von Bertalanffy, Ludwig. (1949) Das Biologische Weltbild I: Die Stellung des Lebens in Natur und Wissenschaft, A. Francke AG.
=1954→1974 長野敬・飯島衛訳『生命——有機体論の考察』みすず書房

「生物学は物理や化学にもとづいていて、これらの学の法則性は生命現象の探究になくてはならない前提となる。けれどもまた生物学に固有の問題も多い。たとえば生物の形態・合目的性・系統発生的な進化などは物理学には見られぬもので、生物学者の研究やものの見方を物理学者から区別するのは、こうした問題に他ならない。そのうえ生物学は心理学と社会学とに足場を与える。…生物学はこのような立場にあるので、一般的な問題に富んでいる点では全自然科学の中でも最たるものにちがいない。《生命》現象こそは、ふつうの区分にしたがえば、一方では自然科学から、他方では精神科学から糸をひく考え方が出会う場所である」v

「現在ではあらゆる科学のうちに《全体性》、《体制》、《形態》などの概念によって、すなわちいちばん深い根を現代生物学の領土におろしている概念によって、いいあらわさなくてはならぬ問題がでてきている。
…現在までに生物学が自分の仕事を片づけてきたやり方はいささか安易なものがあって、その考えの基礎は他の諸科学からもってきていた。機械論は物理学、生気論は心理学、淘汰は社会学からの借り物であった。しかし、生物学が一個の科学として任務を全うすること、つまり生物分野に独自な現象を思うままに統御することや、さらにまた世界像の根本概念に寄与するという任務は、生物学が独自に発展してこそはじめて可能なことである。…
 著者は二十数年来、生物学上の一つの立場を発展させてきたが、これは現在では<有機体論の立場>としてひろく知られるようになった。…たとえば《開放系》理論は、物理学や物理化学の領域に新しい視野を開いたし、生物学の多くの分野でも、生物システムに独自の正確な法則性を展開するという課題を設けた」vi

「本書では有機体論という範囲の中で、生物学の諸問題と法則性にひととおりふれよう。それから生物学的認識という問題に移ってゆき、最後は結局、現代世界像の一般原理や《一般システム理論》の要請にまで行きつくことになる。
…一般システム理論を、包括的な一つの科学としてつっこんで説明するための基礎もひらける。生物学・医学・心理学・人類学・およびシステム理論の観点から、私たちは心理物理的なものとか実在の問題にまで行きついて、デカルトの流儀による《物質》と《霊魂》の二元論をのり越えようとするのである」vii-viii

「フランス啓蒙主義はこの[デカルトの]枠をも叩き破った。1748年に騎士ジュリアン・ド・ラ・メトリーはデカルトの動物機械論に相対して、人間機械(homme machine)を提示したのである」2頁

「生物の構造と機能には驚くべき《合目的性》があって…起こる事柄には秩序があって、その結果、ものすごく複雑な動きをたえず続けながらも細胞は保ちつづけられてゆく。生物はすべて負けず劣らず、器官においても行為においても合目的的に造りあげられ、ふだん住む環境に適合している」3頁

「いまでは古典ともなった研究の結果、ドリーシュは、物理=化学的に生命が解明できるという説に肯んじようとしなかった。
…生命を物理=化学的に説明することは、ここにきて原理的に行きづまり、ドリーシュの見解にしたがうと、残された解釈はただ一通りだけである。胚の中でも、また同様に生物体のその他の行動に関しても、物理=化学的自然力とは本質的に違う要因が働いていて、この要因が、最終の典型的生物体を目的として予想しつつ現象を補正してゆくと考えるのである。この要因は、正常の時も実験的に攪乱した発生の際でも典型的な生物体を産みだすという《目標を帯びている》。ドリーシュはアリストテレスの概念にならって、これをエンテレキーと呼んだのである。目的めざして働くような要因を探してみると、私たち自身の行動の中にもそうしたものがある。つまり私たちの目的指向作用という心理学的要因と比べてもいいようなもの——この目的意識こそ生命のないものとあるものの間の根本的な違いではあるまいか、また後者の超機械的・超物理的特性も、その要因が左右するのではあるまいか、ということになる」7頁→

(承前)「そこで、ふつうには<機械論>および<生気論>と名づけられている2つの生物学上の基礎概念が対立しあうにいたった。…
 生気論は生命を洗いざらい物理=化学的に説明しつくせるものとは認めない。生気論は生きている物と生きていない物の間に質的差異があると主張する。この説はまずはドリーシュもいうとおり、調節現象から始まる。…他の生気論者たちは機械論を底の底まで考えたあげく、生気論の立場に行きついた。…ダーウィン理論は創造する神霊にかわって偶然性を据えた。…この解釈は各生物機能に関して予想を与えたが、同じように体制設計の大筋や、無数の生理過程の共同作業のなり立ちにも自然淘汰説ではたして間にあうのかどうかは現在ではまだ見通しをつけにくい。…見渡しきれぬほど多数の物理=化学的過程が秩序だっておこって、生物体を保ってゆき、ひどい攪乱の後でさえもとの通りに回復させるが、この秩序や、また精妙な生物《機械》の成立ちは、生気論の意見にしたがえば、特殊な生命要因の支配するところだという。エンテレキー、知られざるもの、世界精神など、物理=化学的現象の経過に干渉し、目標めざして舵をとるこのものをどう呼ぶかは、いろいろである」8頁→

(承前)「だが、どうあっても生気論を自然科学の教義として受けいれるわけにはゆかないことは、一見してわかる。生気論によると生物体の構造も機能もいわば妖魔の群の掌るところとなる。彼らが生物体を創りだし動きぐあいを支配し、また機械の破綻を補修するわけだが、こんな考えからはそれ以上深い洞察を引きだすことはできない。今でさえ説明しにくくみえるものを、もっと謎めいた原理にもってゆき、探究しえない疑問符にそれを集約するだけのことだ。生気論とは、まさに生命の本質的な問題点を自然科学の認識からひき離すことにほかならない、自然科学的探究は本来の意味を見失う。幼稚な自然観察者は生き物が見かけの上で合目的的に目標に向って努力するのをみて、自分と同様に知恵や意志が支配するのだと考える。最上級に手のこんだ研究方法をとっても、生気論はこういう観察者の擬人法的解釈以上のことをやれるはずはないのである。…何であろうと、生気論から受ける答はいつでも同じ一つのものだ——てっきり何か精気めいたもの要因があって、事件の後で糸をひくのだ。生気論の否定こそが生物学の歴史である。なぜなら歴史も示すように、その時々の研究段階では解釈できそうもない現象こそが、いつも生気論の縄張りだとされてきたのだから」8-9頁

「研究が進展するにつれて生気論的に考えられていた現象は自然科学の解釈と法則性の埒内にたえずとり込まれ続けていった。ドリーシュが胚発生の調節を目にして、生命の現象に向かって宣言した支払不能〔つまり彼の時代の科学、したがって彼自身の生命に対する《どうにもならなさ》〕が必然的なものではなくて、むしろ生気論的な立証こそまさに否定すべきものである」9頁

「機械論と生気論は烏鷺を闘わすこと二千年にわたっていて、さまざまないでたちと変化と形態とをとって現われこそすれ、本質的には同じ論議のむし返しである。これは結局人間精神の乖離しあう2傾向を、煎じつめて表現しているのだ。一方は、生命を自然科学の解釈と法則性に従うものと結論しようという努力である。他方には私たち自身の精神の体験というものがあって、これを自然界にある生命の尺度として用いるのであり、また私たちの科学的認識にある見かけの、また本物の隙間をこれで埋めようというのである」10頁

「生物学の近時の発展は、古典的見解〔生気論と機械論〕のどちらにも無制限の権利を認めず、新しい第3の立場からこの2つを克服したのであって、これは近代生物学発展の揺がぬ成果といえるであろう。著者はこの第3の観点を<有機体論の見方>とよび、ざっと20年このかたその説を発展させてきた」10頁

「これまでの生物学の研究や考え方は、3つの指導原理できめられていた。<分析=加算的>、<機械理論的>および<反応理論的>な見方と呼んでいるものがこれである」11頁

「生きたものの中にある個々の部分や経過を分析するのは、<欠くべからざる>ことであり、それぞれの構成要素をもっと深く知る前提でありはするが、分析だけでは<十分ではな>い。
 生命の諸現象——物質代謝・刺激に対する反応性・増殖・発生等——は、もっぱら空間的にも時間的にも有限で多少とも複雑に組立てられた自然物の中でおきる。まさにこの複雑な自然物を私たちは《生物体》とよんでいるのだ。生物体はそれぞれ一つの<システム>を意味している。システムという表現は、たがいに作用しあう諸要素の複合体をさす。
 このあたりまえに見える表現から、分析=加算的な考え方の限界がただちにみえてくる。まず第1に、生命現象をすっかり単位要素に分解してしまうことはできない相談で、各部分、各事象は自身に内在する条件のほか、多少とも<全体>によって左右される。全体とは個々のものを内に含みながら、部分より上位に位する単一体である。そこで一般に単離された部分における事態は、全体とのつながりをもっている場合とは違った関係にある。…生命の諸特性は物質と過程が組織化(体制化)することからおこり、またこの組織化と結びついているシステムの諸特性である。そこで、全体をかえれば特性もかわり、全体を破壊すればその特性もまた消えうせる」13-4頁→

(承前)「第2に、全体は時々、ばらばらにした部分にはみられない特性や振舞いを示す。生命の問題とは<体制>の問題であり、個別事象を取りだしてみるかぎりでは、生物と無生物との間に根本的な区別は立てられない。…私たちが生物の中ででくわす部分や事象は、独特で特異的な配置をしているのであって、この本質的な問題点が、近頃になって提示されてきた。細胞を構成する化合物全部を知ったところで生命現象は解明されない。…むしろ生命とは個体となって体制化されたシステムに関係するものだ。システムを壊せば生命も消えうせる。
…個々の過程ではなしに一個の生物体中の過程全体とか、生体のうちの部分システムである細胞と器官とか、一定の区域の内部におきる過程全体を対象にとると、生きているものといないものの原理的な違いが明るみにでてくる。そうやってみるとわかることだが、あらゆる部分や過程はすべて、生体システムの維持・建設・修理または増殖を保証するように配置されている。この配置が、生体中での現象を、死んだシステムや屍体中の反応から根本的に区別する点である」14-5頁

「原始構造を研究するにせよ、化合物の構造式や結晶の空間格子にせよ、何につけても体制が問題になり、この問題は近代物理学でもっとも緊急でしかも蠱惑的なものに思われる。そう考えてみると、生物に対して分析=加算的取扱いをするのはとんだ見当違いということになる。…
…生物学が当面する課題は、秩序と体制とが法則性をもっていることを生命の領域で確立する点にある。そして実際、これらの法則性は…あらゆる段階の生物学的体制について探究されなくてはならない。物理=化学的段階。細胞=多細胞的編成の段階。さらに多くの個々の生物体からできている生命共同体の段階と」16-7頁

「たとえば細胞や生物体の中では、互いに意味づけあいまた現状を維持するようなやりかたで無数の過程が流れているのであるが、私たちが細胞を観察して生命現象の秩序を説明する際には、たった一つの概念しかなかった。名づけて<機械理論的>といえるものである。ヴァイスマンの胚発生理論…や古典的な反射=中枢説…が、こうしたとらえかたの好例である」18頁

「次の3つの拠りどころから私たちは構造上の秩序を生命現象の基本だとは考えかねる。
 まず第1、生命現象の全分野にわたり、調整——攪乱から回復すること——の可能性がみられる。たとえばドリーシュは、胚発生の時に行われる調節は《機械》ということを基盤にしてはありえないと主張したが、まさにそのとおりなのである。なぜなら、固定された構造は一定の働きかけにだけ応ずることしかできないので、勝手な要求に対しては応じうるものではないからだ。
 第2に機械と生物との構造には、根本からの区別があって、前者はいつでも永続的な構築素材でできているが、後者はたえず更迭し、いつも崩れてはまた作られて、はじめて自分の体を保ってゆく。生物体の構造は秩序づけられた諸過程の現われそのものでさえあるし、また、これら諸過程にあってこそはじめて成り立つものなのである。だから、生物の諸過程がもつ根本的な秩序性は、既成の構造の中でなく、むしろ過程自身の中でしか探しだすことができないのだ」18-9頁→

(承前)「第3に個体発生でも系統発生でも、先へ進むにつれ、<より>機械化されず調節力ある状態から、機械化され、<より>調節力の少ないものへと移りかわってゆくのがいたるところで見うけられる。…いろんな生命現象について…ただ一つ特定の行動にだけむかって固定化されてしまうことがいたるところに見いだされる。これは前進的機械化と呼んでよいであろう」19頁→

(承前)「そこで結論は次のとおりだ。ます全システムに含まれている諸条件の交互作用で、つまり<動的>秩序によって、生物体の現象に方向が与えられる。生物の調節能力を裏づけているのはこの動的秩序である。つぎには機械化が進みだし、はじめは統一された行動だったものがばらばらにほぐれ、個々の過程が一定の構造のもとで行なわれる。構造的=機械的な秩序ではなく、動的秩序が第一であって…生物体は機械<である>のではないが、ある程度まで機械<となる>のだ。機械となって固定するのだ。もちろん機械になりきるわけではない。つまり全然機械になってしまえば、生物体は撹乱されても調節することができないから、外界の与える制約がしょっちゅう変わっても、これに辻褄をあわせていけないわけだ。生物体の諸過程は、構造にしっかり結びついた個々の過程が単に集まっただけのものてはなく、それはむしろ多少とも、動的なシステムの内部で規定される現象の性質を備えている。生物が、変化する要求に適応する能力をもち、攪乱に際して調節力をもっているのはそのためである」20頁

「生物体は外部条件が一定のままでしたがって外から刺激がなくとも、受動的なシステムではなく、基本的に<能動的>なシステムである。…崩壊や構築は生来本来のものであって、外の条件によって課せられるのではない。…現代の研究によれば、律動的自動作用が示す自律活性のほうが、反射的な反応性よりも基本的だとみなければならない。
 そこで有機体論の見方をまとめれば次の標語になる。<システムを分析=加算的に見るよりも全体的に>! <静的=機械的に見るよりも動的に>! 生体の<一次的な反応性>に注目するよりも<一次的に能動的なもの>であると考えること!」20-1頁→

(承前)「これらのモットーによって機械論と生気論の論争は克服できるのであって、そもそもこの両説はともに分析=加算的・機械理論的な見方からでてきている。機械論は生命のまさに基本の問題たる秩序・組織性・全体論的および調節に対してなんの解決も与えはせず、分析的研究においては、上の問題は解決されぬままに残る。…生気論はまさにこの未解決の問題から生まれたのであるが、これとて加算的・機械的な理解を越えるものではない。それどころかこの説においても生物体は部分や仕組みの集まりなのだ。ただ生気論では、これが何か霊気めいた操師の手に委ねられ、完成されると思うだけにすぎない。たとえばドリーシュは、胚とは細胞が《加算的に並びあったもの》で、これがエンテレキーによって始めて[ママ]完成されると述べている。生気論者も機械論者と同じく、有機的なシステムという中立の立場から出発せず、有機的機械という偏見から出発する。調節の問題や機械の起源という点にきて、生気論者はこの有機的機械という観念ではまに合わないことに気づき、機械論から生物を救わんものと、別の要因を導きいれるのである。この要因は秩序性が乱されれば機械を修復するし、時には機械の作り手としても働く」21-2頁→

(承前)「要するに生物体の秩序や調節を説明するのには2つの可能性しかないと思われていた。生物の秩序性は機械的に固定された構造によるとするか、生気論的な要因によるとするかである。どちらの理解のしかたも不十分であって、機械論的な見方は調節と《機械》の成りたちの問題に答えられない。他方生気論は自然科学的な説明を断念したものだ。
 有機体論の見方が、右[上]の両者と相対峙する。一つ一つの要素や過程を確定することも、生物の秩序性を機械類似の構造に帰することも、また秩序化要因としてエンテレキーのごときものに訴えることも、生命現象を認識する上では不十分なのである。…ここに生物学の本質的でしかも独自の課題がある。生物学的秩序性は特殊なものであって無生物領域の法則性を越えていはするが、探究を進めるにつれて、これに次第に近づいていくことはできる。秩序性はあらゆる段階で研究されねばならない。物理=化学的な単位過程およびシステムの段階、細胞と多細胞生物体という生物学的段階、個体を越えた生命単一体の段階、そのどの段階にも新しい〔それ以下の段階にはない〕特質と法則性がある。生物学的秩序性は、広く見て、動的性格のものといえる」22頁

「生命の自律性などということは、機械論では相手にされず、生気論では形而上学的疑問符をつけられっぱなしであった。だが右[上]のようなわけで、有機体論の問題を自然科学的に取り扱うことができるし、現にかなり調べてきている。
 《全体性》という表現は過去長くにわたって誤用されてきたが、有機体論でいう全体性とは神秘めいた実態でもなく、私たちの無知の隠れみのでもない。全体性は自然科学の方法で扱えるし扱わねばならない、一個の生物学的実体なのだ。
 有機体論は機械論と生気論の折衷でもなく中道でもない。…体制と全体性は、有機システムに内在しており自然科学によって解明できる秩序原理であって、まったく新しい立場にある。…
 有機体論の立場は、まず<生物学の研究方法ならびに理論>という意味で、次に<認識論としての意義>の見地から吟味されるべきものである。…有機体論は生物学の基本的問題とそれらへの可能な説明を見てとらせ、またこれと取り組むことを可能にしてくれる。以前の機械論や生気論の立場では、一般にこれらの問題説明をそもそも見いだすことができず、見いだされたにしても不可思議とされて自然科学の方法では手のつけようがないとされた」22-4頁→

(承前)「〔生物学の現在の〕目標は、<正確な法則性>をまず提示することであるが、この法則性は生命現象の基本特性に対応して、かなりの程度までシステム法則の性質をもつものでなければならない。その意味で有機体論の見方は、生物学が形態や過程を記述する博物学の段階から法則科学にうつり変わるための前提なのだ。無生物の世界では、アリストテレス的世界体系から新物理学に移行する際に《コペルニクス的転回》が起きたのだったが、生物学でもこの転回をやりおおせるの私たち現代に課せられた宿題である」24頁

「<超微視的形態学>の領域(フライ=ウィスリンク)で物理=化学的範疇から生物学的なものへの移りかわりがおきる。…新しい構造レベルに達するつど、自由度は増していく」28-9頁

「生物学的単位要素は安定な結晶として理解するべきではなく生物システム全体とおなじく、たえず物質交代をしている…
 この見方から普遍的な結果…まず、遺伝子や染色体が、静止的な巨大分子やその複合体ではなく、動的構造をもつもの、《物質交代する無周期性結晶》だということであって、それらが存続するのは静止的に続いているのではなく、定常的な姿で維持されているものと思われる」32-3頁

この場合の「結晶」て何だ? 😅

「安定な化合物としてのタンパク質は安定化の産物であって、生細胞中では…なんらかの動的平衡関係にあるととるほかあるまい」37頁

「体制の一般原理
 生物体にみられる段階構造は、生物学だけでなくひろく心理学や社会学の領域にもわたる一つのパターンの一斑なのである。それは<階層的秩序>と呼んでよい」40頁

「多細胞生物の<空間的階層性>…多細胞生物は、諸部分の段階構造からなっていて、各段階はいつでも、もっと高次の秩序をもつ体型へとまとめあげられてゆくのである。ここでW’は全生物体で表わされ、Mは生体の部分である。ある成分がもっと高い水準にある成分にたいしてもつところの体制関係がR(s)である」41頁

「2つの説が対立して、一方は細胞だけが生きており…物質は細胞の死んだ分泌物だと考えた。もう一つの説によると、生きている原形質が改造されて基礎物質になるという。この説は《生命質》なる言葉をもちだしたが、その中には細胞だけでなく基礎物質も含まれているのである。有機体論の見地からフォン・ベルタランフィは次のように指摘した(1930)。第1に、細胞間物質の生長と形態形成とは、それらの物質が自立して《生きている》というには十分でないこと、第2に、いうまでもないが、細胞間物質の生成は個々の細胞の仕事を寄せ集めたものではなくて、全体——しばしば合一された原形質から生ずる(共形質的symprasmatisch)組織であるが——の単一な働きだということ。第3に、生命質のかわりに、システムという見方で考えるべきだということ。階層的秩序をもって組み立てられた生物体という条件の中では、なによりまず細胞が、次には組織が《生きて》いる。組織という枠の中で細胞間物質の演ずる役割は、細胞の枠の中で細胞膜や繊維が果たしているものと同様にみてよい。膜も繊維も、それ自体で《生きて》はいないが、全体としては生きている細胞システムに属するものである」42頁

「<遺伝学的階層性>…関係R(g)が意味するところは《直接の子孫であること》だ。両性生殖では遺伝学的階層性は説くまでもなく複雑なシステムのほんの一部にすぎない。受精卵は両方の親に対してR(g)の関係にあるために、システムは網状構造の性格を持つ」44頁

「生物は形態学的な<部分の階層性>だけでなく、生理学的な<過程の階層性>をもあわせ示している。もっと正確にいいかえるならば生物体は形態学ですべてをつくせるような単一の階層性を示してはいない。それは幾重にも入りまじり、重なりあった諸階層性のシステムである。…
 過程の階層性は形態学上の編成よりもずっと移りかわりやすい。ある過程が形態学的な一成分と関係していれば、過程の階層性と形態学上の編成が一致することもある。しかし一致せねばならぬわけではない」45頁

「さらにまた階層的秩序の重要な型として<階層的分岐>といわれるものがある。…階層的秩序の概念を使うと、事象Wはここでは原初の統一された胚であって、これに続く準位面に対応するのは、分岐していく第1・第2級・・・・の部分システムである。重要なのは分岐が、分裂の階層性内での細胞的編成とは、一致しないことだ。…別個の各部分の運命をきめる要因は、発生しつつある卵が分岐によって細胞成分へと細分されたことにあるのではない。むしろそうした要因というのは、一群の細胞の集まりから一定の成分ができてくるように決定する動的先行経歴(Prius)である。…
 生物学的階層性でもそうだが、心理学的および社会学的階層性でも、分岐という性格がとりわけ目だつ。…生物学の領域では、全体がまず始め[ママ]で、これが部分システムへと分岐する。…しかし系統発生でも、生物体の分化が進むことは、生命機能が分岐することを表わす」46-7頁

フォロー

「生物の段階を高く登れば登るだけ、関係しあっている全体のうちの各部分それぞれのふるまいかたは多様にはなってくるが、生物体全体の働きに比べると貧弱にもなってくる。…
 多様になること、つまり部分の<分化>が増すことは…漸進する統一化と結びついている。これはまた同時に、比喩的に《分業》といわれるところの特異化をも意味している。…
 分化が増していくことは、同時に《機械化》が増すことである。つまり、はじめ統一されていた行動が個々の別々の行動の集合体に分かれ、それとともに調節能力を失う。ある部分が、多少とも一つの機能ばかりを担当すれば必要の際に他の機能を代行する調節能力は退化する。その部分が失われると補いのつかぬ損傷になる。…特異化(専門化)によってはじめて行動をもっと高次にすることができる。専門家は一方ではかけがえのないものだが、他方またふだんの環境以外のところでは原始人よりもずっと始末におえないものだ[😅]。…個々の生物体や生物の部分についても、また外界に対して適応するときにも、分化と特殊化によってはじめて高次の発展がなしとげられる。生物体が機械化し、その部分が単一の機能にだけ結びつけられ、したがって攪乱に対する可塑性を失うという損失を代償に、はじめて高次の発展をあがなうことがてきる」48-9頁→

(承前)「さらにまた分化すると、体の一定の部分が他に対し優越性を得る。だから分化の増大は<集中化>の増大とむすびついている。そこで高次に発展した階層性では、階層の序列と部分の服従の原則(A. ミュラー)がみられる。…もちろん生物体は、軍隊のように単純な梯子上の階層ではない。幾重にもなり相互に働きあうよく編成された全体である。…
 階層秩序と《主導部分》の原理もまた、形態学的な編成を超えた普遍的性格のものである。…
 集中化の原理はこのように生物学的個体性の問題と密接につながっている」49-50頁

「われわれは自然科学的には、個体性について次のようなことしかいえない。系統発生的・個体発生的に統一化が増していき、その間個々の部分はたえず分化し続け、自立性を失ってゆくということだ。極言すると、生物学的個体性などというものはなくて、系統発生的・個体発生的に前進してゆく個体化があるにすぎない。この個体化はもとをたどれば前進的集中化に始まっている。つまりある部分が、他の部分に対して指導的役割をえて、全体の動きもの部分によって定まるのである。個体性とは一つの限界であって、発生においても進化においてもこの限界に近づきはするが、そこに到達することはない」52-3頁→

(承前)「個体化とともに死ということが生命の世界に現われる。経験の示すところによれば、原始的《分割体》である下等動物とちがって、高等動物として現われてくる複雑な統一的システムは、分裂によっては増殖できない。こういうシステムはいつまでも生存しつづけられず、自然損耗して老齢や死に陥る。個体を死によって定義することは、当をえないことではないだろう。統一のシステム、そのうちでも特に中枢神経系の集中化傾向と、生殖器官の解体的傾向との間には、対極的な対立ができあがる(A. ミュラー)。完全な個体化すなわち集中化は、増殖を逆に不可能にすることになる。増殖とはまさに、年とった生物体の一部分から新生物体を作りあげることを前提としているのであるから。他方、指導的中枢系である脳と心臓とは自然の老化過程で最初に破綻し、それゆえとりもなおさず死の器官なのである。
 このように個体の概念は生物学的には、限界概念としてでなければ定義しようがない。実際この概念の規準は、自然科学や客観的観察とはちがうところにある」52-3頁

「超個体的体制の世界
 生物体は空間的にかぎられた個々の存在として私たちの前に現われる。だが彼ら自身はもっと高次な単位の項(部分)であって、その単位体とは時間に関していえば<種>である。おのおのの生物体は増殖によって他のものから派生したり、また新生物体の源流になったりしながら超個体的結びつきのそれぞれ一員となっているが、同様に空間的にも生命の段階構造は生物個体のところで終るのではなく、個体を越えてさらに高次の単位がある。
 空間的高次単位に属するのはまず同種の個体の社会で、これは動物集団とか動物国家とかになって現われている。…専門化した動物個体の動きは、全社会を保ってゆくために協調し整頓されている。ちょうど細胞や器官の働きが生物体〔全体〕に対するのとかわらない。たとえばミツバチの結婚飛行・巣わかれ・新しい女王たちの哺育の場合のように、各動物の行動は全体によって規定される。各動物個体の予見によるとはとても考えられない驚くべき《目的性》が示される。…最高度に発達した昆虫国家にいたる道は、高度に体制化された生物個体に達する系統発生的道程と似ていて、系統発生上でもはじめはゆるい連絡だったものが、だんだん緊密な体制に固まってゆくのが見られる」53-4頁

「生物共同体は《動的平衡を保っている生物群落システム》だといえる(レスウェイ)。
 最高の生命統一体を形成するのはいうまでもなく地球上の全生命である。もしもある生物群がとり除かれると、平衡は破れるからさらに新しい平衡状態に移ってゆかねばならない。…あらゆる生物群の中を物質がどんどん動いて、これではじめて生命の流れは保たれる。…
 生物社会とは相互作用をしている成分のシステムである。その成分は相互依存・自己調整・攪乱のさいの適応・平衡状態への性向など特性的なシステムの特徴を表わすけれども、その統一性の度合が生物個体にくらべてひどく小さいことはもちろんである。生物共同体とはつまり集中化していないゆるい統一体であり、生物個体が自分自身の中にある条件で発展するのに対して、生物共同体の発展は外的条件によって定められる。だから生物共同体をシステムだというのは正しいが、よくやるように《高次段階の有機体〔生物体〕》だというのはよろしくない」55-6頁

「人間が手をいれない自然では動植物が生物学的平衡にしたがって、生物共同体を保っている。すなわちどの種も自分の自然の敵〔天敵〕をもっているから無制限には殖えられず、だからといって遺伝資質や外的条件が一変せぬかぎりは、死にたえることもない」56頁

「生物共同体を単一性あるいはシステムとしてみてよいものだろうか? 各項はたえずたがいに滅ぼし滅ぼされあって闘っているのではあるまいか? その答えからは次のような洞察が導きだせる。各部分の不断の闘いは、ルーの表現にならえば、生物共同体であれ、生物個体であれあらゆる生物学的システムの中に存在している。…生物個体も、超個体的生物統一体も、すべて生物学的システムにおいては統一体が部分の間で相争っていることがわかる。統一体をこういうふうに考えることは、ヘラクレイトス、ニコラウス・クザヌスまでさかのぼるあの深い形而上学的洞見の反映である。すなわち世界も世界の各個物も、それ自身対立物の統一(coincidentia oppositorum)であって、たがいに反抗し闘争しながら、しかもより大きな全体を構成し保ってゆくということである。この生物学的問題から、弁神論と世界悪という永劫の問題を見る展望がひらける。これは、たがいに相争う部分が個体化する(不可分化してしまう)ことからおこるのであって、各個体に対しては滅亡を、しかしながら全体にとっては前進する実現化を意味するところの闘いである」58頁

ギヨエテ1812年の日記「叡智ある人々のあらゆる頭脳から機械論的・原子論的な考えかたは逐いだされ、ものの現われすべてが力学と見え化学と見えるように、いつかはなり、その時にこそ、生命ある自然の神々しさがさらにいっそう目の前に展けてくることであろう」59頁

「発生能力つまり《ポテンシャル》は、実最に正常の発生で行われるところよりも一般にはるかに大きくて、発生初期の胚はある範囲では《等ポテンシャル・システム》[等能体系]である。つまり各部分それぞれが何でもできるし、同じことができる。すなわち完全な生物体を作りだせるのである。
 さて次にその時々のポテンシャルは、何によって決まるのかという問題がおこるが、ドリーシュの設定した原理がこの疑問に答えてくれる。発生過程で、ある細胞が行うことは、発生系全体の中で細胞がその時占めている場所によって決まる。…
…発生はまえもって原基に割当てられているのではない。胚の各部分は全体との関係でしだいに一定の発生方向にきまってくるのだ。そこで発生はたとえ見かけは前成的でも、原理的には後成的である。
 これで第1案、つまり前成説か後成説かということには答が与えられた。発生は独立の原基や発生機構の作用ではなく、全体に支配されるのである」61-3頁→

(承前)「さてここで<第2の選言命題>、あれかこれかがくる。《全体》とは、胚の物質系につけ加わる要因なのか、またはこの物質系の配置に内在するものなのかということである。第1案は生気論、第2案は自然科学的な全体性説である。
 ドリーシュが、自分の実験からどんなふうにして生気論に行きついたかは、前に…説明したとおりである。このことに関連しておもしろいのは、生気論に対する認識論的・方法論的な反対ではなくて、これが経験的に打破されたことだ。
 決定が依存している《全体》とは、将来到達されるべき特有の最終産物ではないことは、多くの経験から明らかである。全体とは自己発展するシステムの総合状態であって、その時その場に応じて、具体的に示すことができる。もちろん決定がまだおこらぬかぎり等結果性(等終局性…)がなりたつのであって、始めの状態は違っていても、到達した結果は同じになる。けれども発生の経過は、決して《目標めざして》進むものではない。《目標めざす》とは、その目標を予見してエンテレキーが働きでもしているように、できるかぎり有意味・典型的な結果が生みだされるということである。なにがおきるか、調節が行われるかどうか、そしていつどのように行われるかは、その時の条件によって一義的に決まることだ」63-4頁

「発生の過程は《必然性の無情な勤勉さ》でおきるのであって、結果が良くても悪くても、目的に合っても合わなくても、また元来目的などにはおかまいない。エンテレキーのほうとしては典型的な結果を目ざしているのだが、使える材料が不十分なためにに[ママ]、その目標が妨げられる、などということではけっしてない。…使える道具がすくないので、エンテレキーの威力が制限されているのではなく、むしろ現象は物質系の条件によって必然的にきめられるのだ。それ自体としてはおこることが可能な過程を《留保》するということが、ドリーシュにとってはエンテレキーの主要課題であったことを思いだせば、過剰再生に関する議論はとくに決定的なものである。ドリーシュの言い分によれば、正常な発生の場合にも、調節的発生のばあいにも、留保によって過程のうちのあるものが止められてできるだけ完全な全体ができあがるようになるのであ。過剰再生体や、その他の奇形体は、エンテレキーがまるで無力なことを示している」64-5頁→

(承前)「胚の物質系につけ加わって、それが到達すべき典型的な最終生成物の形を導きだすような原理を仮定することは、いま述べたように第2の選言命題から排除しなければならない。つまり発生過程に現われてくる《全体性》は内在的なのである。胚はヴァイスマン説と生気論がともに基盤としたように、はじめから発生機構や原基の集合ではなくて、統一したシステムであることを示している。生気論ではこの統一化のための仕組みを操るものは、ただ外部のエンテレキーだけであると信じたのであった」65頁→

(承前)「さてここで<第3の選言命題>が現われる。胚の全体性を説明するのに、無生物界で知られている原理や法則性でまにあうだろうか? あるいはまた全体性とは生物に特殊なものであるか?
 第1の、物理法則性でよいという案のあらすじを、はじめて大成したのはゴルトシュミットであった。彼によると、発生の本質というのは触媒類似の化学作用が遺伝子からでてきて、胚の原形質や胚の細胞区分を分化させることである。このさい物理=化学的平衡過程にもとづいて、ちがった種類の現形質が局在して《化学的分化》によって器官形成区域が現われるようになる。基本的の[ママ]化学分化が確立しないうちは、胚は単一な物理=化学的システムである。だから調節胚ならば攪乱のあとでも平衡状態が回復され、調節がおきるのであって、エンテレキー概念など考えだすことはない。…
 発生の化学要因についても、平衡状態という仮定についても、まだとても精細に定義できるところまではきていない。けれどその後の新しい研究によってゴルトシュミットの見解の正しさが証明された」65-6頁

「発生はひどく神秘めいた過程で、物理=化学的分化とは別もののようにも思われる。…
…発生のとき物理=化学的過程がおきていることは必要ではあるが、胚の体制化や形態形成の問題はこれによっても解ききれないのである。
 胚発生の問題を物理=化学的に説明しようとする要求は、もっと一般的な見地から提出することもできる。すなわち個々の過程を具体的に説明するのではなく、物理学・化学で知られている《物質的ゲシュタルト》…の原理に還元できるという原理上の可能性だけを、望もうとするのである。ゲシュタルトとは、一定の平衡状態に達していて物質的全体性を示すシステムをいうものである。だが、ここでも特殊な難点にぶつかる」67-8頁→

(承前)「胚がほとんど未分化の細胞の状態から高度に体制化された多細胞の形に移ってゆくことは、システムが内在する原因によって、次第に高い体制段階に移ってゆくことを意味する。このような動きは、物理学的には一見、逆理のように思われる。物理学的なシステムは、自分から秩序を増してゆくわけにはいかない。むしろ第2法則はどんな物理学的閉鎖系についても、現象が秩序の程度を減少させるような方向に進むことを強要している。実際、自己分解するのに任された屍体はそのようにふるまう。だが生きた胚については、その条件は充たされてはいない。生きた胚が前提としているのは第1に、<より>高次の秩序段階へと導くべき順路として、特異的な体制が存在しているということである。第2に、胚は閉鎖系として行動はしていない。胚は秩序を高めるために、いつでもエントロピー原理によって一部分ずつ消尽されていくエネルギーを補充している。このような体制は…前成的・静止構造的にではなく、動的なものとしてのみ把握できる。エネルギー的にみれば発生とは仕事をすることで、この仕事は胚中の貯蔵物質(卵黄)の酸化によってまかなわれる」68-9頁→

(承前)「第2の要素は有機体システムの歴史性によるものだ…この要素とは個体発生で順次あらわれてくる傾向が系統発生的に蓄積していくという問題だ。こうした意味の歴史的要素というものも、生きていないシステムでは珍しいものである。
 さて、第3の二者択一案から生ずる結論はつぎのようになる。胚発生を説明するには、無生物界に知られているゲシュタルト原理をただ適用してもだめである。むしろ…《生物に内在する特別なゲシュタルト原理》を予想せねばならない…この見方は生気論的なものではない。なぜならこの見地は、生命の世界に浸透している超越的な因子を考えるのではなく、逆にそんなものを排除しているからだ。この見方はむしろ有機体論的なものである。すなわち、生物システムに内在的である有機体制が特異的なものとみなされ、このゆえに生物体に独自の法則性があると主張するのだから」69頁

「ポテンシャルの概念は具体的な意味をもっていない点を、ここではっきりさせておかねばならない。この概念の底にあるのはアリストテレス流の静的二元論つまり形而上学だ。石塊の中にも<潜在的には>いろんな形像がひそんでいて、石工がそのうち一つを明るみにつれだすというのと同じ言いかたで、有機物質も《ポテンシャル》で充ち満ちているといえるだろう。まどろむ潜在力のうちには《ゆりおこされ》るものも《抑えられ》るものもある。だがこんな考え方を前提としてしまえば、天才職人にも擬すべきエンテレキーがこのゆりおこしをやったということ以上には、ほとんど一歩もでられない。…ポテンシャルという考えかたの性格は生物を本質的に活動のないものと見ている。この説は胚の基質の実体をも、単に死んだ物質とみなすものだから、当然物質を形どおりに仕上げる細工人として、外からのエンテレキーが入用になってくる」70頁→

(承前)「しかし実際の胚の発生は、やすみない動的現象である。各区域や細胞のいわゆる《ポテンシャル》は、次のように考えられる。反応速度調和の原理どおりに、どの区域や細胞の中でも、いろいろとちがった反応連鎖が並行してすすむ。いつでも欠けることのない主軸に沿った勾配は別とすれば、どの区域でも始めからはっきり優越性を獲ている反応連鎖などはない。…この状態ではシステムは、いま述べた軸方向の相違だけはあるにしても《等ポテンシャル》である。システムは等結果的仮平衡…といういちじるしい条件をもった状態にあるから、なにか攪乱が加えられてもすぐもとに戻る。…
 ある反応連鎖が決定的に優位を占めるようになると、もはや状況が変わってもこの連鎖を変えるわけにはゆかない。決定がおきたのである。各部分は一定の働きだけに縛られて、もう取消しはできない。…
 等ポテンシャルと早期の未決定状態、それにともなって分割・融合・移植を行なったときみられる調節力、漸進的な決定、多少とも特異的な刺激によって形成体が動きだすこと、自立的な部分発生系に分解すること——発生とおなじこれらの諸原理は再生作用にもあてはまる。…
…発生とは神秘めいた《潜在力》が醒めたり眠りこんだりすることではなくて、諸過程の動的な相互作用なのである。」71-3頁

「幸運にもメンデルが研究した形質の原基(遺伝子)は、[エンドウマメの7本の染色体のうちの]めいめい別々の染色体上に局在していた。同一染色体に乗っているために連れだって遺伝されるような形質を、彼が研究に用いていたら、メンデルは遺伝の過程がみつからず、したがっていまでは古典的となった遺伝法則の設定はできなかったろう」76頁

新しいものを表示
ログインして会話に参加
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。