「生命のひとつの本質的発露でほかの発露の特徴を萌芽ないし潜勢の状態で示さぬものはない。逆に、進化のある線上で他の線にそって発達しているもののいわば思出にぶつかったら、私たちはおなじ原傾向の分裂から生じた諸要素を相手にしているのだと結論すべきである。そのような意味で、植物と動物とは生命の2方向に開いた主要な発展をたしかに代表している。植物は固着性と無感覚によって動物から区別されるにしても、運動や意識も植物のなかに思出としてまどろんでいて、いつ甦えるかわからない。こうして常態どおり眠りこんでいる思出のほかに、目ざめて活動している思出ももとよりある。…<ひとつの傾向が発展しながら分解するとき、そこに生じた特殊な諸傾向はいずれも自分の専門となった仕事と両立できそうなものなら何でも原傾向のなかから取りとめて発展させようとするものだ>。ここから説明されるのはほかでもない、進化の独立な諸線上におなじ複雑な器官が形成されるという…事実であろう」149-50頁
「高等な有機体は本質的には消化・呼吸・循環・分泌等の器官の上に感覚・運動系統が据えつけられたといった構造になっていて、それらの器官はこの系統を修復し清掃し保護してやり、また恒常的な内部運動をそのために作ってやり、最後になかんずく潜在エネルギをそれに送って場処運動にかえさせるなどの役割をもつ。…高等な有機体では機能の複雑化は無限にすすむ。それゆえそうした有機体のひとつを研究すると、そこでは一切が一切の手段をつとめているかのようになっていて、私たちは円運動に巻きこまれてしまう。だからといってこの円にやはり中心がないわけではない。その中心が、感覚器官と運動装置のあいだに張りわたされた神経要素の系統なのである」156頁
「最下等なモネラ…から天賦にもっともめぐまれた昆虫類やすぐれて知的な脊椎動物にいたるまで、動物がとげてきた進歩はなかんずく神経系統の進歩であり、それもこの進歩の各段階に応じて必要となった諸部分のあらゆる創造と複雑化とをともなっての進歩であった。…生命の役目は物質に不確定性をはめこむことにある。生命が進化の歩みにつれて創造する形態は不確定な、すなわち予見されぬものである。それらの形態が運び手をつとめるはずの活動もまたいよいよ不確定に、すなわちいよいよ自由になる。…ノイロンをもった神経系統はそれこそ<不確定性の貯蔵所>ではないか。生命衝動の本質がこの種の装置の創造にむかって進んできたのだということは、有機的世界の全体を一目みわたせばわかるように思われる」157-8頁
「有機的世界をつらぬいて進化する力はかぎられた力であること、自分を超えようとつねにつとめながら自分の生み出そうとする仕事にたいしていつもきまって背丈が足りぬということは、忘れられてはならない。この点の誤解から過激な目的論のいろいろな誤謬や子供じみた考えが生れる。過激な目的論は生物界の全体をひとつの工作物として、それも私たちの作るものに似た工作物として表象した。それによると、この工作物のあらゆる部品は器官全体ができるだけ機能を発揮することを目ざして配置されている。どの種も自分の存在理由や機能や使命をもつ。あらゆる種が一緒になって一大協奏曲を奏でており、そこではちょっと聞くと不協和なところも底にある調和をひときわひびかせるのにもっぱら役立つ。要するに自然界においても万事は人間の天才の作品のばあいと同様にはこぶと考えられている。天才のなしとげる成果はごく小さいかもしれないが、製作物と製作の仕事とのあいだにはとにかく完全な等量関係が存在するのである」158-9頁
「不協和の深い原因は埋めようのないリズムの差異にひそんでいる。生命一般は動きそのものである。生命の発露した個々の形態はこの動きをしぶしぶと受けとるにすぎず、たえずそれに遅れている。動きはずんずん前進するのに、個々の形態はその場で足踏みしていたがる。進化一般はなるたけ直線的にすすもうとし、特殊な進化過程はいずれも円を描く。生物は一陣の風に巻きあげられたほこりの渦のようなもので、生命の大きな息吹きのなかに浮んだままぐるぐると自転する。したがって生物は割合に安定していて、しばしば動かぬものの真似までうまくやるので、私たちはついそれを<進歩>よりはむしろ<事物>としてあつかい、その形態の恒久的なところすら運動を描いたものに他ならぬことを忘れてしまう。…生物は何はともあれ通過点であり生命の本領は生命をつたえる運動にあるのだ」159-60頁
「生命は根かぎり働こうとするのにおのおのの種はできるだけわずかな努力ですませる方をえらぶ、とでもいおうか。生命はそのぎりぎりの本質すなわち種から種へ移行するところを直視するなら、ひたすら増大する行動である。ところが生命の通りぬけてゆく個々の種はいずれも楽をすることしか念頭にない。種は最小の骨折りですむ方へ向う。自分のなろうとする形態に溺れて種はなかば眠りこみ、自分以外の生命全体のことにはほとんど知らぬ顔である。種は身近な環境から最大限にしかもできるだけたやすく摂取することを目あてに自分を仕上げてゆく。このようなわけで、生命が新しい形態の創造に向ってすすむ行為とこの形態そのものが描きあげられる行為とは、ふたつの異なった運動でありしばしば競りあってもいる」160-1頁
「生きている形態は定義そのものからいって生きられる形態である。有機体がその生きる環境にたいして適応しているようすはどのように説明されるにしても、種が存続している以上その適応は十分でないはずがない。この意味で古生物学や動物学が描いてみせる系図上の種は、いずれも生命がかちとった<成功>であった。…運動はよく脱線し、停止させられることもしばしばであった。通過点にすぎぬはずのものが終点になった。この新しい観点に立つと、失敗は通則に、成功は例外でしかもいつも不完全なものにみえてくる。…動物の生命が踏みこんだ4つの主方向のうちふたつは袋小路に行きあたり、のこるふたつの道でも努力は成果と釣合わぬのがふつうであった」161頁
「生命に内在する力がかぎりのないものであったなら、その力はおなじ有機体内に本能と知性とをたぶんはてしなく発展させたであろう。しかしあらゆる徴候からみて、生命のこの力は有限であり、発揮されはじめると早々に涸れるらしい。同時にいくつもの方向に遠くまで行くことはこの力にはむずかしい。それは選択せねばならぬ。それもなまの物質にたいする2通りの働らきかけかたのうちひとつを択ぶほかない。その力は<有機的>な道具を自分のために創作しそれで仕事をして<直接に>そうした作用を生みだすことができる。あるいはまた、ある有機体によって<間接に>働らきかけることもできる。このばあいその有機体は必要な道具を自然にそなえていないかわりに、自分で無機物を細工して道具を作るであろう。ここから知性と本能が生ずる。両者は発展しながらだんだんと方角が開くが、たがいに分離することはけっしてない。…知性に本能の入用な度合は本能が知性を要するよりも大きい」174-5頁
「人間にいたってはじめて知性は自分を残りなくつかむ。そしてこの勝利を実証しているのがほかでもない、敵にたいし寒さや饑えにたいして身を守る手持ちの自然な手段が人間に乏しいことである。…正直のところ自然はやはりこの[本能と知性という]2通りの心的活動のあいだに迷わずにはいられなかった。一方は直ちに成功することは疑いないにしても効果にかぎりがあり、他方は一かばちかであるがもしうまく独立できればその版図はいくらでも拡がりえよう。とにかく最大の成功はここでもやはり最大の危険を冒したものになったのであった。<そのようなわけで、本能と知性とはたったひとつの同じ問題の方角はちがいながらもどちらもすっきりとした2通りの解を示しているのである>」175-6頁
「生物が現実にはたす行為を取りかこんで可能的な行動あるいは潜勢的な活動の地帯があり、意識とはこの地帯に内在する光なのであろう。意識は躊躇ないしは選択を意味する。…<生物の意識とは潜勢的な活動と現実の活動との算術的な差であると定義してよいであろう。意識は表象と行動とのあいだのへだたりの尺度である>。
そこで知性はどちらかといえば意識にむかい、本能は無意識にむかうと想定してよかろう。けだし、あつかう道具は自然が組立て、その適用の対象は自然がそなえ、獲られる結果も自然が要求しているところでは、選択には端役しかのこっていない。…本能の<不足額>が、行為を観念からへだてる距離が意識になるわけであろう。してみると意識はひとつの事故にすぎぬことになろう」177-8頁
「知性の要素をなす諸能力はいずれも物質を行動の用具に、すなわち言葉の語源的な意味での器官(オルガン)に変形することを目ざしている。生命は有機体(オルガニズム)を生みだすだけで満足せず無機物そのままをお添えに与えて、これが生物の丹精によって大がかりな器官に転化されることを望んだのである。生命はそうしたつとめをまず知性に課する。それで知性は無生の物質に見とれてわれを忘れているかのような物腰をいまも相かわらずつづけているわけである。知性は外をみつめ自分自身にたいして外に立つ生命であり、原則どおりまず有機化されていない自然の歩みを採りいれて、それから事実上この歩みを導こうとする。…知性は何をするにせよともかく有機化されたものを非有機的なものに分解する。けだし、知性は自分に自然な方向をさかさにし自分自身に振りむかぬかぎり、本物の連続や事象そのままの運動性や相互の完全透入を、一言でつくせばそれこそ生命たる創造的進化を考えることはできぬのである」196頁
「知性は本来の語義での<進化>すなわち純粋な動きともいえる連続変化をまるで考えるようにできていない。…知性は生成を<状態>の羅列として表象する。…私たちがいくら努力してはてしなく追加をすすめて生成の動きをうまく真似てみても仕方はないので、生成そのものは私たちがそれをつかまえたと信ずるとき指のあいだからすり抜けることであろう。 ほかでもない、知性はつねに構成しながら構成しなおそうとししかも与えられたもので構成しなおそうとするからこそ、歴史の各瞬間における<新奇な>ものをとり洩らすのである。知性は予見されぬものを許容しない。創造をことごとく斥ぞける。…私たちのたずさわっているのは既知のものとうまく嚙みあう既知のもの、要するにつねに繰りかえす旧いものである。…知性は根底からの生成と同様に完全な新しさというものもみとめない。…知性は生命の本質的な一面を、まるでそんな対象を考えるためにはできていないかのように取りにがす」197-200頁
「ふたつの仮説のうち、前者[新ダーウィン説]は本能の起こりを偶然な変様におき、これは個体が獲得したのではなく胚についたものだとするのであるから、重大な異議をまねかずに遺伝的な送達を語りうるという長所をもつ。そのかわり、これではほとんどの昆虫にあるあの怜悧な本能はまったく説明できない。…新ダーウィン派のような仮説では、進化は新しい部品がつぎつぎに僥倖によってなんとか旧い部品に嚙み合わせられながら追加されていって起こるほかなかろう。ところでほとんどの場合、ただ増加しただけで本能が完成されえなかったことは明らかである。実さい新しい部品が加わるごとに、一切をだめにしてしまわないために全体を完全に調整しなおすことが必要とされたのである。そのような調整のやりなおしがどうして偶然から期待されよう」204-5頁
「新ダーウィン説は進化が個体から個体へよりはむしろ胚から胚へとおこなわれると主張するとき確かに正しいし、新ラマルク派も本能のみなもとには努力が(<知性的な>努力とはまるで別物と信じられるにしても)あるといいはじめたときやはり正しい。しかし前者は本能の進化を偶然な進化だとするとき、また後者は本能のみなもとにある努力を個体の努力と見るときたぶんあやまっている。ある種が本能を変様し自分もまた変様する努力ははるかに根ぶかいものでなければならない。それは環境だけにも個体だけにも依存しない。そのような努力は個体の協力がそこにあるにしても個体の発意にばかりたよるものではなく、偶然のそこに占める場処が大きいにしてもひたすら偶然的なわけでもない」206頁
「生命の進化は観念らしい観念にまとめることはできぬにしてもその意味はずっとはっきりしてくる。一切の経過から見たところは、あたかも意識のある大きな流れが意識のつねとしてけたはずれに多様な潜在力を相互透入の状態に担いながら物質に侵入してきたかのようである。物質はこの流れに引きずられて有機組織になったが、流れの運動は物質によって無限に遅らせられながら無限に分岐された。…生命、すなわち物質のただなかを走らせられている意識は、自分の運動かでなければ自分の通りすぎる物質に注意を固定した。意識はこうして直観の方向か知性の方向をとった。…
…意識が進化の運動原理としてあらわれてくるばかりでなく、さらに意識をもつ生物そのもののなかで人間が特権的な地位を占めることになる。動物と人間とのあいだにはもはや程度の差どころではない、本性の差がある」218-20頁
訳者解説「生物の種はアリストテレスこのかた不変とみなされてきましたが、もしそれが進化論のとなえるように自然的起源をもつものであれば、なかんずく進化こそはもっとも具体的な創造的時間でしょう。ベルグソンが若いころ親しんだスペンサの進化論をもういちど取りあげる気になったのは自然のなりゆきでした。
…ベルグソンは進化論哲学を非難しましたが、それはスペンサが進化をとげたものの要素でもって進化を再構成しようとして進化そのものの動きを取りにがしたことについてでした」448-9頁
訳者解説「具体的な創造的時間としての進化はみとめたいし、しかし進化は科学の事実ではないというディレンマは、『生命のはずみ』の考えによって打開されました。…生命ははずみながら不断に連続進展してゆきます。それははずみですから始源のいきおいを減衰させずにどこまでも伝える記憶でもあります。ことに生命はその時の『はずみ』で予想もつかなかった、真新しい形態を創造することもできるでしょう。…生命ははずんで進むうちに脊椎動物や軟体動物などに分れてきましたが、一方ではそのような分れた間柄にも根源のはずみの共通な記憶はのこっていますから、そこから考えて適応はどこか似たものになるはずです。
…『創造的進化』にはいわゆる生物進化説は進化の事実を見のがしていること、生命のはずみこそ進化における『経験的事実』だということが意味されているわけです。…『進化』が生命のはずみまで深められたところに、時間を自由創造の立場から総合的にながめようとする意図はあらわれているとおもわれるのです」449-51頁