しかしその一方で、
かかる深夜アニメ的超伝奇ストーリーという、通俗的にも程があるフォーマットに乗せて、別なる射程のアクチュアリティを帯びさせていたことに注目しなければならないでしょう。先に述べたように、この作品では日本の歴史において怨霊とされてきた存在たちを改めて神格化して弔うという体裁を反復してみせることで、日本史の中における歴史的なものの現実性と言うべき何かを、いかにもサブカルっぽい戯画として提示しているわけですが、そこに「靖国神社 二佰四拾六萬余柱」や「日本國中六拾神」という、現在にまで尾を引いている存在たちを俎上に乗せていることに、この作品の大きな賭金があるわけで──前者は言うまでもないですが、後者は「六拾神」=国内にある原発の数ということで2011年の東日本大震災にともなって起きた福島第一原発事故を容易に連想させ、それらを「怨霊」とみなしているわけですね。そして日本の政事=祀り事において「怨霊」とは単に否定されるものごとではなく、怨霊というステータスのもとに天皇制に統合されることになるものごとのことである。
今回は「その壱」ということですから、おそらく「その弐」「その参」……と続くことが予定されているのかもしれませんが、これまで作品の抽象度を高めることに注力してきた感のあるKOSUGI+ANDOが今回は一転して(?)通俗的な物語のフォーマットを批判的にせよ導入したことになるわけで、いかなる形式のもとに日本史の中における歴史的なものの現実性を語っていくのか、さらに注目する必要があるでしょう。31日まで
galerie 16で開催中のKOSUGI+ANDO「捜神譚 その壱・神岡の章『発生器』」展。
1983年の結成以来、大型のミクストメディア系インスタレーション作品を作り続けていることで関西ではつとに有名なKOSUGI+ANDO(小杉美穂子女史+安藤泰彦氏)ですが、今回は数年ぶりの新作となっています。
岐阜県飛騨市神岡町の地下1000m、旧神岡鉱山内に(略)「スーパーカミオカンデ」が設置されている。その巨大な装置のさらに30m地下を通る旧坑に「それ」は祀られていた。1991年の着工の際、安全祈願のために設けられたものなのか、それとも、採掘が始まったと言われる養老年間から既に存在してきたのか、まだはっきりとしたことは分かっていない。その存在については僅か数人の人しか知ることはなく、おまけに口外することは強く誡められていたからである。祟りを怖れてのことなのか、それとも何か別の秘密や目的が隠されているのかは分からないが、関係者から密かに入手したこの一枚の図面だけがその存在を仄めかしている。……というフィクションのもと、今回はその神岡鉱山内の「それ」を復元したという体裁を取った作品が展示されていたわけですが、その「それ」は(京大の近所にある)吉田神社の大元宮と似通っていて、日本の歴史において怨霊とされてきた存在たち(早良親王、菅原道真、崇徳院etc)が祭神として祀られていて…… というストーリーのもとに制作されており、ヲタ的にはなんだこの角川書店がディストリビュートする深夜アニメの第1話テイストの超伝奇ストーリーは!? となるところではありまして
『セクシー田中さん』ドラマ化「必ず漫画に忠実に」条件守られず…原作者が経緯説明、謝罪と感謝も | ORICON NEWS https://www.oricon.co.jp/news/2312208/full/
ひと昔前だったらドラマ化した側が「メディアの違いを理解せよ」と逆ギレできたんでしょうけど、今それをやると火にガソリンぶっかけることになりますし……(ところで「メディアの〜」がキメ台詞だったアニメのタイトルが思い出せないのでした )
京都美術文化賞、北山善夫氏の
展示は1970年代末から現在までの小規模な回顧展といった趣でした。北山氏は1980年代初頭に細い木の枝や針金などを組み合わせた構造体にカラフルな色片をあしらうという、今なおその軽快さが痛快な立体作品によって、(それまでの現代美術界隈において支配的だった)もの派や概念派的な作品群に対して逆張りしてみせることで注目を集め、ほどなくしてヴェネツィア・ビエンナーレの出展作家に選ばれることになるために、1980年代において大きなムーブメントとなる「関西ニューウェーブ」の起源とみなされることもあるというのですが、その直前の作品や、1990年代以降のペン画──近年は自作の(グロテスクな)粘土像をモティーフとすることが多い──などが出ており、こちらも見応え十分。床には小石や化石などを並べたインスタレーションがあり、これは昨年の能登国際芸術祭に出展した作品と同シリーズだそうで、くしくも先日の能登半島の大地震にダイレクトに反応していたのでした
これまで西山女史は
バラの花に限らず、(昔ながらの)少女マンガのキャラやモヤっとした背景、(バラの花と同様にシュガーペーストで作られた)ティアラ、着せ替え人形のハウス、曲線を多用した装飾などといったモティーフを、ときに露悪的なまでに酷使した絵画やオブジェ、インスタレーションを制作してきていますが、それらは女性の身体に対する外部としてあることに注目する必要があるでしょう──というか女性性やジェンダーとはそのような外的な形式のことであり、従ってその外的な形式=表現の位相における関係性を変えることが対自的のみならず即自的な関係性をも変えることにつながるというのが、西山女史の一貫した認識であると言えるのではないでしょうか。してみると今回フィーチャーされていたバラの花もまた、そのような外的な形式のひとつであり、しかもバラの花はその構造上、花びらを剥がしていっても核となるものは何もないわけですから、内的なアイデンティティの不在の比喩としても機能していることになり、西山女史のかような認識がモティーフの選択においてもいかに徹底しているかがわかります。
そしてこの認識やモティーフの選択は、それ自体フェミニズムをめぐるある歴史性のもとになされている。しばしばフェミニズムは1980年代以降「ウーマン・リブ」=第二波フェミニズムに対する批判をも内に含んだ文化-政治的な運動としての第三波フェミニズムへと移行したと言われています。この方面に関しては、2021年に金沢21世紀美術館で開催された「フェミニズムズ」展&「ぎこちない会話への対応策 第三波フェミニズムの視点で」展において、西山女史が現在につながる外的な形式=表現の位相における闘争の先行者として改めて位置づけられていた折に一度論じたことがありますので、そちらを参照されたいのですが( https://jnashutai.hatenadiary.com/entry/2021/11/21/211600 )、いずれにしましても、女性を本質=アイデンティティ(=政治的主体?)に還元してしまうことで悪しき歴史を構造的に反復させてしまっている──よく知られているように、日本におけるウーマン・リブ運動は、そこから出てきた永田洋子(1945〜2011)が連合赤軍事件を起こしたことで、決定的な終焉をみたのでした──現状において、西山女史の活動に改めて向き合うことには依然として大きなアクチュアリティがあると言えるでしょう。28日まで
京都美術文化賞、
昨年は岸映子(1948〜)、北山善夫(1948〜)、西山美なコ(1965〜)の三氏が受賞しましたが、その受賞記念展が京都文化博物館で開催中です。例年通り、会場は受賞者それぞれに一定のスペースがあり、上記三氏の個展+過去の同賞受賞作家の再展示が同時開催されているという趣でした。
さておき、個人的に開催前から大いに注目していたのは西山美なコ女史の展示。1988年に初個展を開催して以来、一貫して現代美術における女性性やジェンダーについて独特な視角から介入するような制作やパフォーマンスを続けている西山女史ですが、今回は彼女が以前から継続的に制作している、シュガーペースト製のバラの造花やそれをもとにした写真・映像作品からなる近作/新作展となっていました。シュガーペースト製のバラの造花は、材料が材料だけに、日本の気候においては湿気を吸って半分溶けてしまうものですが、写真作品や映像作品においてもその様子がフィーチャーされている。そして今回の受賞記念展のために作られた新作では、バラの花のように何枚も重ねられたスクリーンにその様子を撮影した写真のスライドショーが投影されるというものとなっているのでした。かかる具合に、これらの作品によってバラの花が西山女史にとって特権的なモティーフのひとつとなっていることが一見してすぐ感得できるものとなっていたわけですが、しかし彼女の制作の軌跡をもう少し長いスパンで見たとき、かかるモティーフの選択は単なる少女趣味や個人的な好みを超えたところでなされていると言わなければなりません。
「芸術新潮」2月号 特集「会田誠が考える新しい美術の教科書」 美術展ナビ限定のスペシャルインタビューも https://artexhibition.jp/topics/news/20240124-AEJ1824001/
「会田誠が考える新しい美術の教科書」、10年ほど前だったら…… という憾みもなくはないですが、お手並み拝見感はありますね。あとで読む
『【推しの子】』が実写化されるという不穏な情報が駆けめぐってますが、かつて『Wの悲劇』が「『Wの悲劇』を上演することになった劇団の話」に魔改造されて映画化されたひそみに倣って実写化すれば、原作マンガやアニメガチ勢の傷も軽傷で済みますよね #などと意味不明な供述をしており
好事家、インディペンデント鑑賞者。オプリもあるよ♪