後期ルネサンスからマニエリスムへ
ルネサンスの中心はロドリーゴ・ボルジア(チェーザレの父、アレクサンドル6世)、ユリウス2世、レオ10世(ラファエロの肖像あり)等が教皇になっていたローマに移ります。
ラファエロ、ミケランジェロも活躍の場をローマに移します。
逆にレオナルドは当初ミラノ公国の「僭主」イル・モロの下、青銅騎馬像などを製作、イル・モロがフランス軍に倒されるとチェーザレ・ボルジアの軍事開発部門責任者となり、チェーザレはユリウス2世の権謀術数によって没落すると、最終的にフランソワ1世に庇護される。
ここから神聖ローマ皇帝カール5世の「ローマ劫略 Sacco di Roma」までが盛期ルネサンス、以後がマニエリスム、となります。
しかし、何故キリスト教普遍帝国を目指しすカール5世とローマ教皇クレメンス7世が戦争を?
これは当時のローマ教皇が「ローマ教皇領」の君主であったことと関係します。
つまり、イタリアの一君主としてはカール5世の欧州統一は阻止したい。
それ故の合従連衡の結果が「Sacco di Roma」です。
ローマ劫略にはプロテスタント・ドイツ人傭兵(Landsknecht)が多数参加。
普遍帝国の内部崩壊=インターステイトへの移行の象徴と言えます。
16-17世紀はドイツ人傭兵と訳されるLandsknechtの全盛期です。
有名なスイス傭兵=パイク兵(長槍集団歩兵)も、Landsknechtに入ります。
たしか「アルプスの少女ハイジ」の「おじいさん」も若い時「傭兵」をしていました。傭兵として生き抜いてきたわけですから、、大抵のことは「なんでも知っていた」としても不思議はありません。
フランスでも、いわゆる「近衛兵」は伝統的にスイス傭兵でした。
スペイン・オランダを倒し、欧州の覇者を目指したルイ14世も戦争に際しては大量のスイス傭兵を雇い入れました。
フランス革命の際、チュイルリー宮を襲った民衆に虐殺されたのもスイス傭兵です。
つまり外国人傭兵の方がフランス人よりも「信用」できたのです。
実際、バスティーユ襲撃の火蓋を切ったのは「国民衛兵」でした。
スイスにはこの時犠牲者となった傭兵を悼むライオン像があります。
この伝統は18世紀まで続き、米独立革命の際、英軍として戦った歩兵の多くはヘッセンの傭兵です。
あと、解放を条件にした黒人。故にカナダでは黒人は一足早く奴隷制が消滅。
ヘッセンの君主は傭兵を貸し出すことを主な収入源としていました。
それにしても、陸では他人に戦わせること、今日まで続く英国の伝統です。
左下ポントルモ「キリストの十字架降下」
右下「神々と巨人族の戦い」
1545年のトリエント公会議以降、この「ダイナミック」な技法を用いて「反宗教改革」のいわば視覚的デモンステレーションとなったのが、ルーベンスとその工房です。
カトリックはプロテスタントと違い、「聖書」を信徒が「勝手に読む」ことを禁止します。
しかし、ルター以降活版印刷の技術と識字率の向上によって、信者を「聖なるテクスト」を媒介に激増させたプロテスンタントに対し、態勢を立て直したカトリックは、ダイナミックの技法を用いた「視覚的物語」によって「民衆」の聖書への要望に応えようとします。
ネーデルランド北部の教会では壁の装飾が白く塗りつぶされたり、教会自体破壊されたりしましたが、ネーデルランド南部(つまりフランドル)では、ルーベンス派の絵が教会を占拠していきます。
「フランダースの犬」のネロが見るのを望んだアントワープの教会のルーベンスもその一つです。
ことほどさように、政治と美術は分かちがたく結びついているのです。
「ローマ劫略 Sacco di Roma」は、1527年です。
すでにポスト・ミケランジェロ・ラファエロとして始動していた「マニエリスム」(cfポントルモ「十字架降下」)は、この事件によって決定的な流れとなります。
ミケランジェロ、ラファエロにあって、ルネサンスの過程でほぼ完成された「技法」と古典主義的均衡は崩れ去ります。
ジュリオ・ロマーノの「巨人族の没落」は、まさにそのことを象徴する大作です。
ここでは、ラファエロまでに開発された技法が、「世界の終末」の「ダイナミックさ」を表現するために惜しみなく動員されます。
こうした「崩壊感覚」を表現するマニエリスムが美術史的に再評価されるようになったのは、「世界の終末」が現実的可能性を帯び始めたWWII以後になってからでした。