すきなひとと付き合いたくない。でも、すきなひとがだれかと付き合うのは嫌だなとも思う。結局独占欲があるんだと思う。クワロマンティックを名乗っているけれども、私はただひとに執着してひとを独占しようとするだけの生き物だと思う。それでもってだれと付き合うわけでもなく、そういうふうにあこがれられたり、まなざされることがないことがどうしようもなくさびしいと思う。いまもそうやってそういうふうとか、そういうことばをつかって逃げようとする。ずるい、卑怯な魂胆があってどうしようもない人間だ、と思う。

ゲームからは降りる

「傷ついたら相手の思う壺」
「気にしたら負け」

 きょうはなんども聞いた。どうやら私は気がつかないうちにそういう、「感情的になったほうが負け」ゲームに参加させられていたらしい。そして、おどろくべきことに、また、かなしいことに、社会はそういうふうなひとたちでできているんだって社会的強者寄りの位置にいる父親に知らされた。
 私はそんなゲームなんか知らない。知ってたのかもしれないけど、乗らない。降りる。降ろして!!降りて逃げる。逃げるのはべつに悪いことでも卑怯なことでもない。
 感情にふたをして、なんでもないですよというふうをよそおってやりすごすのがこの社会ではお行儀のよいことなんだろう。
 知るか!!私は傷ついたし怒っている、そのことを否定されてたまるか。ひどいことばを見て感情的になることはごく自然のことだとおもう。それを隠すだとか、抑えるというのは不健康でなくてなんなのだろう。
 私はもう出て行くけど、あなたたちはそうやって悪意のババ抜きみたいなゲームをおつづけなさってくださいな。

ゲームからは降りる。

ひとがブルドーザーで轢かれているということ ひとをひととして尊重せず、虐殺することがまかりとおっているということ 短期間でおなじことがまたくりかえされているのだということ それを正当化し、「支援」する企業があるということ その企業は私たちの生活を豊かにしている企業だということ

私はキリスト教徒ではないしこういうことばをえらぶことは不適切なのかもしれないけど、クリスマスはすべてのひとに祝福あれの日だとおもっています ここでいう祝福とは、この世のだれもがその尊厳をおびやかされることなく、また、みんながそういうふうに前を向くようにしていこうということです
ほんとうはすべてのいのち、と書きたかったけれど私はヴィーガンになれていないし、あまたの犠牲のうえにいるとおもっているので……
それでもきょうはクリスマス前々日としてかなりお祝いみのつよいことをして、ともだちとサイードとパレスチナと知識人であることについてかんがえをめぐらせたりした

てゆーかさあ、まずはじぶんのいのちまもるのが最優先事項でしょうが あわないかたちで社会運動してしんどくなったらほんとのほんとに元も子もない あなたは救世主なんかじゃない 王子さまなんかじゃない 大切なのは王子さまのいない世界でただ手をつなぐということ

インターネットアクティヴィズム的なものと相容れない部分がおおきすぎるのでインターネットやめたいですね

とくになにか投稿したり、シェアしたりしてなくて、デモに行ってない(ようにみえる)ことを非難するのまじでなんなんとしか…… あなたにみえていないだけで抵抗したり、抗議するかたちなんかいくらでもあるし、そもそもそうやって一緒になにかすることを強いるのはすごくなんていうか全体主義的だ……

青山七恵の『すみれ』は、いちど手をはなしてしまった相手にもう一度手をのばそうとするさまがえがかれていて、それはほんとうに届くかわからないものだけれど、どうしても届いてほしくて、祈るような気持ちですがりつくさまが読んでいて苦しくなる、でもまぶしい

三浦しをん『ののはな通信』という作品は、とても濃くて密度の高い、「恋愛」というかたちでの関係性の破綻を描きながらも、その後までがしっかりと描かれることで、はなれていても、まったくべつの人生を歩むことになっても、あなたのことは大切に思っているのだということ、まったくちがう他者として尊重するかぎり「あなた」と「わたし」として立ちつづけることができるのだ、という点にすくなくとも私は救われていて、いまの私にはできていないことだけれど、いずれそうなれたらいいな、という人生のみちしるべです。

恋愛するタイプのクィアにとって一生添い遂げてハッピーみたいな物語が必要なのはわかる、だっていままで悲恋ものばかりだったもの でもやっぱりずっと一緒ってほんとのほんとうにむずかしいことだし、うまくいかなさやそれに由来しても由来しなくても別れが訪れることをきちんと描く必要があるし、もちろん恋愛しないひとやひとりで生きていくひと、友情にもとづいた関係性を第一にしていくひとも描かれてほしい さまざまに生きているひとたちがそれぞれの望む道で、確かに生きてゆくことをわたしたちは語り、描かなければならない

体裁ばっかりきにしてばかみたい ひとからどうおもわれても平気なはずなのに 見栄っ張りでよくないぞ

早稲田に落ちたとか同志社に落ちたとかシューカツに失敗したとか院でたいした業績をのこせなかったとか、そういうことひとつひとつが自然薯ほりみたくずるずるでてきてどうしようもなく夜だ

私は戦争が起きたとき、困っているひとがいるからどこにどう支援をするかということよりもさきにどうやったら暴力に加担しないですむかをかんがえてしまう 加害者になりたくないから それでそういうずるさについてえんえんとかんがえてしまえるの、特権性というかんじがしていやだな

やっぱりじだいとかで社会のありかたはちがうし、そのときにそうでなければならなかったみたいな価値観てあるとおもう でもこの世をもっとマシにしていくためには変わっていく必要があって、それは過去の価値観を否定するわけではないけど、私はその「乗り越え」みたいな部分をずっとみつめてしまう

「これがいまいちばんあたらしくてただしい価値観です」みたいなのにしがみついていないといけないきもちがつよくあり、あとでただしくないことになるのがこわくてなにもできないになっちゃった……

恋愛とかもういいや〜みたいなきもちと、なにをしていてもふわふわ浮き足立つような感覚をもう一度味わいたいというきもちがせめぎあっており、どうしようね〜
でも「恋愛」したところで私はクワロマなので着地点が見つからずうまく人間関係をおさめられないなともおもう

羽海野チカ作品における母の不在についておもうところがあってもやもや……
母親がいない、もしくは登場しないキャラクターの多さに対して強烈な個性を放つ「父親」が多数登場することへの違和感、すこしの不気味さを感じずにはいられない あとは過剰なまでの「母性」を備えた若い女性の表象とか……

羽海野チカにとっての「親」の役割ってなんなんだろう それはかならずしも「父親」/「母親」の二分化された概念に当てはまるわけではないけれど、というかむしろそれらを越境したキャラクターが多めなのも気になる

幾原邦彦の『輪るピングドラム』における母の犠牲の描写が、父の英雄的なそれに比べてかなり不気味にうつっていたのともどこか通じているような気がして……

とくになにがあるわけでもないがクィアな女たちがただ生きてるだけの小説を書いたりしているのですがこないだ某賞で落選しました めちゃくちゃ悔しい〜〜!!!!

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