現代人は自分の存在意義、存在価値について、「生きてて(存在してて)良いのか」みたいなものを背負い込まされてるから、その不安を消すために国と一体化したりカルトの教祖と一体化したりして自分という存在を消して、その苦しみを逃れるんだと思うけど、もうひとつ、皆んなが良くやるのが、「誰かに必要とされる必要」を満たす事で不安から逃れようとするというやり方なんだと思う。SNSとかで注目されたい欲もそれですよね。
例えば親が子にそれを満たす役割を求めるとき、見た目にはものすごく良い親だったりする。「こんなに良い親で、子どもから求められている私は存在していても良い」という安心を子どもは親に与えてくれる。子どもは感情的に搾取されているような状態になる。親のパフォーマンスの道具みたいになるから(満たしてくれない子は捨てられるので、子は必死で道具をやらざるを得ない。素晴らしい親を愛し求め続ける子の役回りを)。その子は長じて自分の存在価値に苦しむ。
セラピストとクライアントという関係でもそれは必ず再演される。だからそれをやらせて貰ってるうちは、そこには欺瞞があるのだと私は思っている。
この間、この日本会議の雑誌の表紙を見た時に、ふとそれを思った。良いお祖父さんとして子や孫たちに慕われたい欲を彼らは満たしたいのだなと。
良いんですよ。そのような欲があるのは自然な感情でしょう。というか多分とても大切な欲望です。
ただ、肝心なのは、それは自分の欲、望みであって、相手は自分の思い描いた相手ではないということを受け入れ、悲しむ能力。自分の願望も認め、なのにその通りにならない世界の存在も、認める…それはとても苦しいこと。
求められたいと思っても、子はいつか親を捨てるし、国民はそれぞれの望みを満たすために生きているのであって、政府の愛され称賛されたい願望を満たすために存在しているわけではない。SNSの自分以外のアカウントも、各人がそれぞれの欲のために生きている個人であって、自分の注目されたい、人気者になりたい欲を満たしてくれる駒ではない。
そこがゴチャゴチャになっている人が(要するに幼い人が)今の社会には多すぎる。願望と現実(にいる目の前の相手)の区別がつかない。
だから、逆に他者に振り回されちゃうんですよね。相手の歓心を買うことが主要な目的化した人生は主体性を奪われた人生にならざるを得ない。
精神分析って「満たさない」営みなので、それがすごく可視化されていく。皆が何に苦しんでいるのかが。