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「生命は何であるよりもまずなまの物質にはたらきかける傾向なのだといおう。このはたらきかけの方向はもちろん前もってきまってはいない。そこから、生命は進化の途上に予想もつなぬ多様な形態をまきちらすことになる。とはいえこのはたらきはいつも偶然性の性格を多少とも高い度合で帯びており、ともかくも選択のきざしがそこには含まれている」126頁

「榴弾が破裂するさいのそれぞれ特殊な砕けかたは、その榴弾につまっていた火薬の爆発力とその力にたいする金属の抵抗とから同時に説明される。生命が個体や種に砕けるばあいも同様である。その砕ける原因は2系列をなしていると思われる。生命がなまの物質のがわで出あう抵抗と生命のしのばせている(さまざまな傾向が不安定に平衡しているための)爆発力とがそれである」128頁

「生命は傾向なのであるが、傾向はその本質からいって束状に展開するもので、大きくなることだけで方向を扇形にひろげて生命のはずみをそれらの諸方向に分かつ。…自然はさまざまな傾向が大きくなって枝分れしたままに保存しておく。自然はそれらの傾向を末ひろがりに開いたさまざまの種の系列に仕立て、各系列をべつべつに進化させる」130頁

「[生命の進化の]道中に生じた岐路の数はおびただしかったが2、3の幹線のほかは多くゆきどまりであった。それにこの幹線そのもののなかでもただひとつの脊椎動物をずっと人間までのぼりつめる線ばかりが、生命の大きな息吹をらくに吹きぬかせるだけの広さをもっていた。たとえば蜜蜂や蟻の社会を人間社会とくらべるとき、私たちはそういう印象を受ける。蜜蜂や蟻の社会は驚くほどよく訓練され統一されていながら、凝結している。人間社会にはあらゆる進歩の道がひらけているものの、分裂があり自己闘争の絶え間がない。…かりに社会生活への衝力というようなことを譬えとしてではなく語ってよいなら、こういうべきであろう。その衝動の主力は人間にいたる進化の線上をはこばれてき、残りは膜翅類に通ずる道にあつめられた。つまり蟻や蜜蜂の社会には私たちの社会を補う面が出ている。…社会にむかう特殊な衝力というようなものはありはしなかった。あるのは生命の一般運動だけで、それが末ひろがりの諸線上につねに新しい形態を作りだしてゆく。もしもそのなかの2線上にそれぞれ社会があらわれるはこびになっているならば、それらの社会にははずみの共通性とともに道の開きもあらわれるはずであろう。したがってそれらの社会は2系列の性格を展開する」130-1頁

「進化運動の研究とは、末ひろがりの諸方向をある数ほぐしわけ、そのひとつびとつに起こった出来事の重要さを評価すること、一言でつくせばはなればなれになった諸傾向の性質を見さだめてその混合量をきめることであろう」131頁

「進化の必要条件が環境への適応であることについては私になんの異存もない。種は自分にあてがわれた生存条件に折れて出ないなら消滅することはみえすいている。けれども、外部環境は進化が念頭におかねばならぬ勢力だとみとめるのと、それを進化の主導原因だと主張するのとは同じでない。後者は機械論の主張である。それは根源のはずみの仮説、すなわち生命にいよいよ複雑な形態をとらせながらいよいよ高い使命にそれをつれてゆくある内的衝力を仮定する私の考えを頭からしりぞける。それにもかかわらずこのはずみは歴然としている」132頁

「真実をいうと適応は進化運動の紆余曲折は説明しても、その運動の一般的な諸方向やまして進化運動そのものの説明にはならない。町にゆく道はなるほど坂の斜面を上り下りさせられる。道は土地の凹凸に<適応する>。しかし土地の凹凸は道の原因ではなく、道を方向づけもしなかったのである。…道はひたすら町を目ざしており、直線になりたかったかもしれない。生命の進化とそれに通る環境とについても同じことである。異なるのは、進化は一本道を描かぬところ、進化はそれぞれの方向をとりはするが目的を目ざしはせぬところ、最後にそれは適応のなかまでも創意を持ちこんでやまぬところである」132-3頁

「生命の進化はそのつどの偶然な環境にたいする一連の適応とは別ものであるとしても、それは計画の実現ではなおさらない。…反対にもしも進化が不断にくりかえす創造であるなら、それは生命の諸形態をつぎつぎに創造してゆくばかりでなく、さらに知性なるものが生命を理解するのに役だつ観念や生命を表現するのによいような用語までもつぎつぎに創造してゆく。すなわち進化にあっては未来は現在の岸から溢れ、したがって現在のなかでひとつの理想としては描きだせぬことになる。
 ここに目的論の第1のあやまりがある。第2のもっと困ったあやまりがそれにつづく。
 もし生命が計画を実現するものなら、それはさきに進むにつれていっそう高い調和をあらわすはずであろう。…これに反し、もしも生命の統一が、時間の流れる道にそって生命を推進するはずみのなかに全部ごっそりこもっているとすると、調和は前方にはなく背後にある。統一は<背後の力>からくる。それは衝力としてはじめに与えられ、引力として終端に置かれてはいない。はずみは伝わりながらますます分岐する。生命は進展につれてさまざまな姿に現われながら分散する。…こうして種相互の不調和は高まってゆく」133-4頁

「進化運動を分裂させるのと同じ原因のはたらきで生命は進化の途中しばしば自分から脱けだし、いま自分が生んだばかりの形態の上に眠りこけるのである。…もちろん進化というものを最初の衝力できまった一般的な方向をたえずすすむことの意味に解するなら、進歩はしている。しかしそのような進歩のとげられるのは2、3の重要な進化の線だけであり、そこではいよいよ複雑でますます高等な形態がつぎつぎに浮き彫られてゆく。それらの線のあいだをたくさんの小道が走り、そこでは反対に脱線や行きどまりや逆もどりがたびたび重なる。…偶然にもたっぷりと持分を与えてかからなければいけない。自然界では何もかもがうまく嚙みあっているわけではないことをみとめなければならない。…そこには計画やその実現を越えたもっとすぐれたものがある。計画とは仕事にあてがわれた目標である。それは未来を形にえがきながら未来を閉じる。これに反し、生命進化の前方には未来の扉が明けっぱなしになっている。それは運動しはじめたときの力ではてしなくつづけられる創造なのである。この運動が有機的世界の統一を作る。それは実り多い無限にゆたかな統一であり、どんな知性の夢みるものにもまさっている。知性はこの運動のひとつの相面ないしひとつの産物にすぎぬからである」134-5頁

「私の狙いは博物学者なみにさまざまな種の継起した順序を再発見することではなく、もっぱら種の進化する主な方向をいくつか決定することにある。それらの方向にしてもすべてが同様に私の関心をひくわけではない。なかんずく人類まで通じる道が当然、私の心を占めている」136頁

「生命の発露したある形がそれ以外のほぼすべての発露形態の本質的特徴を、萌芽としてにせよ隠されてにせよ潜勢的にせよ、含まぬことはほとんどない」137頁

「運動性と意識のあいだには明白な関係がある。…しかしながら、このような運動性や選択やひいてはまた意識はいずれも神経系の存在を必要条件とはしていない。…ある動物に脳がないという理由で意識もないとするのは、胃がないから養分をとることができぬというのに劣らず愚かしい言い分であろう。最下等な有機体にもうごく<自由>の度に応じて意識があるということになる。…動物は感受性と目覚めた意識とによって、植物は眠った意識と無感覚とによってそれなりに定義されるのではないか」140・141・143頁

「生命の底には物理力のもつ必然性にできるだけ多数の不確定性を接木しようとする努力がひそむことを仮定しよう。この努力はエネルギを創造するところまでは行きえない。…生命の努力の唯一のねらいは自分の自由にまかされた既存のエネルギをできるだけうまく利用することにあるかのようにみえる。…努力そのものにはこの解発する能力しかない」145-6頁

「私のいう進化は努力の連合の方向にはけっしておこなわれないで<分裂>の方向におこなわれ、収斂する方にではなくかならず<発散>する方にすすむ。いろいろな項がある点で補いあってできる調和は、私の考えによるとそれらの項が途中でたがいに適応しあうから生ずるのではない。その反対で、調和が完全に無欠なのは出発点だけである。それは根源の同一なことに由来する。進化の過程が束状にひろがるさい、はじめはひとつに融けあうほどにうまく補いあっていた諸項が一斉に伸びるにつれて引きさかれるところから、この調和は来ている」148-9頁

「ひとつの傾向の生みだす諸方向の発展のうち、あるものにはどこまで行ってもさきがあり、あるものは遅かれ早かれ巻物の端にぶつかる。後者は原初の傾向からじかに出たものではなく、その傾向が分裂して生じた要素のひとつから来ている。それはおこぼれの発展であり、ある本物の要素的傾向がみちみちやってみては自分の進化をつづけるために捨てていったものなのである」149頁

「生命のひとつの本質的発露でほかの発露の特徴を萌芽ないし潜勢の状態で示さぬものはない。逆に、進化のある線上で他の線にそって発達しているもののいわば思出にぶつかったら、私たちはおなじ原傾向の分裂から生じた諸要素を相手にしているのだと結論すべきである。そのような意味で、植物と動物とは生命の2方向に開いた主要な発展をたしかに代表している。植物は固着性と無感覚によって動物から区別されるにしても、運動や意識も植物のなかに思出としてまどろんでいて、いつ甦えるかわからない。こうして常態どおり眠りこんでいる思出のほかに、目ざめて活動している思出ももとよりある。…<ひとつの傾向が発展しながら分解するとき、そこに生じた特殊な諸傾向はいずれも自分の専門となった仕事と両立できそうなものなら何でも原傾向のなかから取りとめて発展させようとするものだ>。ここから説明されるのはほかでもない、進化の独立な諸線上におなじ複雑な器官が形成されるという…事実であろう」149-50頁

「最近の実験の示すところによると、植物は『突然変異』の時期がめぐってくるとどんな方向にでも変異するものである。これにたいし動物が進化する方向はもっとずっとかぎられていたはずだと思われる。…
…動物の動物たるところはできるだけ多量に蓄積された潜在エネルギをある解発の仕掛をつかって『爆発的』な行動に変換する能力にある。はじめのうちは爆発は方向をえらぶ力のないままあてずっぽにおこなわれる。…しかし動物の系列をのぼるにつれて、身体の形態そのものにエネルギのそって進むかなりはっきりと決った方向がいくつか描き出されているのが見える」150-1頁

「高等な有機体は本質的には消化・呼吸・循環・分泌等の器官の上に感覚・運動系統が据えつけられたといった構造になっていて、それらの器官はこの系統を修復し清掃し保護してやり、また恒常的な内部運動をそのために作ってやり、最後になかんずく潜在エネルギをそれに送って場処運動にかえさせるなどの役割をもつ。…高等な有機体では機能の複雑化は無限にすすむ。それゆえそうした有機体のひとつを研究すると、そこでは一切が一切の手段をつとめているかのようになっていて、私たちは円運動に巻きこまれてしまう。だからといってこの円にやはり中心がないわけではない。その中心が、感覚器官と運動装置のあいだに張りわたされた神経要素の系統なのである」156頁

「最下等なモネラ…から天賦にもっともめぐまれた昆虫類やすぐれて知的な脊椎動物にいたるまで、動物がとげてきた進歩はなかんずく神経系統の進歩であり、それもこの進歩の各段階に応じて必要となった諸部分のあらゆる創造と複雑化とをともなっての進歩であった。…生命の役目は物質に不確定性をはめこむことにある。生命が進化の歩みにつれて創造する形態は不確定な、すなわち予見されぬものである。それらの形態が運び手をつとめるはずの活動もまたいよいよ不確定に、すなわちいよいよ自由になる。…ノイロンをもった神経系統はそれこそ<不確定性の貯蔵所>ではないか。生命衝動の本質がこの種の装置の創造にむかって進んできたのだということは、有機的世界の全体を一目みわたせばわかるように思われる」157-8頁

「有機的世界をつらぬいて進化する力はかぎられた力であること、自分を超えようとつねにつとめながら自分の生み出そうとする仕事にたいしていつもきまって背丈が足りぬということは、忘れられてはならない。この点の誤解から過激な目的論のいろいろな誤謬や子供じみた考えが生れる。過激な目的論は生物界の全体をひとつの工作物として、それも私たちの作るものに似た工作物として表象した。それによると、この工作物のあらゆる部品は器官全体ができるだけ機能を発揮することを目ざして配置されている。どの種も自分の存在理由や機能や使命をもつ。あらゆる種が一緒になって一大協奏曲を奏でており、そこではちょっと聞くと不協和なところも底にある調和をひときわひびかせるのにもっぱら役立つ。要するに自然界においても万事は人間の天才の作品のばあいと同様にはこぶと考えられている。天才のなしとげる成果はごく小さいかもしれないが、製作物と製作の仕事とのあいだにはとにかく完全な等量関係が存在するのである」158-9頁

(承前)「生命の進化にはそれに類したところは少しもない。そこでは仕事と結果との不釣合が目だつ。有機的世界は下から上までただひとつ激しい努力でつらぬかれている。しかしほとんど常にこの努力は途中どまりになって、あるいは反対の力で麻痺されられ、あるいは自分のしていることにかまけてするはずのことを忘れ、自分がなろうと専念している形姿に溺れ鏡にむかうようにそれを見つめて催眠術にかかる。せっかく申し分のない完全なものが出来あがって外からの抵抗にも自分自身の抵抗にも克ちおおせてみても、その努力はこんどは自分で自分に作りだすほかなかった物質面に左右される」159頁

「不協和の深い原因は埋めようのないリズムの差異にひそんでいる。生命一般は動きそのものである。生命の発露した個々の形態はこの動きをしぶしぶと受けとるにすぎず、たえずそれに遅れている。動きはずんずん前進するのに、個々の形態はその場で足踏みしていたがる。進化一般はなるたけ直線的にすすもうとし、特殊な進化過程はいずれも円を描く。生物は一陣の風に巻きあげられたほこりの渦のようなもので、生命の大きな息吹きのなかに浮んだままぐるぐると自転する。したがって生物は割合に安定していて、しばしば動かぬものの真似までうまくやるので、私たちはついそれを<進歩>よりはむしろ<事物>としてあつかい、その形態の恒久的なところすら運動を描いたものに他ならぬことを忘れてしまう。…生物は何はともあれ通過点であり生命の本領は生命をつたえる運動にあるのだ」159-60頁

「生命は根かぎり働こうとするのにおのおのの種はできるだけわずかな努力ですませる方をえらぶ、とでもいおうか。生命はそのぎりぎりの本質すなわち種から種へ移行するところを直視するなら、ひたすら増大する行動である。ところが生命の通りぬけてゆく個々の種はいずれも楽をすることしか念頭にない。種は最小の骨折りですむ方へ向う。自分のなろうとする形態に溺れて種はなかば眠りこみ、自分以外の生命全体のことにはほとんど知らぬ顔である。種は身近な環境から最大限にしかもできるだけたやすく摂取することを目あてに自分を仕上げてゆく。このようなわけで、生命が新しい形態の創造に向ってすすむ行為とこの形態そのものが描きあげられる行為とは、ふたつの異なった運動でありしばしば競りあってもいる」160-1頁

「生きている形態は定義そのものからいって生きられる形態である。有機体がその生きる環境にたいして適応しているようすはどのように説明されるにしても、種が存続している以上その適応は十分でないはずがない。この意味で古生物学や動物学が描いてみせる系図上の種は、いずれも生命がかちとった<成功>であった。…運動はよく脱線し、停止させられることもしばしばであった。通過点にすぎぬはずのものが終点になった。この新しい観点に立つと、失敗は通則に、成功は例外でしかもいつも不完全なものにみえてくる。…動物の生命が踏みこんだ4つの主方向のうちふたつは袋小路に行きあたり、のこるふたつの道でも努力は成果と釣合わぬのがふつうであった」161頁

「さきに適応一般に関して述べたように、種の変形はその種特有な利益というものからつねに説明されるはずである。変異の直接原因がそこから示されるにちがいない。けれどもそのようにして与えられるものはしばしば変異のごく皮相な原因にすぎないであろう。深い原因は生命を世界につき入れる衝力にある。この衝力が生命を植物と動物に分裂させ、動物性の線を柔軟な形態の方へと切りかえ、そして動物界が危うくまどろみかけていたなかである時機に少なくともそのいくつかの点でうまいぐあいに動物を目ざませ前進させたのであった」164頁

「生物に関していわれるばあい、成功とは多様をきわめる環境のなかで可能なかぎり多種の障害をつきぬけてできるだけ広大な地域を蔽えるように発達する性能の意味に解されなければならない。地球全体を自分の領土と心得ている種は掛値なしに支配的な種であり、したがって優位に立つ種である。人類はそのような種であり、脊椎動物の進化の頂点を示すものであろう。しかし他にもそのようなものが関節動物の系列中にある。昆虫なかんずくある種の膜翅類がそれである。人間が地上の王であるなら蟻は地下の女王であった、と古言にもいう」166頁

「つまるところ植物的麻痺と本能と知性の3つが動植物に共通な生命衝力のなかに寄りあっていた要素なのである。これらの要素は実に思いもかけなかった形態にあらわれて発達しながら、ただ大きくなっただけのために分裂したのであった」167頁

「生命がひとつの有機体となって現われたばあい、それは私からみるとなまの物質からある種のものを獲得しようとするある種の努力をあらわしている」169頁

「かりに私たちが思いあがりをさっぱりと脱ぎ捨てることができ、人類を定義するばあいその歴史時代および先史時代が人間や知性のつねにかわらぬ特徴として提示しているものだけに厳密にたよることにするならば、たぶん私たちはホモ・サピエンス(知性人)とは呼ばないでホモ・ファベル(工作人)と呼んだであろう。つまり、<知性とはその本来の振舞いらしいものからみるならば人工物なかんずく道具をつくる道具を製作し、そしてその製作にはてしなく変化をこらす能力なのである>」171頁

「ほとんどの本能は有機的組織化の仕事そのものの延長であり、あるいはもっとましな言いかたをすれば、その完成なのである。…<仕上げのできた本能は有機的な道具を利用しくみ立てさえもする能力であり、仕上げのできた知性は無機の道具を製作し使用する能力である>」172-3頁

「生命に内在する力がかぎりのないものであったなら、その力はおなじ有機体内に本能と知性とをたぶんはてしなく発展させたであろう。しかしあらゆる徴候からみて、生命のこの力は有限であり、発揮されはじめると早々に涸れるらしい。同時にいくつもの方向に遠くまで行くことはこの力にはむずかしい。それは選択せねばならぬ。それもなまの物質にたいする2通りの働らきかけかたのうちひとつを択ぶほかない。その力は<有機的>な道具を自分のために創作しそれで仕事をして<直接に>そうした作用を生みだすことができる。あるいはまた、ある有機体によって<間接に>働らきかけることもできる。このばあいその有機体は必要な道具を自然にそなえていないかわりに、自分で無機物を細工して道具を作るであろう。ここから知性と本能が生ずる。両者は発展しながらだんだんと方角が開くが、たがいに分離することはけっしてない。…知性に本能の入用な度合は本能が知性を要するよりも大きい」174-5頁

「人間にいたってはじめて知性は自分を残りなくつかむ。そしてこの勝利を実証しているのがほかでもない、敵にたいし寒さや饑えにたいして身を守る手持ちの自然な手段が人間に乏しいことである。…正直のところ自然はやはりこの[本能と知性という]2通りの心的活動のあいだに迷わずにはいられなかった。一方は直ちに成功することは疑いないにしても効果にかぎりがあり、他方は一かばちかであるがもしうまく独立できればその版図はいくらでも拡がりえよう。とにかく最大の成功はここでもやはり最大の危険を冒したものになったのであった。<そのようなわけで、本能と知性とはたったひとつの同じ問題の方角はちがいながらもどちらもすっきりとした2通りの解を示しているのである>」175-6頁

「[植物と動物の]2種類の無意識のあいだの相違…意識が<無い>という無意識と意識が<無くされた>ための無意識とのちがい…無い意識と無くされた意識とはどちらもゼロにひとしい。しかしはじめのゼロは何もないことをあらわし、のちのゼロはふたつの量が大きさはひとしく方向が反対で相殺し中和しあうという事態をあらわしている」176-7頁

「生物が現実にはたす行為を取りかこんで可能的な行動あるいは潜勢的な活動の地帯があり、意識とはこの地帯に内在する光なのであろう。意識は躊躇ないしは選択を意味する。…<生物の意識とは潜勢的な活動と現実の活動との算術的な差であると定義してよいであろう。意識は表象と行動とのあいだのへだたりの尺度である>。
 そこで知性はどちらかといえば意識にむかい、本能は無意識にむかうと想定してよかろう。けだし、あつかう道具は自然が組立て、その適用の対象は自然がそなえ、獲られる結果も自然が要求しているところでは、選択には端役しかのこっていない。…本能の<不足額>が、行為を観念からへだてる距離が意識になるわけであろう。してみると意識はひとつの事故にすぎぬことになろう」177-8頁

「形式的認識が世にあらわれたのは実用が目あてだったにしても、実さいに役立つものだけにそれはかぎられぬことになる。知的な生物は自分を超えるゆえんのものを自分のなかに蔵しているのである」184-5頁

「私は人間の知性は行動の必要に左右されるものとしている。行動を措定すれば、そこから知性の形式そのものが導出されるのである」186頁

「事象における流動的なものは一部分知性からのがれるし、生物における生命固有なものはことごとく知性からのがれるであろう。<自然の手になったままの私たちの知性は非有機的な個体を主な対象としている>」187頁

「人間言語の符号を特徴づけているのは、その一般性よりはむしろ可動性である。<本能の符号は固着した符号であり、知性の符号は動く符号である>」193頁

「知性の要素をなす諸能力はいずれも物質を行動の用具に、すなわち言葉の語源的な意味での器官(オルガン)に変形することを目ざしている。生命は有機体(オルガニズム)を生みだすだけで満足せず無機物そのままをお添えに与えて、これが生物の丹精によって大がかりな器官に転化されることを望んだのである。生命はそうしたつとめをまず知性に課する。それで知性は無生の物質に見とれてわれを忘れているかのような物腰をいまも相かわらずつづけているわけである。知性は外をみつめ自分自身にたいして外に立つ生命であり、原則どおりまず有機化されていない自然の歩みを採りいれて、それから事実上この歩みを導こうとする。…知性は何をするにせよともかく有機化されたものを非有機的なものに分解する。けだし、知性は自分に自然な方向をさかさにし自分自身に振りむかぬかぎり、本物の連続や事象そのままの運動性や相互の完全透入を、一言でつくせばそれこそ生命たる創造的進化を考えることはできぬのである」196頁

フォロー

「生命は物質に触れているあいだは衝力ないしははずみにくらべられるけれども、生命そのものとして見るならば測りしれない潜在力であり、幾百幾千の傾向の相互蚕食となる」305頁

「生命の進化が分化と連合の二重方向にすすむことのなかにはすこしの附随的なところもない。それは生命の本質そのものに根ざす」308頁

「意識は人間において、人間においてのみ自己を解放する。生命の歴史はそれまでは一貫して意識が物質をもちあげようとした努力の歴史であり、また物質が意識のうえに再落下してこれを多少とも完全におし潰したことの歴史であった」312頁

「ごく特殊な意味で、人間は進化の『終端』かつ『目的』をなしている。…生命は他のカテゴリーをこえるように目的性もこえる。生命は本質的に流れであり、物質をつらぬいて走らせられながら出来るだけのものをそこから引きだしてゆく」313頁

「私の観点にたつと生命は大づかみにひとつの巨大な波となってあらわれる。その波はひとつの中心から輪をひろげてゆき、そのほぼ全円周上で進化をやめておなじ場処での振動にかわる。ただひとつの点で障害が押しきられて、衝力は自由に通りぬけたのであった。人間の形態にはこの自由が書きとめられている」314頁

「私たちがほかの物体を全体のなかから裁断するのも生物体のためである。ところで生命は進化である。生命進化の一時期を私たちは安定した眺めに集中して、それを形態とよぶ」354頁

「アリストテレスのばあい、生物体のエンテレケイアとしてのpsychē(霊魂)が私たちの『霊魂』ほどに精神的でないとすれば、それはアリストテレスのsoma(身体)がすでにイデアをしみ込ませていて私たちの『身体』ほどに物体的ではないからである。つまり両項の分裂はまだ取返しがつかなくはなかったのである。それが取返しのつかぬものとなった」408頁

「ひとりの思想家が立ちあがって進化説をとなえて、そこでは物質が知覚性へすすむ動きと精神が合理性にむかう歩みをともどもに辿りなおすことができるとしたとき、外と内の対応が複雑化するさまを一段一段と追ってゆくことができるとしたとき、つまり変化こそものの実質そのものだとしたとき、万人の注視はそのひとに向けられた。スペンサの進化論が当代の思考をつよく惹きつけたゆえんであった。スペンサはいかにもカントから遠のいてみえるし、もともとカント主義に無知であったにもかかわらず、生物の諸科学に接したそもそものはじめから、哲学はどちらの方向に進んだらカント的批判を計算にいれながら歩みつづけることができるかをやはり感じとっていた。
 ただしスペンサはこの道をすこし行ったばかりで引きかえした。発生をありのままに辿ることを約束しながら、なしとげたのはつぎのとおり全く別のことであった。スペンサの理説はなるほど進化論の名を冠していた。宇宙的生成の流れをのぼり下りするつもりだとそれは称していた。真相は、そこでは生成も進化も問題になっていなかった。
…スペンサ哲学を立ちいって吟味はできない。ただこれだけをいうなら、<スペンサの方法がいつももちいる技巧は、進化しとげたものをくだいた細片でもって進化をもとどおり構成することである>」423-4頁

「スペンサの方法に本質的なことをいうと、それは凝集したもの同士を元どおり組合わせるけれども、徐々に凝集する仕事の方は、それこそ進化そのものであるのに、ありのままに見ようとはしないのである」426頁

「哲学はたんに精神が自己へもどることではなく、人間の意識が自分の源泉たる生命原理と合致することではなく、創造の努力との接触にはいることでもない。哲学は生成一般の究尽であり、本物の進化論であり、したがってまた科学のまっとうな延長である」430頁

訳者解説「時間の自由な性格に力点をおいて、そこから時間を総合的にとらえたい要求が『創造的』進化を避けがたいものにした主因だったかとおもわれます。ベルグソンによれば、ひとは『創造するとき自由を感じる』もので、『真新しさや創造は自由には不可欠』なのですから、創造的進化とは機械的でない、自由な進化の意に解してよいでしょう」447頁

訳者解説「生物の種はアリストテレスこのかた不変とみなされてきましたが、もしそれが進化論のとなえるように自然的起源をもつものであれば、なかんずく進化こそはもっとも具体的な創造的時間でしょう。ベルグソンが若いころ親しんだスペンサの進化論をもういちど取りあげる気になったのは自然のなりゆきでした。
…ベルグソンは進化論哲学を非難しましたが、それはスペンサが進化をとげたものの要素でもって進化を再構成しようとして進化そのものの動きを取りにがしたことについてでした」448-9頁

訳者解説「具体的な創造的時間としての進化はみとめたいし、しかし進化は科学の事実ではないというディレンマは、『生命のはずみ』の考えによって打開されました。…生命ははずみながら不断に連続進展してゆきます。それははずみですから始源のいきおいを減衰させずにどこまでも伝える記憶でもあります。ことに生命はその時の『はずみ』で予想もつかなかった、真新しい形態を創造することもできるでしょう。…生命ははずんで進むうちに脊椎動物や軟体動物などに分れてきましたが、一方ではそのような分れた間柄にも根源のはずみの共通な記憶はのこっていますから、そこから考えて適応はどこか似たものになるはずです。
…『創造的進化』にはいわゆる生物進化説は進化の事実を見のがしていること、生命のはずみこそ進化における『経験的事実』だということが意味されているわけです。…『進化』が生命のはずみまで深められたところに、時間を自由創造の立場から総合的にながめようとする意図はあらわれているとおもわれるのです」449-51頁

訳者解説「生命のはずみは進化の現象を解釈してえられた『経験的事実』で、ギリシャのプシケにもつながりのある、心的な筋合のものです。それは運動因でも目的因でもない、ある独一無二な原因性にしたがって進化運動をつきすすめます」451頁

訳者解説「生命の進化も具体的な持続なのであって、それをじかに見るためには目的論や機械論のような知性の枠を壊してしまわなければなりません。…
…第3章[生命の意義について——自然の秩序と知性の形式]の眼目はなんといっても生命のはずみを解釈して、進化の意義として自由を取りだしたことにあるでしょう。生命が上りなら物質は下りであり、生命は物質に抵抗されながらこれを利用して物質を支配しようとします。…ベルグソンによると、生命進化の意義は知性がそのように自分自身を認識し、さらに本能と合体して、事象そのままをとらえることにおいて完全な自由に到達することにあるのでした」454-5頁

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