「現在ではあらゆる科学のうちに《全体性》、《体制》、《形態》などの概念によって、すなわちいちばん深い根を現代生物学の領土におろしている概念によって、いいあらわさなくてはならぬ問題がでてきている。
…現在までに生物学が自分の仕事を片づけてきたやり方はいささか安易なものがあって、その考えの基礎は他の諸科学からもってきていた。機械論は物理学、生気論は心理学、淘汰は社会学からの借り物であった。しかし、生物学が一個の科学として任務を全うすること、つまり生物分野に独自な現象を思うままに統御することや、さらにまた世界像の根本概念に寄与するという任務は、生物学が独自に発展してこそはじめて可能なことである。…
著者は二十数年来、生物学上の一つの立場を発展させてきたが、これは現在では<有機体論の立場>としてひろく知られるようになった。…たとえば《開放系》理論は、物理学や物理化学の領域に新しい視野を開いたし、生物学の多くの分野でも、生物システムに独自の正確な法則性を展開するという課題を設けた」vi
「いまでは古典ともなった研究の結果、ドリーシュは、物理=化学的に生命が解明できるという説に肯んじようとしなかった。 …生命を物理=化学的に説明することは、ここにきて原理的に行きづまり、ドリーシュの見解にしたがうと、残された解釈はただ一通りだけである。胚の中でも、また同様に生物体のその他の行動に関しても、物理=化学的自然力とは本質的に違う要因が働いていて、この要因が、最終の典型的生物体を目的として予想しつつ現象を補正してゆくと考えるのである。この要因は、正常の時も実験的に攪乱した発生の際でも典型的な生物体を産みだすという《目標を帯びている》。ドリーシュはアリストテレスの概念にならって、これをエンテレキーと呼んだのである。目的めざして働くような要因を探してみると、私たち自身の行動の中にもそうしたものがある。つまり私たちの目的指向作用という心理学的要因と比べてもいいようなもの——この目的意識こそ生命のないものとあるものの間の根本的な違いではあるまいか、また後者の超機械的・超物理的特性も、その要因が左右するのではあるまいか、ということになる」7頁→
(承前)「そこで、ふつうには<機械論>および<生気論>と名づけられている2つの生物学上の基礎概念が対立しあうにいたった。…
生気論は生命を洗いざらい物理=化学的に説明しつくせるものとは認めない。生気論は生きている物と生きていない物の間に質的差異があると主張する。この説はまずはドリーシュもいうとおり、調節現象から始まる。…他の生気論者たちは機械論を底の底まで考えたあげく、生気論の立場に行きついた。…ダーウィン理論は創造する神霊にかわって偶然性を据えた。…この解釈は各生物機能に関して予想を与えたが、同じように体制設計の大筋や、無数の生理過程の共同作業のなり立ちにも自然淘汰説ではたして間にあうのかどうかは現在ではまだ見通しをつけにくい。…見渡しきれぬほど多数の物理=化学的過程が秩序だっておこって、生物体を保ってゆき、ひどい攪乱の後でさえもとの通りに回復させるが、この秩序や、また精妙な生物《機械》の成立ちは、生気論の意見にしたがえば、特殊な生命要因の支配するところだという。エンテレキー、知られざるもの、世界精神など、物理=化学的現象の経過に干渉し、目標めざして舵をとるこのものをどう呼ぶかは、いろいろである」8頁→
(承前)「だが、どうあっても生気論を自然科学の教義として受けいれるわけにはゆかないことは、一見してわかる。生気論によると生物体の構造も機能もいわば妖魔の群の掌るところとなる。彼らが生物体を創りだし動きぐあいを支配し、また機械の破綻を補修するわけだが、こんな考えからはそれ以上深い洞察を引きだすことはできない。今でさえ説明しにくくみえるものを、もっと謎めいた原理にもってゆき、探究しえない疑問符にそれを集約するだけのことだ。生気論とは、まさに生命の本質的な問題点を自然科学の認識からひき離すことにほかならない、自然科学的探究は本来の意味を見失う。幼稚な自然観察者は生き物が見かけの上で合目的的に目標に向って努力するのをみて、自分と同様に知恵や意志が支配するのだと考える。最上級に手のこんだ研究方法をとっても、生気論はこういう観察者の擬人法的解釈以上のことをやれるはずはないのである。…何であろうと、生気論から受ける答はいつでも同じ一つのものだ——てっきり何か精気めいたもの要因があって、事件の後で糸をひくのだ。生気論の否定こそが生物学の歴史である。なぜなら歴史も示すように、その時々の研究段階では解釈できそうもない現象こそが、いつも生気論の縄張りだとされてきたのだから」8-9頁
「生きたものの中にある個々の部分や経過を分析するのは、<欠くべからざる>ことであり、それぞれの構成要素をもっと深く知る前提でありはするが、分析だけでは<十分ではな>い。 生命の諸現象——物質代謝・刺激に対する反応性・増殖・発生等——は、もっぱら空間的にも時間的にも有限で多少とも複雑に組立てられた自然物の中でおきる。まさにこの複雑な自然物を私たちは《生物体》とよんでいるのだ。生物体はそれぞれ一つの<システム>を意味している。システムという表現は、たがいに作用しあう諸要素の複合体をさす。 このあたりまえに見える表現から、分析=加算的な考え方の限界がただちにみえてくる。まず第1に、生命現象をすっかり単位要素に分解してしまうことはできない相談で、各部分、各事象は自身に内在する条件のほか、多少とも<全体>によって左右される。全体とは個々のものを内に含みながら、部分より上位に位する単一体である。そこで一般に単離された部分における事態は、全体とのつながりをもっている場合とは違った関係にある。…生命の諸特性は物質と過程が組織化(体制化)することからおこり、またこの組織化と結びついているシステムの諸特性である。そこで、全体をかえれば特性もかわり、全体を破壊すればその特性もまた消えうせる」13-4頁→
(承前)「第2に、全体は時々、ばらばらにした部分にはみられない特性や振舞いを示す。生命の問題とは<体制>の問題であり、個別事象を取りだしてみるかぎりでは、生物と無生物との間に根本的な区別は立てられない。…私たちが生物の中ででくわす部分や事象は、独特で特異的な配置をしているのであって、この本質的な問題点が、近頃になって提示されてきた。細胞を構成する化合物全部を知ったところで生命現象は解明されない。…むしろ生命とは個体となって体制化されたシステムに関係するものだ。システムを壊せば生命も消えうせる。
…個々の過程ではなしに一個の生物体中の過程全体とか、生体のうちの部分システムである細胞と器官とか、一定の区域の内部におきる過程全体を対象にとると、生きているものといないものの原理的な違いが明るみにでてくる。そうやってみるとわかることだが、あらゆる部分や過程はすべて、生体システムの維持・建設・修理または増殖を保証するように配置されている。この配置が、生体中での現象を、死んだシステムや屍体中の反応から根本的に区別する点である」14-5頁
「次の3つの拠りどころから私たちは構造上の秩序を生命現象の基本だとは考えかねる。
まず第1、生命現象の全分野にわたり、調整——攪乱から回復すること——の可能性がみられる。たとえばドリーシュは、胚発生の時に行われる調節は《機械》ということを基盤にしてはありえないと主張したが、まさにそのとおりなのである。なぜなら、固定された構造は一定の働きかけにだけ応ずることしかできないので、勝手な要求に対しては応じうるものではないからだ。
第2に機械と生物との構造には、根本からの区別があって、前者はいつでも永続的な構築素材でできているが、後者はたえず更迭し、いつも崩れてはまた作られて、はじめて自分の体を保ってゆく。生物体の構造は秩序づけられた諸過程の現われそのものでさえあるし、また、これら諸過程にあってこそはじめて成り立つものなのである。だから、生物の諸過程がもつ根本的な秩序性は、既成の構造の中でなく、むしろ過程自身の中でしか探しだすことができないのだ」18-9頁→
(承前)「そこで結論は次のとおりだ。ます全システムに含まれている諸条件の交互作用で、つまり<動的>秩序によって、生物体の現象に方向が与えられる。生物の調節能力を裏づけているのはこの動的秩序である。つぎには機械化が進みだし、はじめは統一された行動だったものがばらばらにほぐれ、個々の過程が一定の構造のもとで行なわれる。構造的=機械的な秩序ではなく、動的秩序が第一であって…生物体は機械<である>のではないが、ある程度まで機械<となる>のだ。機械となって固定するのだ。もちろん機械になりきるわけではない。つまり全然機械になってしまえば、生物体は撹乱されても調節することができないから、外界の与える制約がしょっちゅう変わっても、これに辻褄をあわせていけないわけだ。生物体の諸過程は、構造にしっかり結びついた個々の過程が単に集まっただけのものてはなく、それはむしろ多少とも、動的なシステムの内部で規定される現象の性質を備えている。生物が、変化する要求に適応する能力をもち、攪乱に際して調節力をもっているのはそのためである」20頁
(承前)「これらのモットーによって機械論と生気論の論争は克服できるのであって、そもそもこの両説はともに分析=加算的・機械理論的な見方からでてきている。機械論は生命のまさに基本の問題たる秩序・組織性・全体論的および調節に対してなんの解決も与えはせず、分析的研究においては、上の問題は解決されぬままに残る。…生気論はまさにこの未解決の問題から生まれたのであるが、これとて加算的・機械的な理解を越えるものではない。それどころかこの説においても生物体は部分や仕組みの集まりなのだ。ただ生気論では、これが何か霊気めいた操師の手に委ねられ、完成されると思うだけにすぎない。たとえばドリーシュは、胚とは細胞が《加算的に並びあったもの》で、これがエンテレキーによって始めて[ママ]完成されると述べている。生気論者も機械論者と同じく、有機的なシステムという中立の立場から出発せず、有機的機械という偏見から出発する。調節の問題や機械の起源という点にきて、生気論者はこの有機的機械という観念ではまに合わないことに気づき、機械論から生物を救わんものと、別の要因を導きいれるのである。この要因は秩序性が乱されれば機械を修復するし、時には機械の作り手としても働く」21-2頁→
(承前)「要するに生物体の秩序や調節を説明するのには2つの可能性しかないと思われていた。生物の秩序性は機械的に固定された構造によるとするか、生気論的な要因によるとするかである。どちらの理解のしかたも不十分であって、機械論的な見方は調節と《機械》の成りたちの問題に答えられない。他方生気論は自然科学的な説明を断念したものだ。
有機体論の見方が、右[上]の両者と相対峙する。一つ一つの要素や過程を確定することも、生物の秩序性を機械類似の構造に帰することも、また秩序化要因としてエンテレキーのごときものに訴えることも、生命現象を認識する上では不十分なのである。…ここに生物学の本質的でしかも独自の課題がある。生物学的秩序性は特殊なものであって無生物領域の法則性を越えていはするが、探究を進めるにつれて、これに次第に近づいていくことはできる。秩序性はあらゆる段階で研究されねばならない。物理=化学的な単位過程およびシステムの段階、細胞と多細胞生物体という生物学的段階、個体を越えた生命単一体の段階、そのどの段階にも新しい〔それ以下の段階にはない〕特質と法則性がある。生物学的秩序性は、広く見て、動的性格のものといえる」22頁
「生命の自律性などということは、機械論では相手にされず、生気論では形而上学的疑問符をつけられっぱなしであった。だが右[上]のようなわけで、有機体論の問題を自然科学的に取り扱うことができるし、現にかなり調べてきている。
《全体性》という表現は過去長くにわたって誤用されてきたが、有機体論でいう全体性とは神秘めいた実態でもなく、私たちの無知の隠れみのでもない。全体性は自然科学の方法で扱えるし扱わねばならない、一個の生物学的実体なのだ。
有機体論は機械論と生気論の折衷でもなく中道でもない。…体制と全体性は、有機システムに内在しており自然科学によって解明できる秩序原理であって、まったく新しい立場にある。…
有機体論の立場は、まず<生物学の研究方法ならびに理論>という意味で、次に<認識論としての意義>の見地から吟味されるべきものである。…有機体論は生物学の基本的問題とそれらへの可能な説明を見てとらせ、またこれと取り組むことを可能にしてくれる。以前の機械論や生気論の立場では、一般にこれらの問題説明をそもそも見いだすことができず、見いだされたにしても不可思議とされて自然科学の方法では手のつけようがないとされた」22-4頁→
「2つの説が対立して、一方は細胞だけが生きており…物質は細胞の死んだ分泌物だと考えた。もう一つの説によると、生きている原形質が改造されて基礎物質になるという。この説は《生命質》なる言葉をもちだしたが、その中には細胞だけでなく基礎物質も含まれているのである。有機体論の見地からフォン・ベルタランフィは次のように指摘した(1930)。第1に、細胞間物質の生長と形態形成とは、それらの物質が自立して《生きている》というには十分でないこと、第2に、いうまでもないが、細胞間物質の生成は個々の細胞の仕事を寄せ集めたものではなくて、全体——しばしば合一された原形質から生ずる(共形質的symprasmatisch)組織であるが——の単一な働きだということ。第3に、生命質のかわりに、システムという見方で考えるべきだということ。階層的秩序をもって組み立てられた生物体という条件の中では、なによりまず細胞が、次には組織が《生きて》いる。組織という枠の中で細胞間物質の演ずる役割は、細胞の枠の中で細胞膜や繊維が果たしているものと同様にみてよい。膜も繊維も、それ自体で《生きて》はいないが、全体としては生きている細胞システムに属するものである」42頁
「さらにまた階層的秩序の重要な型として<階層的分岐>といわれるものがある。…階層的秩序の概念を使うと、事象Wはここでは原初の統一された胚であって、これに続く準位面に対応するのは、分岐していく第1・第2級・・・・の部分システムである。重要なのは分岐が、分裂の階層性内での細胞的編成とは、一致しないことだ。…別個の各部分の運命をきめる要因は、発生しつつある卵が分岐によって細胞成分へと細分されたことにあるのではない。むしろそうした要因というのは、一群の細胞の集まりから一定の成分ができてくるように決定する動的先行経歴(Prius)である。…
生物学的階層性でもそうだが、心理学的および社会学的階層性でも、分岐という性格がとりわけ目だつ。…生物学の領域では、全体がまず始め[ママ]で、これが部分システムへと分岐する。…しかし系統発生でも、生物体の分化が進むことは、生命機能が分岐することを表わす」46-7頁
「生物の段階を高く登れば登るだけ、関係しあっている全体のうちの各部分それぞれのふるまいかたは多様にはなってくるが、生物体全体の働きに比べると貧弱にもなってくる。…
多様になること、つまり部分の<分化>が増すことは…漸進する統一化と結びついている。これはまた同時に、比喩的に《分業》といわれるところの特異化をも意味している。…
分化が増していくことは、同時に《機械化》が増すことである。つまり、はじめ統一されていた行動が個々の別々の行動の集合体に分かれ、それとともに調節能力を失う。ある部分が、多少とも一つの機能ばかりを担当すれば必要の際に他の機能を代行する調節能力は退化する。その部分が失われると補いのつかぬ損傷になる。…特異化(専門化)によってはじめて行動をもっと高次にすることができる。専門家は一方ではかけがえのないものだが、他方またふだんの環境以外のところでは原始人よりもずっと始末におえないものだ[😅]。…個々の生物体や生物の部分についても、また外界に対して適応するときにも、分化と特殊化によってはじめて高次の発展がなしとげられる。生物体が機械化し、その部分が単一の機能にだけ結びつけられ、したがって攪乱に対する可塑性を失うという損失を代償に、はじめて高次の発展をあがなうことがてきる」48-9頁→
(承前)「個体化とともに死ということが生命の世界に現われる。経験の示すところによれば、原始的《分割体》である下等動物とちがって、高等動物として現われてくる複雑な統一的システムは、分裂によっては増殖できない。こういうシステムはいつまでも生存しつづけられず、自然損耗して老齢や死に陥る。個体を死によって定義することは、当をえないことではないだろう。統一のシステム、そのうちでも特に中枢神経系の集中化傾向と、生殖器官の解体的傾向との間には、対極的な対立ができあがる(A. ミュラー)。完全な個体化すなわち集中化は、増殖を逆に不可能にすることになる。増殖とはまさに、年とった生物体の一部分から新生物体を作りあげることを前提としているのであるから。他方、指導的中枢系である脳と心臓とは自然の老化過程で最初に破綻し、それゆえとりもなおさず死の器官なのである。
このように個体の概念は生物学的には、限界概念としてでなければ定義しようがない。実際この概念の規準は、自然科学や客観的観察とはちがうところにある」52-3頁
「超個体的体制の世界
生物体は空間的にかぎられた個々の存在として私たちの前に現われる。だが彼ら自身はもっと高次な単位の項(部分)であって、その単位体とは時間に関していえば<種>である。おのおのの生物体は増殖によって他のものから派生したり、また新生物体の源流になったりしながら超個体的結びつきのそれぞれ一員となっているが、同様に空間的にも生命の段階構造は生物個体のところで終るのではなく、個体を越えてさらに高次の単位がある。
空間的高次単位に属するのはまず同種の個体の社会で、これは動物集団とか動物国家とかになって現われている。…専門化した動物個体の動きは、全社会を保ってゆくために協調し整頓されている。ちょうど細胞や器官の働きが生物体〔全体〕に対するのとかわらない。たとえばミツバチの結婚飛行・巣わかれ・新しい女王たちの哺育の場合のように、各動物の行動は全体によって規定される。各動物個体の予見によるとはとても考えられない驚くべき《目的性》が示される。…最高度に発達した昆虫国家にいたる道は、高度に体制化された生物個体に達する系統発生的道程と似ていて、系統発生上でもはじめはゆるい連絡だったものが、だんだん緊密な体制に固まってゆくのが見られる」53-4頁
「生物共同体は《動的平衡を保っている生物群落システム》だといえる(レスウェイ)。
最高の生命統一体を形成するのはいうまでもなく地球上の全生命である。もしもある生物群がとり除かれると、平衡は破れるからさらに新しい平衡状態に移ってゆかねばならない。…あらゆる生物群の中を物質がどんどん動いて、これではじめて生命の流れは保たれる。…
生物社会とは相互作用をしている成分のシステムである。その成分は相互依存・自己調整・攪乱のさいの適応・平衡状態への性向など特性的なシステムの特徴を表わすけれども、その統一性の度合が生物個体にくらべてひどく小さいことはもちろんである。生物共同体とはつまり集中化していないゆるい統一体であり、生物個体が自分自身の中にある条件で発展するのに対して、生物共同体の発展は外的条件によって定められる。だから生物共同体をシステムだというのは正しいが、よくやるように《高次段階の有機体〔生物体〕》だというのはよろしくない」55-6頁
「《種の起原》は進化最大の問題ではなく問題の一つにすぎぬのであるが、ダーウィンの主著の標題ではこの点がいささかぼやけてしまっている。進化についてはざっと4つの主要な問題があげられる。第1に、品種とか種とか属とかいう、ある定まった体制設計、また構造設計の内部における多様性の起源。第2に、この構造設計自体、すなわち高次な体制単位の起源。第3に、一定環境に対する生態学的適応の起源。第4に、生体内部における全体としての形態学・生理学的な協同作業の起源であるが、これらの問の間にきっぱりと境界線を引くわけにはゆかない。問題の1と2は生物形態の多様性に、3と4はともに生物の《合目的性》の起源に関係している。…近代淘汰説が問題1と3や、したがってまた小進化を説明することはほとんど議論の余地がない。今日ではもう一組の問題、2と4、つまり大進化がむしろ議論されている」90-1頁
(承前)「生体には、なんの役にも立っていないようにみえる形質が無数にある。かなりの範囲で、分類学者が決定的だと考えるような形質は、実は機能的にはどうでもよければこそ、恒常的な特徴を保っているのだ。…分類学の骨組みをなすこれら形態学上の特殊性は、すべてそれ自体では別に有用というわけでもないが、さまざまな生命の状態に適応しうる《型》をたしかに示しているようである。…《自然の芸術品》で、その幻想的で多様な形態には、はっきりした有用さはなにもない。淘汰論者は、こういう点にもすこしも困難はないと考える。淘汰の圧力が小さい、均一な媒質中のばあい、無意義な構造でも、そのままつづいてゆくことができる。そうしたものはシーウォル・ライトの原理[浮動]にしたがって、小個体間に分割された種の中で機会的に生ずることもある。またそれ自身は無益な性質であっても、淘汰に属する性質——おそらくは単に生活力の違いかもしれないが——とむすびつくことによって、続いてきた場合もあったろう」92-3頁→
(承前)「次の基本命題は、生物界に広くゆきわたっているようにみえる。すなわち、《複雑でもよいのなら、ではなぜ単純なのか?》および《ああでもいいのに、こうもなる》といった類の現象が多い。ずっと簡単にしかも危険を冒しもせずに、ゆきつくことのできる目的に対して、驚くほどな回り道がしばしばとられている。…同じ生存競争をもちこたえるためにも——と淘汰論者は答える——いろんな手段があり、これらの形態が生き残っているのは、それが有用ななによりの証拠ではないか。
…ルトヴィッヒは…有害な性質に対して淘汰主義は14ないし20ばかりも説明を与えうると主張した。…14ないし20という説明には、次のようなものがある。一、今日では無意味か有害な形質も以前は役に立つことかできたのだろう。一、無意味な形質はたぶん多表現ということによって、淘汰価値あるものと結びついていたのであろう…一、無用な形質は性的淘汰によってはぐくまれる。一、種間的には安全に生存している種に、種内的淘汰がおきた結果として、ついに種自身にとってさえ危険な無用有害の発達がもたらされた、等々である」93-5頁
「小進化と大進化、つまりある《型》の内部における形態の多様さの起源とこの型自体の起源が原理的に同じ性質だということも、上述の論争と同じ強情さで拒否されたり弁護されたりしている。…大進化論者のいう《型》の起源は、小さな変化がしだいに積み重なってきたことによって生じたのではない。発生初期の段階に、広範な《作り変え》を左右する《大突然変異》がおきた結果だ。このことは、進化に2つの相が認められるという古生物学上の見解によって支持される。まず、新しい型が突然にできて、でると[ママ]すぐ爆発的に主要な形態の多様性へと分散する。次に、既製の形態の枠内でゆっくりと前進的に種が形成され、いろんな生命領域への適応がおきる。この問題にも淘汰論者は答があって、《型》とよばるべきものは一義的に確定できないから、《大進化》と《小進化》の境界線は引けないという。…いろんな《型》の中間段階が稀であったり、ほとんど欠けていることも簡単に説明できる。新しい型は先祖へと根を張ることが浅いので、それに応じて保存される化石もごくわずかなのだ。…かくして、小進化と大進化の間に原理的な差別があるとか、遺伝資質の変化の法則は過去ではいまとちがっていた、という仮定にはなんら科学的根拠はないのだという」96頁→
(承前)「進化的発達は《有用性》によっては理解できないとしばしば説かれる。高次の体制が淘汰価値を示すなら、高等生物は下等のものを駆逐してしまったはずだ。しかし任意の自然の断面ではすべて、単細胞から脊椎動物におよぶすべての生物のいろんな体制段階のものが、どれもみな生きながらえている。いや生きているどころか、生物共同体の成立にとって必要でさえある。…
…外挿や、《有用性》のゆえに進化的変化ができてきたという主張に対しては、実証したり論駁したりする可能性がない。ある形態が生きのびてさらに発展したならば、その時は変化は有用だったか、有用なものに結びついていたか、害にはならなかったか、そのいずれかに違いない。でなかったらその形態は死に絶えたはずだ。それにしても、いつでも<事後の予見>〔場合によれば牽強付会〕(vaticinatio post eventum)であって、チベットの折り臼とおなじく進化論も、あくことを知らずくり返し念仏を唱えている——《万事有用》と。だが実際なにがおこったか、本当はどの道が採られたのか、進化論はそれについてはなにも言わない。進化は《偶然》の産物で、《法則》にしたがうものではないからだ。けれども、それではたしていいだろうか?」97-8頁
グールドを先取りしたようなことを言ってる
「進化は外部要因によってだけ方向をきめられるところの無法則的現象だろうか。つまり偶然な突然変異と偶然な外作用とが、さまざまな生命条件や条件から生ずる生存競争とかの形において生みだした偶然の産物なのであり、これに、やはり偶然な隔離と、それに続く種形成の影響がつけ加わるだけのことだろうか。あるいは進化とは生物自身の内にある合目的性によって決定されたり、助けられたりするのだろうか。…
数学的解析の示すとおり、淘汰の圧力は突然変異の圧力よりもはるかに強く、優勢なものである。…
いま述べたことと、突然変異の《無方向性》とから、淘汰主義は次の結論をひきだした。進化現象の方向は外部要因によってだけ、きめられると。しかしこの結論は前提からでてきたのではない。淘汰が一般に進化の<必要>条件を示すとしても、だからそれが<十分>条件をも与えるということにはならない。
…この説は淘汰圧がない例外の場合は別にすれば、あらゆる進化過程においては、関与する生物体に対する《利益》が増大するという限定条件を定めている。だが個々の場合になにかがおこるかどうか、またなにがおこるかは、淘汰原理からは訊きだせない。…淘汰原理ですべてがいいあらわせるという生物学上の主張は、いまでは時代遅れの《エネルギー主義》とでも比ぶべきもの」99-100頁
「進化説は莫大な事実を材料にして、動植物の世界が地質学的時間の経過につれて単純で原始的なものから複雑で高度に体制化したものへ発展してきたことを立証した。…けれども、実際は現存生物や化石生物の世界の内に継続する移行過程は見いだせず、見いだされるのは別個にはっきり区別できる<種>だけである。<種>の内部に多少豊富な突然変異や品種があるにしても、連続的な移行過程がもしあるとすれば出会うはずの、種から種への中間段階がみつからないという事実に変わりはない。生きた生物の世界も化石のそれも、一つの連続体ではなく不連続体である。
たぶん個々の遺伝子だけでなく核型にも安定条件があてはまることが、種の不連続の理由なのだろう。…《種》とは、その中に安定した《遺伝子平衡》ができている状態であると。つまり種の中では、発生が調和して発展できるように、遺伝子が相互につりあっている。…ある種から他種へと移りかけている形態は、はなはだ不安定であって、とくに淘汰の攻撃にさらされやすい。それだからこそ、淘汰は速くすぎ去ってしまわぬわけにはゆかないのである[😅]。つまり一つの形態がもしも中間期間に死にたえないでいれば、やがて新しい遺伝子平衡に達し、形態はふたたび長い間安定していられるのだが、それまでは静止的になることは少ないのである」102
「小さな突然変異や淘汰によって連続的な作りかえをおこすには、地質学的時間で足りることを証拠だてるのがそれまで常套の方法だったが、このやり方は当をえていないとシンデヴォルフが強調しているのは、おそらく正しい。人は進化の出発点と終点だけに目をむけて、その中間の時間を、等分された小さな変形で埋めてしまう。しかしほんとうは、形態はにわかに多様性を現わす。種の系列のなかでは、ある種が現われてから、次の種を世にだすために、たえず作りかえをやっているのではない。何十万年かの間そのままでいて、それから、急に次の種を世に送る。型の内部では、すでにはじめから大きな綱は存在している。…こういう現象こそが、シンデヴォルフの先発生説(プロテロゲネシス)を根拠づけるものの一つだった。この説では個体発生初期の飛躍的な造りかえが、そのまま新しい型の起源になるというのである。…動植物界の基本型がかなり少ないことを考えると、進化の大きな一またぎに相応するのは比較的稀に現われる遺伝変異であることがわかる」103-4頁
断続平衡説ですなあ😅
「生物体が進化の中で経過する変化がまったく任意で偶然だなどということはあるまい。変化はむしろいちじるしくかぎられている——第1に遺伝子での変異の可能性により、第2には発生において、つまり遺伝子システムが実際に作用を営んでゆくさいの変異の可能性により、第3には体制の一般的法則性によって。
この結果、進化はしばしば一種の《直進現象》の印象、すなわち一定方向への前進という印象を与えるようになる。…方向づけられた変化が淘汰にさからって進化の経過を定めるという意味での直進現象は稀であるか、または一般にそんな現象は存在しない。しかし進化が、生活状態とかそれに原因する生存競争とかいう外部的偶然事だけではなく、内部要因によっても定められるという意味ならば直進はありうる。《進化の袋小路》つまり好ましくない方向への進化系列は淘汰が弛んだ時、すなわちある形態群が揺がぬ支配権をかちえたときに、おこっているもののようにみえる。…そうした時期の条件は、飼育下の条件に似たところがあって、人間に護られている種はしばしば奇怪な多種多様の形態を示す」109-10頁
「生物の《合目的性》を偶然によって説明した最初のダーウィン主義者はよく知られているように、前ソクラテス時代のエムペドクレスだった。…ダーウィン説は国民経済の観点を有機体生命の上に適用したものであることも、同様に有名である。生きものは彼らの食料の分量が増すよりも急速に殖えつづけるというマルサスの報告が、ダーウィンの重要な出発点であった。あらゆる現象を《利害》と《競争》の概念でかたづけようとするのは、マンチェスター学派の国民経済学に一致する。…
生物学のどの分野にもあるあの2つの案が進化論にも通用する。一方では機械論がある。これによると生命も、それ自体としては無意味な無機的現象であるが、真に科学的な理論の唯一の基礎のように思えるからである。他方、この見方に対する反動[生気論]があったが、この唯一の代案は、みうけたところ自然科学には統制できない要因や、神秘主義への道を開くにすぎない。ここでもまた、総合は有機体論の法則である」112-3頁
「[社会と同様に]生命の進化もまた、利益で方向づけられた偶然の産物以上のものと思われるのだ。それは<創造的進化>(evolution créatrice)という打ちでの小槌、緊張と動力学との悲劇的な錯綜にみちたドラマともみえる。生命は苦心惨憺し、たえずもっと高い段階によじ登ろうとする——一歩一歩にそれだけの支払いをしながらも。…
だがしかし科学の立場から見ればそのばあいには生命の歴史は偶然の堆積ではなく、偉大な諸法則にしたがうことがわかる。擬人的に適応・合目的性ないしは高まりゆく完全化を目ざす指導要因ではなく、今日ようやく知られ始めこれから先にもさらに知られる望みのある諸原理が、生命を支配するのである。自然は創造する芸術家だ。しかし芸術とは偶然でも恣意でもなく、偉大な法則をとり行うことなのだ」115-6頁
「生命の歴史的性格
有機体は体制・過程の動的な流れ、歴史の3つの要素で特性づけられる。《生命》は電気・重力・熱その他と違って任意の自然物に現われたり、分かち与えられるわけにゆかない。むしろ生命は、独自の体制をもったシステムとむすびついている。このシステムの中では、過程の連続した流れとパターンも、同様に独自である。最後に生命という存在はすべて、同じ生命に起源をもつ生命の個々の存在(生物個体)の経歴のみならず、個体が由来してきた世代の歴史の特徴をもになっている。…生物体をその根本特徴にしたがって《定常状態にあるシステムの階層構造》として定義しようと思う。…
…経歴は物理的過程の中では、いわば消えうせる。これに対して生物は歴史的存在と考えられる。…生物の行為のなかにも同様に歴史的な要素がはいりこんでいる。動物や人間の反応は、その生物がそれより以前にうけた刺激や以前に行なった諸反応と関係がある。これがヘリングに《有機物質一般の機能としての記憶》を仮定させたり、ゼモン、ブロイラー、リニャーノたちによる記憶的生命理論をして、個体の記憶と進化とは対比できるものだといわせたりしたのである」116-7頁
(承前)「遺伝学と実験的な進化研究は、もっぱらすでに存在する遺伝子の突然変異的変化に没頭してきた。だが明らかに進化は現存遺伝子の変化にとどまらず遺伝子の新生を含んでいる。そうでなければ、私たちはふたたび不合理な前成説におちいるのであって、原アメーバにすでに人間と同様な遺伝子構成があったと仮定することになる。遺伝子の新生に関しては生物学は無知も同然で…ここから広範な結論を引きだすことはまず望めない。…進化の基礎についての統一的概念によるなら、系統発生上の変化を新遺伝子の導入としてではなく、むしろ全核型が新しい状態に移行することと解釈できるかもしれない。ちょうど心理学的な記憶を、特定神経繊維の中に個別的な痕跡が残ることとしてではなく《脳領域》全体の変化として理解することと似ている」118-9頁→
(承前)「これと関連して、さらに一つ問題なのは、《巨視的》物理現象の方向は、第2法則にしたがって秩序の解消へとむかっているが…これに対して生物では、《アメーバから人間まで》の発展の中で、秩序の高まる方向がむしろ現われているように思えることで…ヴォルテレックはこれを《アナモルフォーぜ》と名づけた。…生物学領域では、淘汰の理論によれば、偶然が分化と複雑化を高める方向に働いている。 …もし生物にも組織化の力、高い次元の《結晶化力》があるならば、生物のアナモルフォーぜはエントロピー原理と調和する。…おそらく生物学上のアナモルフォーぜも、結局は量子物理学の観点から見るべきものだろう。現に突然変異に対しては、これがおそらく正しいだろう。…近年ようやく発見された要素で、根本的意味をもつものがある。閉鎖系と違って開放系では、エントロピーの減少・高度な異質化と複雑化とがおこりうるのだ」119-20頁→
(承前)「生物体は、部分構造・部分過程の交換関係を示す空間的全体物である。空間的システム全体(単なる因果の連鎖ではなく)が現象を規定するのであって、これと同じく、現象はまた時間関係の総体によって(単に目下の条件だけによるのではなく)きめられる。生命の空間的全体性と履歴性は結局、同一の空間=時間的全体の別の側面なのだろう。…空間的にも時間的にも、生きたシステムの中のことがらは一因的(生物体は現在条件により決定される因果関係の集積であるという意味で)にきまるとは思えない。むしろそれを決定するのは全空間=時間的なパターンである。…かりに私たちが生命現象を一つの式で片づけるならば、その式は空間的全体性と時間的全体性を同時に表明しているような微積分方程式となろう。理論物理学と一般システム理論…を関連づけて扱わねばならぬ深い問題がここにある」120-1頁
「突然変異・淘汰・隔離という機構は実験的に確かめられている。けれども倍数性による2、3のばあいを別にすれば、私たちの経験するかぎり《大進化》はさておき、<新種>ができた例はまずない。つまり淘汰説は一つの外挿法なのであるが、基礎概念が印象的なので、このような大胆なやり方も行われるのである。…私たちは実験遺伝学をいまから50年とさかのぼらぬ間、しかも数ダースの対象についてやってきたにすぎず、それらの対象の突然変異は、種の境界を踏みこえはしなかったのだから、《アメーバから人間までの》進化のいく十億年にも同じことしか起きなかったとの結論は、あまりに大胆すぎる。そこでこの種類の議論をするにあたっては、経験事実による判断だけではなく、思考上の可能性がやはり問題となる」91-2頁→