そういや先日『怪物』を観たんですが、「いじめにあった」という男の子が「本当は何があったのか」という事実を登場人物ごとに群像劇のようなかたちで話が進んでゆきながら暴かれてゆくのですが、脚本構成や俳優の演技もさることながら、"視点"ごとに撮影する人物の描写の差異(多面性)の表現がとても巧くて、2時間あっという間に観てしまった。
「“子ども/大人”には“大人/子ども”の絶望なぞ知り得ない」「"子ども/大人"同士ですらも、他者の考えることなんて分からない」というある種の断絶を描いた作品だと思うのですが、そんな中で校長先生が湊くんに「言えないことは全部音で鳴らしてしまえ」とトロンボーンを教授するシーンがあり、その断絶を「秘密」として受け入れ、感情を共有する。ある種の「共犯者」となる。その断絶こそを互いの橋渡しとして、前を向く契機として指し示す「希望」となるような気持ちになりました。
「わかり得ないもの(怪物)を受け入れることこそが、未来だ」とするならば、私は最後のシーンを「自分たちを受け入れてくれないものからの、解放(逃避行)」として認められるんじゃないかなと思った。
『ぬいぐるみとしゃべる人はやさしい』を観ました。母校がロケ地になってるんだ、という理由で気になってた作品ですが、「何でかわからないけど皆と“合わない”」「何でかわからないけど“普通”になれない」そんな“生きづらさ”をずっと抱えてきた人たちが、自分のありのままの気持ちをカミングアウトしても「流してしまえばいい」「笑って済ませばいい」となる社会に対して、「私たちは“傷付いている”」と社会に承認されない“ほんとうの自分”の存在を叫ぶ、傑作でした。