言い切れないけど、心の方向性てのにも、大きさはわからないが、先天的要因もあるように思う。
生きる上での苦労をしたことないなら、その要因が素直に表現される可能性がむしろ大きくなるかもね。

「自由主義」「民主主義」もそうですね。「正しいあるべき姿」程度のニュアンスで使われているだけのことが多い印象です。

この語を自民党等「保守系」が使う場合はただの「反共」の意味ですが、その用法の歴史がそれなりに長い(=敗戦以降の歴史)ので、具体的中身を改めて考える習慣が社会的に失われている傾向も感じます。(それこそが反動勢力の思う壺なのですが)。

小泉政権以降には「既得権」が頻出します。「悪」の意味で。加計問題の時も盛んに使われていました。

重要な意味を持つ基礎表現が、ほとんど中身のないペラペラな記号として使われ、その上で議論の空中戦が行われるこのような状況はとてもまずいと思います。

そして、現権力を批判するのに不可欠な単語群、すなわち「基本的人権」「多様性」「差別」「優生思想」などが現在、ペラペラ記号化の危機に曝されている気がします。

こうした単語群を武器として使う必要がある側にこれら表現への洞察が浅いと、かえって重要な概念の浅薄化が進み、迷走する議論の空中戦に絡め取られてしまいかねない危惧を持ちます。


もうちょい正確に言うと、攻撃の対象は「下層民」の高齢者。

中間層が崩壊した現在の日本を上層・下層で単純に図式化すると、政権の意図は、

上層民 → 常に安泰を保証
下層民就労年齢 → 文句言わず働いて納税しろ
下層民高齢者 → 不用だから廃棄

ということ。
成田某の発言に見合った直截的な表現だとこうなります。酷いもんです。


実験はしたが使えるデータの数が足りなくて解析精度が得られない、このままだと中身のある報告が書けない、てなりそうな時に、欠損データを「補う」つもりでちょいちょいと数字を付け足すのはありがちな話。

研究資金の上限と報告の締め切りがある(つまり、ほぼ全ての研究)と、その誘惑に駆られやすいです。


私も本当のところは解らないですが、彼らの行動原理は、お書きになったいろいろな要素のどれが正しくてどれが違うというわけではなく、すべて混ざったアマルガムみたいなのではないか、と思います。人によって要因の強弱に差はあるでしょうけど。
各国のいわゆる極右勢力は偏狭なナショナリストであると同時に国際的な連携も盛んです。それぞれの国内でのいわゆる「民主主義・リベラル」勢力が共通の敵ですので。

信者はお揃いでミドルネームに入れてくれれば、簡便だし判りやすくていいすね。


伝え聞くところでは、世界を戦乱の中に落し、その混沌の中から白人キリスト教至上主義の体制を現出させようというものだったかと。

huffingtonpost.jp/2017/04/14/s

まあでも、「自発的隷属」をしたがるのは、ある意味ではマゾかも。

マゾではないと思います。
自身では言語化できていない(=気がついていない)でしょうが、行動原理としては認識している(=体で覚えている)ので、常にマチズモによる
マウント取りを志向しながら、負けそうな趨勢では被害者ポジションをとって自己正当化するという感じ。

幸福の科学も統一教会に負けず劣らず思想がヤバいんだけど、まだ大きな問題になりきれてませんね。

ヤマスグリ さんがブースト

みなとの見える丘公園方面から根岸の森林公園や時折画像がSNSで紹介される競馬場跡へ向かう道に寂れ行く商店街がある。

商店街から少し入ったとこには華僑の墓地もあるので、この通りを通過する華僑は少なくない。

この商店街の空き店舗の下りたままのシャッターを利用したヘイト掲示に気付いたのは2022年5月頃。

ヘイト掲示は時折内容を変え、掲示数も増加しながらも継続されている。

選挙の時には自民党と幸福実現党の候補者のポスターが並べて張られたりしている。

この年末年始でヘイト掲示が更新され、「偏向報道NHK」と「ウイグル」になった。

ウイグルは清水ともみの本のコピー、ご丁寧に防水加工までされている。

みんな大好き「中国がー」な憎悪煽動なのだが、どんどん寂れて行く商店街で自分たちの足元すら見えずに「アイツらがー」的なのに必死なアホへの哀れみやこんなのにも感じさせられる脅威やそうさせられてしまう事の情けなさ・置かれている状況の滑稽さや放置し続けるコミュニティへの怒りとか色々な感情を呼び覚ます。

twitter.com/fukuyoken3daime/st


「構造をとらえる」は重要だと思います。自分の主張が何に立脚するのか、相手と対立するのはどのポイントなのかを明確に意識しなければ、繰り出す矛の切っ先が定まりません。
「しっかり向き合う」は、「熟議すれば」「説明して分かって貰えば」など悠長なものであれば無意味で、むしろ有害かもしれません。今の社会状況では、「合意を目指す」のは全体主義に巻き取られる結果にしかならないからです。「脅かされていない人」はそれだけで体制擁護に強く傾くので、生活困窮が目前でなくても現状況に「脅威」を感じるなら脅かされている側にいると言っていいんじゃないでしょうか。

@udonya_no_soba@toot.blue

労働者は国の一部である企業が管理し、労働させて納税させるという制度を意図的に作ってきたわけで、そのことは、労働組合があっても職能別ではなく企業内組合で編成されていることからも判ります。

社会制度を作ってきた側からすれば、「負け組」が高い金額を払わなきゃならないのは「歪」ではなく、「正しく本来の姿」と思っているはずです。


それは、場を実効支配している側の「党派」は、中立、公正、透明、常識を装いたがる、ということなので。

だから「党派性を持ち込むな」との言説は、その者の党派が実効支配していることの指標でもあります。「党派性是非論」に引きずり込むこと自体が、実効支配側の土俵です。

「党派性」は、イデオロギー、規範意識、価値判断基準、生存戦略、利害意識などの語と言い換え可能。

「〜に利害関係をもちこむな」と言い換えれば、この言説の無理やりっぷりが露わです。

国民主権の民主主義国家の政党として評価したら、「与党としても野党としても無能」なのはその通りだけど、上位者が下位者のあれこれを吸い上げることが社会を回す基本メカニズムである格差・階級社会を統治する支配者集団としては、ものすごく優秀よ。そのためだけの機能と能力にとんがってると言ってもいい。

この見方が定着せず、「民主主義からみた自民党評」が力を持ち得ないのは、戦後の日本がずっと、擬制国民主権で擬制民主主義の国だったから。

そして、現在むき出しになってきた戦後日本の真・構造 (=格差志向)を「良し/望ましい」と思う国民が大多数だからです。


「限界系」の用法でよく見るのは、某政局学者が頻繁に使う「限界(系)左翼」ですね。
私が思うにこれは「国民/非国民」みたいに境界線を画然と引くものではなく、メインストリーム対傍流、オーソドックス対エキセントリックという対比でしょう。

つまり、「思考が硬化してこだわりだけで動いていて、本流からどんどん離れてずいぶん遠くにまで行っちゃった連中」という揶揄です。

逆に言えば、「我こそが本流」という意識の表れですね。

私は、「限界系」を多用すけど政局しか見ていない・見えない政局学者のほうに強い傲慢さを感じますけどねw


「血」には貴賤がありますからね。彼らの感性では。

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