司法に権力を付託しているのは、最終的には主権者である市民なんだけど、それがわからなくなっちやっているんだろうな。
その市民自体がその時の勢いや感情で間違った判断をすることだってあるから、司法の独立性とかも保障されているわけだけど、
でもそれはすべて最終的には市民のためだし、何が一番大事で、自分は何に権力を与えられて、何に縛られて、その縛っているものはなんのためにあって、市民ではなく自分たちに縛りを与えているのだという
…何つーんですかね、関係性?階層性?そういう自分や自分の属する集団も含めた全体を俯瞰的に眺める視点みたいなのがない…もしくは足りないんじゃないのかな。
で、最終的には専門家だって、その人自身が市民の1人なんだから、…多分、やっぱり専門家である以前に自分が1人の市民なんだってのが分かんなくなっちゃうみたいな問題なんじゃないのかなぁ。
「肩書きは貴方じゃないよ」みたいな。
最終的な目的は主権者である市民の生活を守ることで、そのために市民自身にも枷をはめてもいるし、互いに力の拮抗する立場の違う機関を設置して、その互いの力動のバランスで柔軟性がありながら、適度な秩序と安定が保たれた社会を維持する…専門家はその仕組みの歯車のひとつなんだよってのが、法律関係者は法律を戴いて仕事をしろってことなんだよな。
そういう全体をメタ視点で見て、自分の立ち位置を理解してないと、大きな勘違いをしてしまったりするんだろうな。
そのメタ視点を与えてくれるのが、逆説的だけど、自分もまたひとりの市民だという、地面に両足踏ん張って、ひとりで立つ個人であるというアイデンティティなんだと思うのよ。