わたしやあなたがいてもいいように誰もいていい。それだけのことなんですけどね。
あと、あらゆる差別と戦うと連帯した時に、差別と戦う側は差別をしないかのような無謬性を帯びてしまうので、今後なにかに参加するにしろしににしろ、そこは「私もあなたも誰も踏みうる」ということを忘れずにいたいと思います。

思ったんだけど、「差別をする人たちvs反差別」と言う風に考えずに、「差別が日本にはないとか自分はしないとか考える人たちvs日本にも差別が根強くあるし自分もし得ると認識できている人たち」と言う風に、捉え直すと、問題がより明確になるんじゃないだろうか。

それは、侵略戦争や、人権蹂躙、間違えた政策や答弁など、いろんなことに、応用できそうだし。

奴らこそが、とにかく自らの無謬性を主張するから、話がおかしくなる。認知の問題。現実見当の問題なんじゃないか。

From: @satomuch
fedibird.com/@satomuch/1105478 [参照]

フォロー

@satomuch

差別だけでなく、どんなことにも言えるんだけど、人間って、自分の中の潜在的な可能性の存在についての認識なしには、その行動にブレーキをかけることも難しいんですよね。

だから、自分は暴力は絶対に振るわないって言ってる奴に限って暴力を振るっていたり、絶対に嘘をつかないって言ってる奴に限って嘘つきだったり、絶対に感情的にはならないと言ってる奴に限って感情に任せて何かしたりする。そして、その自分の振る舞いに無自覚。

ログインして会話に参加
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。