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もっとも店側も対策できることはいろいろあると思うけど、自動化オペレーションは想定待機時間の可視化など客と窓口双方に自覚を促し時間効率の調整を図るオペレーションと対にしないと双方にとっての不利益をもたらしうるんだよね

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不快を現実世界で不特定多数のいる場において不随意に表出して憚らないタイプの人類を目撃するたび、あ〜〜〜感情のお漏らししちゃったね〜〜〜現代社会ってむつかしいね〜〜〜っていう感情になる
システムが悪いよシステムが
そしてそのシステムは窓口の人間を殴れば改善する性質のものではないんでしゅよ

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多分想定外の待ち発生のためか、若い営業マン風の男が窓口に対しカスハラ気味の発言をし去っていったので店の雰囲気が一気に悪くなった

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コンタクトレンズを取りに行くだけのつもりだったのに眼科健診タスクが発生
まぁまだ早いからいいけどさ、、、。

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客の過剰、窓口の不足、崩壊した2040年の社会秩序の前哨戦を闘っている感がある

恩賜上野動物園攻略法(ゴリラ編) 

上野動物園のゴリラ舎は休日常に混雑しており、赤ちゃんが群れにいる今はさらに拍車がかかっている。
ひたすら待つこと、立ち止まらないことを求められるパンダとは違い、限られた観覧窓の譲り合いは客側に任されているので立ち居振る舞いに練達が求められる。
赤ちゃんのスモモちゃんはひとり歩きするくらいになり活発なので観覧窓をぐるぐる周回していれば姿を見るのは容易である。母親のモモコさんといることが多いので、モモコさんを見分けられるようになればより早く見つけることができるだろう。
問題は撮影。ゴリラの赤ちゃんは想像以上にすばしっこい上に、ゴリラたちのプライバシーに配慮し?植栽で撮影困難なスペースも多い。限られたスペースの最前列にはいいカメラを持ったおじ(い)さんやおば(あ)さんが常駐している。彼ら彼女らはずっと昔から、いつ行っても屯しゴリラ談義に花を咲かせている。そういう生態の人たちなのだと割り切るしかない。
後ろから手を伸ばしてカメラを出す方法で撮影を狙うのも一案だが、混雑した園内でベストショットが狙えるスペースに居続けるのはそれなりに無神経で居なければならない。
僕は小心者なので1枚良いと思った写真が撮れたらすぐ引っ込んでしまう。
一度周りに遠慮せず思うままにゴリラを撮影してみたい。

短歌を始めた頃、西日暮里の『屋上』が配信していた短歌の企画で山階基さんが出演されていたので、とても印象深い歌人のひとりなのです

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久しぶりに山階基の歌集『風にあたる』を読み返しているが、同棲が視野に入り始めたいま再読する連作「コーポみさき」、いいな

おふたりはなごむ感じでよかったというだめ押しをまともに受ける

生活にわけはないのに共にするときは問われるきっかけなどを

生まれた町の川風のなかこの岸をきみと歩いた気になっている

上野を3時間歩いただけなのにヘトヘトである。過労の慢性化していることを実感する。あすのズーラシアに向けてできるだけ眠る。

night monkey さんがブースト

文学フリマやコミティアなどの大型イベント、近ごろは出店される同人誌が中身からデザインに至るまでしっかりさたものが多く、気軽に作ることに気おくれが生じる面も出てきたと思います。
大勢の中で埋もれないセミプロフェッショナル性が必要になってしまったというか。そうなると、もはや個人がひとりで気軽に完成させられるものではないですよね。
もちろん気軽なコピー本を出しているサークルもありますが……。

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水族館が動物園より強いのも「ちょっとだけ行く」を容認してくれる点だよね。
郊外型の多摩動物公園やズーラシアは1日コースを前提にしていて、生活は後回しにしても良かった20代前半はともかく今はなかなかキツい

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結局今日は午前中いっぱい回復に費やしてしまった(でも家事も進んだ)ので上野。
ちょっとだけ行く、という選択肢が取れるのでやはり上野は強い

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明日は動物園に行くんだ。東武か野毛山かズーラシア。気分で決める。

つらかったけど何とか終わった(終わっていません、が)

昨日調理したコンソメ鶏肉が冷蔵庫にあるので食料には困らない。兵站がちゃんと機能した。睡眠バグったのは大失敗だけど(睡眠時間4時間だと動作性が終わります)

きょう如実に体調が悪く精彩を欠いている

人生のほんの一瞬すれ違い、粗末に付き合い、やがて離れていったひとたちについて 

iminoyamai君の件だけではない。
僕に短歌を教え2021年の秋にこの世を去った詩人・うみのひとへ執着にも近い巨大な感情を今もなお抱き続けてしまったり、僕の人間関係の作り方の履歴を振り返ると、インセルと呼ばれる人々独特のあの「拒絶と未練」がないまぜになったコミュニケーションの取り方とも近しいものがあると警戒している。
今は噛み合っていて、公私とも社会の中で社会をやっているけれど、「私はあいつらとは違う」とは言い切れない。それが怖い。
紀貫之をひとつの理念型とする「ひらがなのをとこ」概念によって私は私自身(=加害する性としての男性性)を解体しようと試みているが、私はいつでもあちら側に行ってしまう可能性があるのだ、というおそれは常に抱いていたい。

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