サラ・ピンスカーの『いずれすべては海の中に』。図書館に返却してからも本当に素敵だったなあ……と幾度も反芻している。つくづくSF小説いいなと思った。三体もプロジェクト・ヘイル・メアリーもまだ読んでない私ですが、今は短編の方が気持ちに合うのかもしれない。
もう一回借りたいと思う本を買うのが近年の書籍購買作法になっているんですが、なんか段々ちょっと儀式っぽくなってきてて、ファン・ジョンウンの『ディディの傘』に収録されてる本棚に取っておく本を選ぶやり方のあの感じを思い出す。
絶対に好きに決まってると確信して借りた本を読了して心を奪われてる。記憶のアーカイブとしての料理本。
著者は日本人とレバノン人の共通項として『福祉民族』という表現を用いている。「日本は福祉国家ではなく、福祉民族だ」とル・モンド紙の論説にあったそうで。
「国家は自らの責任を放棄している。国がそれでもどうにか機能しているのは、人々が助け合い、なんとかやりくりして解決策を見つけているからだ」
「都市計画に対する国家の無関心、公共空間の不在、選挙の進め方、社会を覆っているタブー、政府が国民を尊重していないこと、多くのカタストロフが続いたために、あらゆるものはいずれなくなるという意識が強くあり、それが国民の一種の諦念にもつながり、結果として指導者に都合の良い状況を生んでいること」
レバノン料理は自分にとってライトだけれど現地の人に言うと否定され、和食はライトと言われるが日本に帰るたび太るというくだりは、その分析の言語化具合がおもしろい。
「外部から食文化に出会う者は、敬意を持って、一種理想的なやり方でその料理に接するのに対し、その食文化の内部にいる人は、食べ過ぎたり、偏った食事をしたり、飲み過ぎたりなど、逸脱しても許されるとみなしているのだ」
読み終わった。素晴らしく明晰で美しくて平易な文章で綴られた韓国文学読書案内。どの章も著者の真摯で端正な語りが清水のように意識に沁みてくる。
時間がない人には第7章の「朝鮮戦争は韓国文学の背骨である」だけでも読んでほしい。私はハルバースタムのノンフィクションで一通り知っているつもりでいたけれど、一進一退で占領者が入れ替わった悲惨さはわかっていなかった。WWⅡにおけるナチスとソ連の二重三重占領を受けた国々を彷彿させる恐ろしさ。そこに根差した分断文学。小津安二郎や黒澤明が拉致され不在になったところから出発する戦後日本映画史を想像してみてほしいという説明の声がずっしり重くのしかかってくる。日本が負っている戦争特需の恥も今ここにあるリアルとして感じられた。
章を読み進めるごとに読みたい本が雪だるま式に増える。昨年発表されたというハン・ガンの『別れは告げない』の邦訳が待ち遠しい。済州島四・三事件に挑んだ作品だそうです。既読作品の書評のなかでは『少年が来る』にアディーチェの『半分のぼった黄色い太陽』を並べて論じたくだりに特に興奮した。
結びの言葉にとても励まされた。なんて優しい言葉だろうと思った。
「いささか楽観的にすぎるかもしれないが、海外文学を読むという行為そのものがおそらく、悲観とは反対の方向を向いている。」