後期ルネサンスからマニエリスムへ

ルネサンスの中心はロドリーゴ・ボルジア(チェーザレの父、アレクサンドル6世)、ユリウス2世、レオ10世(ラファエロの肖像あり)等が教皇になっていたローマに移ります。

ラファエロ、ミケランジェロも活躍の場をローマに移します。

逆にレオナルドは当初ミラノ公国の「僭主」イル・モロの下、青銅騎馬像などを製作、イル・モロがフランス軍に倒されるとチェーザレ・ボルジアの軍事開発部門責任者となり、チェーザレはユリウス2世の権謀術数によって没落すると、最終的にフランソワ1世に庇護される。

ここから神聖ローマ皇帝カール5世の「ローマ劫略 Sacco di Roma」までが盛期ルネサンス、以後がマニエリスム、となります。

しかし、何故キリスト教普遍帝国を目指しすカール5世とローマ教皇クレメンス7世が戦争を?

これは当時のローマ教皇が「ローマ教皇領」の君主であったことと関係します。

つまり、イタリアの一君主としてはカール5世の欧州統一は阻止したい。

それ故の合従連衡の結果が「Sacco di Roma」です。

ローマ劫略にはプロテスタント・ドイツ人傭兵(Landsknecht)が多数参加。

普遍帝国の内部崩壊=インターステイトへの移行の象徴と言えます。

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左下ポントルモ「キリストの十字架降下」
右下「神々と巨人族の戦い」

1545年のトリエント公会議以降、この「ダイナミック」な技法を用いて「反宗教改革」のいわば視覚的デモンステレーションとなったのが、ルーベンスとその工房です。

カトリックはプロテスタントと違い、「聖書」を信徒が「勝手に読む」ことを禁止します。

しかし、ルター以降活版印刷の技術と識字率の向上によって、信者を「聖なるテクスト」を媒介に激増させたプロテスンタントに対し、態勢を立て直したカトリックは、ダイナミックの技法を用いた「視覚的物語」によって「民衆」の聖書への要望に応えようとします。

ネーデルランド北部の教会では壁の装飾が白く塗りつぶされたり、教会自体破壊されたりしましたが、ネーデルランド南部(つまりフランドル)では、ルーベンス派の絵が教会を占拠していきます。

「フランダースの犬」のネロが見るのを望んだアントワープの教会のルーベンスもその一つです。

ことほどさように、政治と美術は分かちがたく結びついているのです。

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