思ったんだけど、「差別をする人たちvs反差別」と言う風に考えずに、「差別が日本にはないとか自分はしないとか考える人たちvs日本にも差別が根強くあるし自分もし得ると認識できている人たち」と言う風に、捉え直すと、問題がより明確になるんじゃないだろうか。
それは、侵略戦争や、人権蹂躙、間違えた政策や答弁など、いろんなことに、応用できそうだし。
奴らこそが、とにかく自らの無謬性を主張するから、話がおかしくなる。認知の問題。現実見当の問題なんじゃないか。
From: @satomuch
https://fedibird.com/@satomuch/110547882285375685 [参照]
@zpitschi
視点を変えてみることは大賛成です。色々と視点を変えたり、相対化していくと、〇〇対△△と言われる中にもグラデーションがあるのがよく分かるし。
今一番危険だなあと思うのは、連帯と一枚岩になろうとすることが混同されることだと思っています。
「仲間」と思っていても、実際のところ、よくよく互いの思いを出し合えば、それぞれが互いを違う人間だし、まったく同じことを考えているわけではないし、むしろそこにこそ価値があると思うのがきっと大事なんじゃないかと感じます。
違いがあるから、互いにその違いに刺激を受けて、また自分の考えを発展させることもできる。
例えば、「そうだよね!」とか「なるほど!」と思う時も、いい刺激を互いに与え合うことはよくあるけれど、逆に、自分と違う(どちらかといえば不愉快だったりムカついたりするような)意見に直面すると、人間は心の中でいろいろ反論し始める。チクショー!と思うと猛烈に頭が回転しだす。または「えーっ。そうかなぁ」と納得できない時とかも。
少なくとも私はそうです。
反論しようとすると、自分の考えをより精緻だったり、まとまった感じだったりに、深化、発展できる。
「仲間」をそのようなことを互いにできる存在と思えば、私たちはより生産的になれるし、思考し続けることができる。
それに対して、「一枚岩」になることは、互いの違いを許さず、勝手な自由な思考を禁じる動きです。皆が無思考になっていく、とても危険な状態だと私は思っています。
@satomuch
差別だけでなく、どんなことにも言えるんだけど、人間って、自分の中の潜在的な可能性の存在についての認識なしには、その行動にブレーキをかけることも難しいんですよね。
だから、自分は暴力は絶対に振るわないって言ってる奴に限って暴力を振るっていたり、絶対に嘘をつかないって言ってる奴に限って嘘つきだったり、絶対に感情的にはならないと言ってる奴に限って感情に任せて何かしたりする。そして、その自分の振る舞いに無自覚。