統合・同化が進んだ仏、独、オーストリア・ハンガリーではWWIの際、各国のユダヤ人は「国民」として戦争に積極的に参加。
しかし、ロシア帝国のユダヤ人は統合・同化が進んでおらず、政府に扇動された「ポグロム」の犠牲にさらされたため、シオニズムはここに多くの支持者を獲得。
ただし、百万単位のユダヤ人(アシュケナージ)は米国に移住、米国のユダヤ系は基本この人たちの子孫。
残ったユダヤ人青年の選択肢は三つ。1)国際共産主義によって「国民」の差別を超える世界革命。2)シオニズム、3)国家設立を求めず、反ユダヤ主義と戦う「ブント Bund」。
ロシア社会労働党の結成は「ブント」に支えられたもの(その後分裂するが)。ただしスターリンによってソ連内のブントは粛清。
とは言え、両大戦間のポーランド・リトアニアではブントはかなりの政治的力を持つ。
ナチスのホロコーストの犠牲になった600万―700万人のほとんどは東欧・ロシアのアシュケナージ。
もしWWの際の英仏の「三枚舌外交」とWWII時のホロコーストがなければイスラエル建国は承認されなかったでしょう。
問題はパレスティナのアラブ人は欧州の反ユダヤ主義とホロコーストに何の責任もなかったこと。
ここに問題の根幹があります。
@yoshiomiyake
分かりやすい説明をありがとうございます。
世紀末アシュケナージの様相をもう少し細かく言うと、ロシア帝国内で土地の所有を禁止された多くのユダヤ人達は都市の労働者となる。
1905年革命においてペトログラードやオデッサなど、大都市で中心になったのはユダヤ系労働者。ここでトロツキーは頭角を現す。「自由の赤旗が翻る!」で終る『戦艦ポチョモキン』の監督エイゼイシュタインもユダヤ系。
ただし、この時点ではまだ第二インターの終焉のロシア社会民主労働党。そのボルシヴィキ(多数派)の指導者がレーニン、カーメネフ、ジノヴィエフ。メンシェビキの指導者がマルトフ、アクセルロート、トロツキーも当初こちら。ここに挙げた名前の内、レーニン以外は全員ユダヤ人。
メンシェビキは都市労働者を基盤とし、近代的立憲政治を経て、社会主義革命。であるから、事実上の武装クーデターである10月革命には反対。
この後、「ブルジョア革命」と「プロレタリア革命」についての不毛な論争が日本で行われるが、これは要するに「2月革命で与えられた条件を10月革命に転化する」というテーゼを世界中に輸出したため。
日本でも明治維新はブルジョア革命か絶対主義かという不毛な論争が繰り広げられた。
ただし、重要な仕事がそこから生まれたことも事実。講座派・労農派などの分析がそれにあたる。