ゲームからは降りる
「傷ついたら相手の思う壺」
「気にしたら負け」
きょうはなんども聞いた。どうやら私は気がつかないうちにそういう、「感情的になったほうが負け」ゲームに参加させられていたらしい。そして、おどろくべきことに、また、かなしいことに、社会はそういうふうなひとたちでできているんだって社会的強者寄りの位置にいる父親に知らされた。
私はそんなゲームなんか知らない。知ってたのかもしれないけど、乗らない。降りる。降ろして!!降りて逃げる。逃げるのはべつに悪いことでも卑怯なことでもない。
感情にふたをして、なんでもないですよというふうをよそおってやりすごすのがこの社会ではお行儀のよいことなんだろう。
知るか!!私は傷ついたし怒っている、そのことを否定されてたまるか。ひどいことばを見て感情的になることはごく自然のことだとおもう。それを隠すだとか、抑えるというのは不健康でなくてなんなのだろう。
私はもう出て行くけど、あなたたちはそうやって悪意のババ抜きみたいなゲームをおつづけなさってくださいな。
ゲームからは降りる。
羽海野チカ作品における母の不在についておもうところがあってもやもや……
母親がいない、もしくは登場しないキャラクターの多さに対して強烈な個性を放つ「父親」が多数登場することへの違和感、すこしの不気味さを感じずにはいられない あとは過剰なまでの「母性」を備えた若い女性の表象とか……
羽海野チカにとっての「親」の役割ってなんなんだろう それはかならずしも「父親」/「母親」の二分化された概念に当てはまるわけではないけれど、というかむしろそれらを越境したキャラクターが多めなのも気になる
幾原邦彦の『輪るピングドラム』における母の犠牲の描写が、父の英雄的なそれに比べてかなり不気味にうつっていたのともどこか通じているような気がして……
クィアな魔女