはならない。この点の誤解から過激な目的論のいろいろな誤謬や子供じみた考えが生れる。過激な目的論は生物界の全体をひとつの工作物として、それも私たちの作るものに似た工作物として表象した。それによると、この工作物のあらゆる部品は器官全体ができるだけ機能を発揮することを目ざして配置されている。どの種も自分の存在理由や機能や使命をもつ。あらゆる種が一緒になって一大協奏曲を奏でており、そこではちょっと聞くと不協和なところも底にある調和をひときわひびかせるのにもっぱら役立つ。要するに自然界においても万事は人間の天才の作品のばあいと同様にはこぶと考えられている。天才のなしとげる成果はごく小さいかもしれないが、製作物と製作の仕事とのあいだにはとにかく完全な等量関係が存在するのである」158-9頁
「不協和の深い原因は埋めようのないリズムの差異にひそんでいる。生命一般は動きそのものである。生命の発露した個々の形態はこの動きをしぶしぶと受けとるにすぎず、たえずそれに遅れている。動きはずんずん前進するのに、個々の形態はその場で足踏みしていたがる。進化一般はなるたけ直線的にすすもうとし、特殊な進化過程はいずれも円を描く。生物は一陣の風に巻きあげられたほこりの渦のようなもので、生命の大きな息吹きのなかに浮んだままぐるぐると自転する。したがって生物は割合に安定していて、しばしば動かぬものの真似までうまくやるので、私たちはついそれを<進歩>よりはむしろ<事物>としてあつかい、その形態の恒久的なところすら運動を描いたものに他ならぬことを忘れてしまう。…生物は何はともあれ通過点であり生命の本領は生命をつたえる運動にあるのだ」159-60頁
「生命は根かぎり働こうとするのにおのおのの種はできるだけわずかな努力ですませる方をえらぶ、とでもいおうか。生命はそのぎりぎりの本質すなわち種から種へ移行するところを直視するなら、ひたすら増大する行動である。ところが生命の通りぬけてゆく個々の種はいずれも楽をすることしか念頭にない。種は最小の骨折りですむ方へ向う。自分のなろうとする形態に溺れて種はなかば眠りこみ、自分以外の生命全体のことにはほとんど知らぬ顔である。種は身近な環境から最大限にしかもできるだけたやすく摂取することを目あてに自分を仕上げてゆく。このようなわけで、生命が新しい形態の創造に向ってすすむ行為とこの形態そのものが描きあげられる行為とは、ふたつの異なった運動でありしばしば競りあってもいる」160-1頁
「生きている形態は定義そのものからいって生きられる形態である。有機体がその生きる環境にたいして適応しているようすはどのように説明されるにしても、種が存続している以上その適応は十分でないはずがない。この意味で古生物学や動物学が描いてみせる系図上の種は、いずれも生命がかちとった<成功>であった。…運動はよく脱線し、停止させられることもしばしばであった。通過点にすぎぬはずのものが終点になった。この新しい観点に立つと、失敗は通則に、成功は例外でしかもいつも不完全なものにみえてくる。…動物の生命が踏みこんだ4つの主方向のうちふたつは袋小路に行きあたり、のこるふたつの道でも努力は成果と釣合わぬのがふつうであった」161頁
「生命に内在する力がかぎりのないものであったなら、その力はおなじ有機体内に本能と知性とをたぶんはてしなく発展させたであろう。しかしあらゆる徴候からみて、生命のこの力は有限であり、発揮されはじめると早々に涸れるらしい。同時にいくつもの方向に遠くまで行くことはこの力にはむずかしい。それは選択せねばならぬ。それもなまの物質にたいする2通りの働らきかけかたのうちひとつを択ぶほかない。その力は<有機的>な道具を自分のために創作しそれで仕事をして<直接に>そうした作用を生みだすことができる。あるいはまた、ある有機体によって<間接に>働らきかけることもできる。このばあいその有機体は必要な道具を自然にそなえていないかわりに、自分で無機物を細工して道具を作るであろう。ここから知性と本能が生ずる。両者は発展しながらだんだんと方角が開くが、たがいに分離することはけっしてない。…知性に本能の入用な度合は本能が知性を要するよりも大きい」174-5頁
「人間にいたってはじめて知性は自分を残りなくつかむ。そしてこの勝利を実証しているのがほかでもない、敵にたいし寒さや饑えにたいして身を守る手持ちの自然な手段が人間に乏しいことである。…正直のところ自然はやはりこの[本能と知性という]2通りの心的活動のあいだに迷わずにはいられなかった。一方は直ちに成功することは疑いないにしても効果にかぎりがあり、他方は一かばちかであるがもしうまく独立できればその版図はいくらでも拡がりえよう。とにかく最大の成功はここでもやはり最大の危険を冒したものになったのであった。<そのようなわけで、本能と知性とはたったひとつの同じ問題の方角はちがいながらもどちらもすっきりとした2通りの解を示しているのである>」175-6頁
「生物が現実にはたす行為を取りかこんで可能的な行動あるいは潜勢的な活動の地帯があり、意識とはこの地帯に内在する光なのであろう。意識は躊躇ないしは選択を意味する。…<生物の意識とは潜勢的な活動と現実の活動との算術的な差であると定義してよいであろう。意識は表象と行動とのあいだのへだたりの尺度である>。
そこで知性はどちらかといえば意識にむかい、本能は無意識にむかうと想定してよかろう。けだし、あつかう道具は自然が組立て、その適用の対象は自然がそなえ、獲られる結果も自然が要求しているところでは、選択には端役しかのこっていない。…本能の<不足額>が、行為を観念からへだてる距離が意識になるわけであろう。してみると意識はひとつの事故にすぎぬことになろう」177-8頁
「知性の要素をなす諸能力はいずれも物質を行動の用具に、すなわち言葉の語源的な意味での器官(オルガン)に変形することを目ざしている。生命は有機体(オルガニズム)を生みだすだけで満足せず無機物そのままをお添えに与えて、これが生物の丹精によって大がかりな器官に転化されることを望んだのである。生命はそうしたつとめをまず知性に課する。それで知性は無生の物質に見とれてわれを忘れているかのような物腰をいまも相かわらずつづけているわけである。知性は外をみつめ自分自身にたいして外に立つ生命であり、原則どおりまず有機化されていない自然の歩みを採りいれて、それから事実上この歩みを導こうとする。…知性は何をするにせよともかく有機化されたものを非有機的なものに分解する。けだし、知性は自分に自然な方向をさかさにし自分自身に振りむかぬかぎり、本物の連続や事象そのままの運動性や相互の完全透入を、一言でつくせばそれこそ生命たる創造的進化を考えることはできぬのである」196頁
「知性は本来の語義での<進化>すなわち純粋な動きともいえる連続変化をまるで考えるようにできていない。…知性は生成を<状態>の羅列として表象する。…私たちがいくら努力してはてしなく追加をすすめて生成の動きをうまく真似てみても仕方はないので、生成そのものは私たちがそれをつかまえたと信ずるとき指のあいだからすり抜けることであろう。 ほかでもない、知性はつねに構成しながら構成しなおそうとししかも与えられたもので構成しなおそうとするからこそ、歴史の各瞬間における<新奇な>ものをとり洩らすのである。知性は予見されぬものを許容しない。創造をことごとく斥ぞける。…私たちのたずさわっているのは既知のものとうまく嚙みあう既知のもの、要するにつねに繰りかえす旧いものである。…知性は根底からの生成と同様に完全な新しさというものもみとめない。…知性は生命の本質的な一面を、まるでそんな対象を考えるためにはできていないかのように取りにがす」197-200頁
「私の観点にたつと生命は大づかみにひとつの巨大な波となってあらわれる。その波はひとつの中心から輪をひろげてゆき、そのほぼ全円周上で進化をやめておなじ場処での振動にかわる。ただひとつの点で障害が押しきられて、衝力は自由に通りぬけたのであった。人間の形態にはこの自由が書きとめられている」314頁
「ひとりの思想家が立ちあがって進化説をとなえて、そこでは物質が知覚性へすすむ動きと精神が合理性にむかう歩みをともどもに辿りなおすことができるとしたとき、外と内の対応が複雑化するさまを一段一段と追ってゆくことができるとしたとき、つまり変化こそものの実質そのものだとしたとき、万人の注視はそのひとに向けられた。スペンサの進化論が当代の思考をつよく惹きつけたゆえんであった。スペンサはいかにもカントから遠のいてみえるし、もともとカント主義に無知であったにもかかわらず、生物の諸科学に接したそもそものはじめから、哲学はどちらの方向に進んだらカント的批判を計算にいれながら歩みつづけることができるかをやはり感じとっていた。
ただしスペンサはこの道をすこし行ったばかりで引きかえした。発生をありのままに辿ることを約束しながら、なしとげたのはつぎのとおり全く別のことであった。スペンサの理説はなるほど進化論の名を冠していた。宇宙的生成の流れをのぼり下りするつもりだとそれは称していた。真相は、そこでは生成も進化も問題になっていなかった。
…スペンサ哲学を立ちいって吟味はできない。ただこれだけをいうなら、<スペンサの方法がいつももちいる技巧は、進化しとげたものをくだいた細片でもって進化をもとどおり構成することである>」423-4頁
訳者解説「具体的な創造的時間としての進化はみとめたいし、しかし進化は科学の事実ではないというディレンマは、『生命のはずみ』の考えによって打開されました。…生命ははずみながら不断に連続進展してゆきます。それははずみですから始源のいきおいを減衰させずにどこまでも伝える記憶でもあります。ことに生命はその時の『はずみ』で予想もつかなかった、真新しい形態を創造することもできるでしょう。…生命ははずんで進むうちに脊椎動物や軟体動物などに分れてきましたが、一方ではそのような分れた間柄にも根源のはずみの共通な記憶はのこっていますから、そこから考えて適応はどこか似たものになるはずです。
…『創造的進化』にはいわゆる生物進化説は進化の事実を見のがしていること、生命のはずみこそ進化における『経験的事実』だということが意味されているわけです。…『進化』が生命のはずみまで深められたところに、時間を自由創造の立場から総合的にながめようとする意図はあらわれているとおもわれるのです」449-51頁
「私たちがほかの物体を全体のなかから裁断するのも生物体のためである。ところで生命は進化である。生命進化の一時期を私たちは安定した眺めに集中して、それを形態とよぶ」354頁