「科学がいままでに構成したのは生命活動の老廃物にとどまっている。本来の意味で活動的・可塑的な物体は依然として合成を受けつけない。現代もっとも著名な一博物学者はかねてから主張して、生きた組織内で確認される現象は対立するふたつの筋合にわかれ、ひとつは<上向発生>で他は<下向発生>であるという。上向発生のエネルギの役割は、無機物質を同化して下等なエネルギを自分に固有の水準まで高めることにある。それは組織を形成する。これに反し、生命機能のいとなみそのものは(ただし同化、成長、生殖はのぞくとして)下向発生の筋合にぞくし、エネルギは下降してもはや上昇しない。物理化学に手が出せるとすれば、それはもっぱら下向発生の側の現象であり、すなわち要するに死物であって、生きものではない。…組織学的現象の研究が深まるにつれて、一切を物理学や化学で説明する傾向が鼓舞されるどころかかえって失望させられるばあいの如何にも多いという実状…組織学者E. B. ウィルソンは細胞の発達にささげられたお世辞でなくすばらしい書物のなかでそうした結論を出している。『細胞の研究は生命の形態、それも最下等なものを無機の世界から大きくへだてる溝を狭めるよりはむしろ拡げたようにみえる』」58-9頁
「生物の機能活動だけに没頭するひとは、生物学的過程をとく鍵は物理学や化学から与えられると信ずるようになりがちである。事実このひとびとは生物の体内で、ちょうどレトルト内でのように絶えず<くりかえす>現象を好んであつかう。生理学の機械論的な傾向はここからいくらかは説明がつく。これに反し、生きた組織の微妙な構造に、その発生や進化に注意を集中するひとにとっては、すなわちかたや組織学者と胎生学者にとりかたや博物学者にとっては、もはやレトルトの内容ばかりでなくレトルトそのものが相手である。そこではこのレトルトは<独自な>一連の行動が作りあげる本物の歴史をたどりながら、自己固有の形態を創造することがわかる。組織学者、胎生学者、あるいは博物学者といったひとびとは、生きた行動の物理化学的性格を生理学者のように気がるに信ずる気持にはなかなかなれない」60頁
「機械的な説明がなり立つのは、私たちの思考が全体から人工的に切りとる系にたいしてである。けれども全体そのもの、また全体のなかでおのずから全体に似てできている系になると、それらを機械的に説明する可能性はアプリオリにはみとめられない。みとめてよいなら、時間は無用となり、事象的でさえなくなろう。けだし、機械的な説明の真髄は、未来と過去とを現在の函数として計算できるものと考え、そして<一切は与えられている>と主張するところにある。この仮説によると、そうした演算のやりとげられる超人間的な知性になら過去・現在・未来は一目で見わたせることになる。事実また科学者のうち機械的説明を普遍的で完全に客観的と信じたひとびとは、知っててか知らないでかこの種の仮説を立ててきた。早くはラプラースがこの仮説を的確きわまる定式であらわしていた」61-2頁
「過激な機械論にはひとつの形而上学が蔵されている。この形而上学では事象の総体はひと丸めに永遠のなかに置かれており、そこに事物の見かけ上の持続はあっても、それはただ精神は弱いもので万事をいちどきに知ることはできぬということの表現にすぎぬ。けれども、私たちの経験中もっとも文句のありえぬものすなわち意識にとっては、持続はそんなものとはおよそ別物である。私たちは持続を測ることのできぬ流れとして知覚する。持続は私たちの存在の根底をなし、また私たちもひしと感じているとおり、私たちの交渉する事物の実質そのものでもある。普遍数学の見通しをいくら私たちに見せびらかしてもしかたがない。私たちは体系の要求するままに経験を犠牲にすることはできない。過激な機械論を私が斥けるゆえんである」63頁
「過激な目的論もまた受けいれられぬように思われる。目的論の教説には、たとえばライプニツに見られるような極端な形になると、事物や存在はひとまずたどっておいたプログラムを実施するにすぎぬ、との考えがこもっている。けれども宇宙には思いがけないことが何もなく、発明も創造も全然ないなら、時間はやはり無用になる。機械論の仮説と同じことで、ひとはここでもやはり<すべては与えられている>ことを前提しているのである。この意味での目的論は向きの逆になった機械論にすぎない。それは同じ前提から生気を吹きこまれている。…
そうはいっても、目的論は機械論のように動きのとれぬ線で描かれた教説ではない。ひとがやわらか味をもたせようとすれば結構それに堪えられる。機械論の哲学は採るか捨てるかしかない。かりにごく小さな塵の一片が力学の予想した軌道からはずれてごくわずかでも自発性の証跡を示すことがあれば、この哲学は捨てられねばなるまい。これに反し、目的因をたてる教説は決定的に論破されることはけっしてないであろう。そのある形を遠ざけても、別な形であらわれるであろう。目的説の原理は心理的な本質のもので、柔軟をきわめている」63-4頁
「有機的世界にかぎってみても一切がそこでは調和であることの証明は一向にやさしくならぬ…自然は生物をたがいにせめがせる。自然はいたるところで秩序にならべて無秩序を、進歩にならべて退歩を見せつける。けれども、物質の総体についても確言できぬことが、ひとつびとつの有機体を別々に取りだしてみるならば真にはならないであろうか。ひとはそこに見ごとな仕事の分相、部分のあいだの霊妙な連帯性、無限の錯綜における完全な秩序をみとめぬであろうか。この意味で、生物はおのおの自分の実質に内在するひとつの計画を実現しているのではなかろうか。そのようなテーゼの要点は、底をあらえば、古来の目的観念を細かく砕くところにある。なにか<外的な>目的性があり、それにあわせて生物はつぎつぎに凭れあいになっているとするような考え方であると、ひとは受けいれないし、笑い草にさえしかねない。草は牝牛のために、子羊は狼のために作られた、と想像するのは馬鹿げているという。けれども、<内的な>目的性というものがある。それによると、生物はいずれも自分自身のために作られており、そのあらゆる部分は全体の最大善のために協力し、この目的にむけて知性によって有機的に組織されている。これが、すでに久しく古典的な目的観念である」65頁→
「過激な目的論のあやまりは、過激な機械論ももとよりそうなのであるが、私たちの知性に自然なある種の概念を広く適用しすぎるところにある。…人間の知性は人間的行動の要求にあわせて作られている以上、それは意図しながら計算しながらひとつの目的に向けてもろもろの手段を並べこむとともに、機械性をいよいよ幾何学的な形に表象しながら操作をすすめる知性なのである。ひとびとは自然を数学的法則に支配される巨大な機械のように想像したり、あるいはひとつの計画の実現をそこに見たりするが、いずれにせよそれらは同じ生の諸必要から精神のなかに生じてたがいに補いあっているふたつの傾向が、極端にまでおしつめられたものにすぎない。
ここに過激な目的論が過激な機械論におよその点で酷似するゆえんがある。どちらの教説も事物の経過にはもちろんのこと、たんに生命の発展のなかにすら、予見不能な形態創造というようなものは見たがらない。機械論は事象を類似あるいは繰りかえしの相面でしかみない。つまり機械論を支配するのは、自然界では似たものが似たものを生むばかりだというあの法則である。機械論の宿す幾何学がはっきりと浮きだしてくれるにつれて、何かが創造されるということは、たとえ形態の創造のばあいにかぎってもいよいよ容認できなくなる」69-70頁
「目的原理を厳格に適用すると、機械因果の原理のばあいと同様になり、『一切は与えられている』という結論にみちびかれる。この両原理はおなじ要求にたいする答として、同一事をふた通りの言葉で述べているのである。
ここに、両原理が心をあわせてさらに時間を抹消した理由もある。…一切が時間のなかにあるなら、一切は内的に変化して、おなじ具体的な事象が二度と繰りかえすことはない。つまり繰りかえしは抽象のなかでしか起こりえない。…知性は繰りかえすものに気をとられ、似たもの同士を鑞づけすることことにひたすら専心しているので、時間に目をとめないでそっぽを向く。知性は流動するものを嫌い、触れるものをことごとく固形化する。私たちは事象的な時間を<考え>ないのである。しかし、生命が知性をはみでるからには、私たちは事象的な時間を生きている。純粋持続のなかで私たちをはじめ一切の事物は進化しているとの感じがひかえていて、それが本来の意味の知的表象のまわりに定かならぬ暈を、闇のなかへぼかしながら描きだす。機械論と目的論とは中心にきらめく光の核しか考えに入れぬ点で一致する」70-1頁
「私たちの思考を閉じこめている過激な機械論と目的論の枠から出てみよう。事象はただちに新しいものの絶えざる湧出となって私たちの前にあらわれる。…私たちの振舞いの展開には、いたるところ機械性がありいたるところ目的性がある。…機械論と目的論とはこのばあい私の振舞いを外から撮った眺めにすぎない。振舞いのなかから知性的なものをそれらは取りだしたのである。…自由な行動は観念と不可約であって、その『合理性』はほかならぬこの不可約ということで定義されねばならない。この不可約性があるから、ひとは自由な行動のなかに知的なものをいくらでも発見できるのである。これが私たちの内的展開の特徴である。それはまた疑いもなく生命進化の特徴でもある」72-3頁
「不可約」の原語は?
「生命の総体を表象するとは、生命自体が進化の途上で私たちのなかに沈めていったさまざまな単純な観念を組合わせることではありえない。部分は全体に、内容は容器に、生きた操作の名残りは操作そのものにどうして等価でありえようか。…私たちは進化の到達点のひとつを占めており、それは主要な点にはちがいないが唯一のものではない。しかも折角その点を占めながら、私たちはそこに含まれているものを残らず捉えはしない。…私たちのあつかうのは進化をとげたものつまり結果だけにきまっており、進化そのものすなわちそうした結果をもたらす行為は私たちにはあつかえぬだろう。
以上が私の目ざしてゆく生命の哲学である。この哲学は機械論と目的論をともに同時に乗りこえることをうたう。しかし…それは前者よりは後者の教説に近い」75-6頁
「生哲学は過激な目的論よりは漠とした形ながら、有機的な世界をやはりひとつの調和した全体として私たちに再現するであろう。しかしこの調和は従来いわれてきたような完全なものからはほど遠い。そこにはいくらも不調和が入りこめる。おのおのの種が、各個体すらが生命の全衝動から特定のはずみだけを取りとめて、そしてこのエネルギを自分一個の利益にもちいようとつとめる。これが<適応>というものである。種や個体はこのように自分のことしか考えない。他の生命形態との軋轢がここから起こることになる。してみれば、調和は事実としては存在しないで、権利として存在するのである。…調和は、というよりはむしろ『相補性』は大まかに、状態よりは傾向のなかにあらわれるにすぎない。…調和は衝動の同一なことにもとづくので、共通な志向にもとづくのではない。生命に人間的語義での目的というものをもたせようとしても仕方がない。目的をとやかくいうのは、モデルという先在していてあとは実現さえすればよいものを考えることである。したがってそれは底を洗えば、一切は与えられており、未来も現在から読みとることはできると仮定することになる。それは、生命は運動するさいにも全体としても私たちの知性と同様に手をすすめるものだ、と信ずることである」76-7頁→
(承前)「実は知性は生命をみた動きのない断片的な眺めにすぎず、本性上つねに時間の外にたっている。生命というものは進行し持続する。…私がこれから提唱したい目的論的な解釈も、けっして未来を予料するものの意味にとってほしくない。それは過去を現在の光でみたある種の観照なのである。…目的概念は生命を知性から説明したために、生命の意味を過度に切りつめている。知性は、少なくとも私たちの内にみられるような知性は、進化がその経路において仕上げたものである。それは何かもっと広いもののなかで切りとられたもの、というよりはむしろ、せり出しも奥行きもある事象のどうしても平面化した投影にすぎぬ。本物の目的論ならこのようなもっと幅のある事象をこそ再構成するはずであろう。…その事象が知性からはみ出るからこそ、似たもの同士をむすびつけ繰りかえしをみとめこれを生産までする能力をこえるからこそ、それは疑いもなく創造的なのである」77-8頁
「適応とはもはや不適者の消去というだけのものではなくなるであろう。…有機体がその住むべき環境にたいして適応をおこなうといわれるとき、どこかに形態が先在して自分をみたす物質を待っているであろうか。環境は鋳型ではない。生命がそこに流しこまれそこから形態を受取るというふうなものではない。こんな理屈をいうひとは譬え話にだまされているのである。まだ形態などはなく、生命が自分の仕事として、課せられた条件に適する形態を自分のために創造するのである。生命にとっては環境から利益を引きだすこと、環境中の不都合なものを中和し有益なものは利用すること、つまり外部の作用にたいしてそれと似もつかぬ器官を作って反応すること、が必要になってくる。ここでは、適応するとはもはや<繰りかえすこと>ではなく、それとはまったく別物の、<応答すること>である」84-5頁
ニッチ構築的な
「一言でいうと、いわゆる適応が環境の凹状で与えるものを凸状にくりかえすだけの受動的なものであるなら、適応はひとが作ってほしいようなものを作ってくれないであろう。また適応は能動的で、環境の出す問題に計算ずくで答えることができるといい切るひとがあれば、そのひとは私がはじめに指摘しておいた方向に私よりもさき走り、私からみても行きすぎている。…ひとは個々の特殊なばあいには、適応の過程は有機体が外部環境を最高度に善用できるための器官を組み立てる努力でもあるかのようないいかたをし、そのあとで適応一般について、それは環境の押型そのものを無差別な物質が受動的に受けとったものでもあるかのように語るのである」85-6頁
「帆立貝の眼にも網膜、角膜、細胞構造の水晶体があらわれていることは、私たちの眼と同様である。…軟体動物と脊椎動物とが共通の幹から分れたのは帆立貝の眼ほどにこみ入った眼があらわれるずっと以前だった、ということではみな一致するであろう。ではそのような構造の類似はどこから来るのか。
この点に関して、ふたつの相反する進化論体系の説明…ふたつというのは、純粋な偶然変異の仮説と、変異は外部環境の影響で一定方向にととのえられるとする仮説とである。…私は、ひとびとのもち出す変異は大きいにしても小さいにしても、偶然によるものであるかぎりそれは…構造上の類似の説明にはなりえない、ということを示してみたいと思う」89-91頁
「進化を決定する偶然変異が目にみえぬ変異であるなら、それらの変異を保存し累加するためにある善霊に——未来種の精霊に——お縋りせねばならなくなろう。自然淘汰はその役を引受けてくれまい。他方また偶然変異が急激なら、その突発した全変化がともどもに同一機能の遂行を目ざして補いあわぬかぎり、もとの機能が引きつづきいとなまれることも、あるいは新しい機能がそれにかわることもないであろう。もういちど善霊にお詣りして、さきほどは継時的な変異に<方向の恒続性>を確保していただいたように、こんどは同時的な変化に<収斂性>を授けていただく必要があろう。いずれの場合にも、たがいに独立な進化の諸線上に同一構造が並行に発達する事実は、偶然変異のただの蓄積にもとづくものではありえないであろう」96-7頁
「さきに私は『適応』の語の曖昧さを指摘しておいた。形態がだんだんと複雑になって外部環境の鋳型にますますきちんと嵌りこむのと、器官の構造がだんだん複雑になって環境をいよいよ有利に用いるのとは別のことである。…自然そのものが私たちの精神をこの2種の適応を混同するように仕向けているように見える。というのも、自然は能動的に反動する仕掛をいずれは組立てねばならぬ場合、ふつうまず受動的な適応からはじめるからである。…生きた物質が環境を利用するには。まずそこに受動的に適応するほかに術はないように思われる。運動を導かねぱならぬとき、生命ははじめまずその上に乗る。生命は入りこみながら手を打つのである」98-9頁
「アイメルの主著は教えるところが多い。ひとも知るようにこの生物学者は丹念に研究した結果、変形がおこなわれるのは外から内へ向う影響がゆるぎない一定方向に連続的にはたらくからであって、ダーウィンの唱えたような偶然変異によるのではないことを証明した。…原因がはたらきうるのは<押す>か<解発する>か<ほぐす>かによる。…この3つの場合をたがいに区別するものは、原因と結果のあいだの連帯性の強弱である。第1の場合では、結果の量ならびに質は原因の量ならびに質とともに変化する。第2の場合では、結果は量質いずれも原因の量質とともに変化しない。結果は不変なのである。最後の第3の場合には、結果の量は原因の量にしたがっても、原因が結果の質に影響することはない。…原因が結果の<説明になる>のは、実は第1の場合のみである。他のふたつの場合には、結果は多少なりとも与えられており、その先行物としてもち出されるものは結果の原因よりはむしろ——もちろん種々の度合での——機会なのである。…アイメル自身もときに因果性を確かにこの意味[第1と第2の中間]に解して、変異の『万華鏡的』な性格を語り、また有機化物質の変異は無機物が一定方向に変異するのに似て、ある一定方向におこなわれるという」100-2頁
「新ダーウィン派の説くところでは、変異の本質的な原因は個体のになう胚に内属する変差であってその個体の重ねてきた振舞いではないとされるが、その点はたぶん正しいであろう。私がこの派のひとびとについて行きにくくなるのは、この生物学者たちが胚に内属する変差をひたすら偶然的で個別的とするときである。変差は胚から胚へと個体を介して伝わるある衝動の発達したものであり、したがってただの偶然ではないこと、またおなじ種の現員の全部か少なくともそのある数かにおなじ形で現われることはきわめてありうること、などを私としては信ぜぬわけにはゆかない。それに、<突然変異>説も早くからダーウィン説をこの点で立ちいって修正している。そのいうところによれば、種は長期間を経たある与えられた時機にいたると、変ろうとする気運にその全体が乗っとられる。してみると<変ろうとする気運>は偶然ではないのである。…新ダーウィン派も変異の周期が決まっていることは認めかかっている。そうすると少なくとも動物では変異の方向もまた決まっていてよいことになろう。ただしその決まる程度はいずれ示さねばならぬ」114-5頁
「機械論が目的論の擬人的性格を非難することには一理ある。しかし機械論もまた自分では気づかずに、同じ方法をただ片輪にしただけで用いている。なるほど機械論は目的の追求や観念的なモデルを一掃した。けれども機械論もやはり、自然は工作する人間なみに部分を取りあつめながら仕事をすすめたことにしたいのである。とはいえ胚子の発達をひと目でもみたら、生命の営みぶりはそれとはまったく異なることを機械論は見せつけられたであろう。<生命の手のすすめ方は要素の連結と累加によらず、分離と分割による>。
そのようなわけで、機械論と目的論の見かたはふたつながら乗りこえられなければならぬ。どちらももとを正せばひとの仕事をする姿にたよって人間精神がゆきついた見かたにすぎない。…器官のかぎりない複雑さと機能の極端な単一さ、このふたつの対比こそは私たちの目を開いてくれるにちがいない」118-9頁
「機械論と目的論はふたつながら、事象そのものたる運動のかたわらを素通りしてしまうであろう。運動はある意味で位置やその秩序より<以上>のものである。…機械論も目的論もゆくべきところまで行っていない。しかし別の意味では機械論と目的論はどちらも行きすぎている。けだしふたつながらヘラクレスのもっとも辛い仕事を自然に割りあてて、無限に複雑な無数の要素を組立てて見るという単一な行為に仕上げさせたかったのに、実さいは自然は眼を作るさいに私が手を挙げる以上の苦労はしなかったからである。自然の単一な行為はおのずから無数の要素に分かれ、それをあとからひとが見て同一目的に向って配列されていることに気づくのである」121頁
「私たちは有機組織を<製作品>なみに表象せずにはいられぬ…しかし製作と有機化とは別のことである。前者は人間に固有な作業である。その要点は、材料を諸部分に裁断してそのひとつが他にはまりこんでそこから共同のはたらきが獲られるようにしておいたものを、寄せあつめることにある。ひとは諸部分を、あらかじめその観念的な中心となっていた働らきのいわば周囲に配置する。つまり、製作は周辺から中心に向うのであり、あるいは哲学者風にいえば、多から一にすすむのである。これに反し、組織化の仕事は中心から周辺に向う。それはほとんど数学的な点にはじまり、この点のまわりに同心円の波をたえず拡大させながらひろがってゆく。製作の仕事はあつかう材料の分量が多ければそれだけ効果的である。そのやりかたは集中と圧縮による。これに反し、有機組織化のはたらきにはどこか爆発のようなところがある。出発にさいしそれに必要な場処はできるだけわずかで物質も極小でなければならぬ。有機化する力はいやいや空間に入りこんだとでもいった風にしかみえない」121-2頁
(承前)「生命の進化にはそれに類したところは少しもない。そこでは仕事と結果との不釣合が目だつ。有機的世界は下から上までただひとつ激しい努力でつらぬかれている。しかしほとんど常にこの努力は途中どまりになって、あるいは反対の力で麻痺されられ、あるいは自分のしていることにかまけてするはずのことを忘れ、自分がなろうと専念している形姿に溺れ鏡にむかうようにそれを見つめて催眠術にかかる。せっかく申し分のない完全なものが出来あがって外からの抵抗にも自分自身の抵抗にも克ちおおせてみても、その努力はこんどは自分で自分に作りだすほかなかった物質面に左右される」159頁
「生命は根かぎり働こうとするのにおのおのの種はできるだけわずかな努力ですませる方をえらぶ、とでもいおうか。生命はそのぎりぎりの本質すなわち種から種へ移行するところを直視するなら、ひたすら増大する行動である。ところが生命の通りぬけてゆく個々の種はいずれも楽をすることしか念頭にない。種は最小の骨折りですむ方へ向う。自分のなろうとする形態に溺れて種はなかば眠りこみ、自分以外の生命全体のことにはほとんど知らぬ顔である。種は身近な環境から最大限にしかもできるだけたやすく摂取することを目あてに自分を仕上げてゆく。このようなわけで、生命が新しい形態の創造に向ってすすむ行為とこの形態そのものが描きあげられる行為とは、ふたつの異なった運動でありしばしば競りあってもいる」160-1頁
「生きている形態は定義そのものからいって生きられる形態である。有機体がその生きる環境にたいして適応しているようすはどのように説明されるにしても、種が存続している以上その適応は十分でないはずがない。この意味で古生物学や動物学が描いてみせる系図上の種は、いずれも生命がかちとった<成功>であった。…運動はよく脱線し、停止させられることもしばしばであった。通過点にすぎぬはずのものが終点になった。この新しい観点に立つと、失敗は通則に、成功は例外でしかもいつも不完全なものにみえてくる。…動物の生命が踏みこんだ4つの主方向のうちふたつは袋小路に行きあたり、のこるふたつの道でも努力は成果と釣合わぬのがふつうであった」161頁
「生命に内在する力がかぎりのないものであったなら、その力はおなじ有機体内に本能と知性とをたぶんはてしなく発展させたであろう。しかしあらゆる徴候からみて、生命のこの力は有限であり、発揮されはじめると早々に涸れるらしい。同時にいくつもの方向に遠くまで行くことはこの力にはむずかしい。それは選択せねばならぬ。それもなまの物質にたいする2通りの働らきかけかたのうちひとつを択ぶほかない。その力は<有機的>な道具を自分のために創作しそれで仕事をして<直接に>そうした作用を生みだすことができる。あるいはまた、ある有機体によって<間接に>働らきかけることもできる。このばあいその有機体は必要な道具を自然にそなえていないかわりに、自分で無機物を細工して道具を作るであろう。ここから知性と本能が生ずる。両者は発展しながらだんだんと方角が開くが、たがいに分離することはけっしてない。…知性に本能の入用な度合は本能が知性を要するよりも大きい」174-5頁
「人間にいたってはじめて知性は自分を残りなくつかむ。そしてこの勝利を実証しているのがほかでもない、敵にたいし寒さや饑えにたいして身を守る手持ちの自然な手段が人間に乏しいことである。…正直のところ自然はやはりこの[本能と知性という]2通りの心的活動のあいだに迷わずにはいられなかった。一方は直ちに成功することは疑いないにしても効果にかぎりがあり、他方は一かばちかであるがもしうまく独立できればその版図はいくらでも拡がりえよう。とにかく最大の成功はここでもやはり最大の危険を冒したものになったのであった。<そのようなわけで、本能と知性とはたったひとつの同じ問題の方角はちがいながらもどちらもすっきりとした2通りの解を示しているのである>」175-6頁
「生物が現実にはたす行為を取りかこんで可能的な行動あるいは潜勢的な活動の地帯があり、意識とはこの地帯に内在する光なのであろう。意識は躊躇ないしは選択を意味する。…<生物の意識とは潜勢的な活動と現実の活動との算術的な差であると定義してよいであろう。意識は表象と行動とのあいだのへだたりの尺度である>。
そこで知性はどちらかといえば意識にむかい、本能は無意識にむかうと想定してよかろう。けだし、あつかう道具は自然が組立て、その適用の対象は自然がそなえ、獲られる結果も自然が要求しているところでは、選択には端役しかのこっていない。…本能の<不足額>が、行為を観念からへだてる距離が意識になるわけであろう。してみると意識はひとつの事故にすぎぬことになろう」177-8頁
「知性の要素をなす諸能力はいずれも物質を行動の用具に、すなわち言葉の語源的な意味での器官(オルガン)に変形することを目ざしている。生命は有機体(オルガニズム)を生みだすだけで満足せず無機物そのままをお添えに与えて、これが生物の丹精によって大がかりな器官に転化されることを望んだのである。生命はそうしたつとめをまず知性に課する。それで知性は無生の物質に見とれてわれを忘れているかのような物腰をいまも相かわらずつづけているわけである。知性は外をみつめ自分自身にたいして外に立つ生命であり、原則どおりまず有機化されていない自然の歩みを採りいれて、それから事実上この歩みを導こうとする。…知性は何をするにせよともかく有機化されたものを非有機的なものに分解する。けだし、知性は自分に自然な方向をさかさにし自分自身に振りむかぬかぎり、本物の連続や事象そのままの運動性や相互の完全透入を、一言でつくせばそれこそ生命たる創造的進化を考えることはできぬのである」196頁
「不協和の深い原因は埋めようのないリズムの差異にひそんでいる。生命一般は動きそのものである。生命の発露した個々の形態はこの動きをしぶしぶと受けとるにすぎず、たえずそれに遅れている。動きはずんずん前進するのに、個々の形態はその場で足踏みしていたがる。進化一般はなるたけ直線的にすすもうとし、特殊な進化過程はいずれも円を描く。生物は一陣の風に巻きあげられたほこりの渦のようなもので、生命の大きな息吹きのなかに浮んだままぐるぐると自転する。したがって生物は割合に安定していて、しばしば動かぬものの真似までうまくやるので、私たちはついそれを<進歩>よりはむしろ<事物>としてあつかい、その形態の恒久的なところすら運動を描いたものに他ならぬことを忘れてしまう。…生物は何はともあれ通過点であり生命の本領は生命をつたえる運動にあるのだ」159-60頁