『虎の尾を踏む男達』を見て、そんなに面白く見たわけではないのだけど(ようやくなんでもおもしろスイッチがオフにできた、いやよいことだったんだけどテンションが変になって疲れてたのでちょっとほっとした)黒澤明の映画はどうにもクィア・シネマとして読みたくなってしまうね…?の理由がやっと自分の中でつながりました。わたしの和のちょっと危険な男性美みたいなもののイメージの原点が幼少期に触れた伊藤彦造だからなのではないか。まさに安宅だったんだよ。
『クレオの夏休み』は6歳くらいの子がどんなふうに世界を感じているか、限りなく近いところからみせてくれるのがとてもよかった。目と耳と皮膚、感覚をすませてなくても全部を全身で受け止めているのね。
アウェー感もわかっていて、ちゃんと空気も読んでいる。でもいうても、まだ6歳…幼児のわたしは無敵!万能!感からちょっと大きくなってきて「ものがわかりはじめた」とき、その境の年を設定しているのも(もう少し大きくなれば考えてわかっていく、クレオはまだ感じることがわかることと直結している)良いなと思う。すりむいた手をフーフーしてもらうこと。お風呂に入れて耳の後ろまで洗ってもらうこと。触れること、触れられることのよろこびが生きることのよろこび。
どこの国でもどんな家でも、全身を無条件に預けてくる小さな子は誰かにこのくらい愛されて、めいっぱい大好きを蓄えながら育っていってほしいという祈りにも似た優しさは、こどもさんの感じる力を信じているからこそだと思った。言葉にならなさがアニメーションで描かれているのも、こどもさんのお話にはこういう表現もあるんだなあと。
フランスのヌヌ文化はその背景に植民地主義から生まれた資本格差があって…というところまで丁寧に掬い上げながら、だからこそどこまでも優しい愛の尊さも光っていた。
ツイスターズ見てもフォールガイ見ても(どっちも楽しく見たよ!)アメリカ映画がアメリカ映画らしさを自問自答してる感じを受けたわけだが、「結局ウチらが好きなのはいろいろなものが景気よく吹っ飛ぶロマコメなのでは…」という感覚なのであれば興味深い
モンキーマン当地でもやるの嬉しいんだがシネコンの大きいスクリーンで見たいやつだったのも事実….でも嬉しい。行けたらいいな。最近予定が読めんのよ。
デヴ・パテルは(残念ながら今の映画界ではまだ決して多くない)ルーツにかかわりなく古典から現代劇まで主演級の役をできるポジションにある俳優さんだと思うんだけど(これくらいトークンにされない、特に「意味」を問われない人って英国組ではベネディクト・ウォン以来?と思う。ウォンさんは脇が多いけど昔から良いポジションなんだよね)同居人氏にその話をしたら「普通さ」があるからなのでは、と言っていた。たぶんこの「普通さ」って落ち込んだり怒ったりもするし時に何考えてるかわかんないけど「やさしい」が根底にある雰囲気からくるのかなーと思う(モンキーマンはそういうレベルでもなさそうだが)
もちろんハンサムでお芝居上手な人だからというのもあると思うけど、得難い個性だよね。エブリマン性。
昨日見た『サマー・オブ・ソウル(あるいは、革命がテレビ放映されなかった時)』、音楽史的に貴重な資料であることはもちろんなのだけど、社会的な背景にもステージにもインタビューにも偏りすぎない編集のバランス感覚のよさがいいなーと思った。結果「みんなでこの美しい時間をつくった」ことの喜びと誇りとレガシー大事にしようぜー!いうのが伝わってくるのね。米国のこういうとこの「みんな」でやってこそ自由になれるんよマインドの強さやっぱりすごいよなーと思う。
「青い目のソウルブラザー」として共和党だけどリベラルな市長を招き入れて一緒に行動する政治的なタフさ、プエルトリカンにとっても重要なレプリゼンテーションの場であったこと(ニューヨークにおいてプエルトリカンコミュニティが「最下層」認識されている感覚は有吉佐和子先生の『非色』や『ぷえるとりこ日記』にも出てきた)。あとごくわずかなんだけど「白人」っぽい風貌(アイデンティティの断定はできないから注意したい)の参加者がいること。
フィフス・ディメンションのアクエリアスとスライ&ザ・ファミリー・ストーンのエブリデイピープルにやたら胸を打たれてしまったのって結局そこなんだよな。どうやったって世界は変わる 愛し合えなくてもみんなで一緒に生きていく それがアメリカってこと みたいな
@spnminaco しっくりこないときは何見ても「おもしろかったけど、なんとなく作品に距離を感じる」みたいになっちゃうので心身の状態としっくりハマる映画の揃うとこまで、のんびり待つ必要あるな…と思いましたねー。コット、本当に良かったですよね。夏なのに涼しそうだったし…
ちょっとずつ映画のカンを戻せてる感じがしてて、やはり「よき…」となるものに出会えるとスイッチ切り替わりますね。先週のコットから何見ても楽しめるモード
ツイスターズ楽しかったよー。大雑把には大雑把の美学があるのを足腰がしっかりしたやたら(インディ的に)豪華なキャストとスタッフがちゃんとやってるのがわかる感じ。ストーリーにかなりの比重でロマコメ(未満だが)の要素入ってるし。なんせアンソニー・ラモスとグレン・パウエルだからね、嬉しい。あと音楽でも明確に示したけど、これもカントリー・リバイバルと同じ流れにあるのよね。だからいろんな人種のいろんな世代のチームになる。
とても楽しかったー!の前提で。ディザスターの見せ場と見せ場の繋ぎにはロマコメ(未満だが)パートほど丁寧さがないのはやや残念。「今年の竜巻の規模と出没エリアと規模が例年より全然読めない」とかで軽い台詞でも触れておけば唐突感減った気がするんだがなー 竜巻さんが話に都合よく追ってきてくれちゃう感が
あとデイジー・エドガー=ジョーンズの無色透明美少女性はやたら濃い面子のなかでちょっと損してる気がしたかな。侮られる若い娘としてのキャスティングはわからんでもないが、もう少し強めでチャキチャキ感あるほうが過去と現在のギャップが出せたような…とはいえ1人ぐらい濃くない人をメインに置かないと胃もたれするか。なんせアンソニー・ラモスとグレン・パウエルがいてブランドン・ペレアやサッシャ・レインまでいる画面、強すぎ
『このろくでもない世界で』はみゃーさんが絶賛してたので見に行ったんだけど、本当に懐かしかった。1996-2000年くらいの繊細で暴力的な犯罪映画(近い印象なのは日本黒社会 LEY LINESかなー、というところでやるせなさの感じがわかると思う)と比較してみれば性暴力や児童虐待は露骨じゃないし、世紀末の邦画はもっと厭世的だったと思うんだが、それでもヤクザ者が「近い」場所で育ったハグレ少年の逃れられなさとか飛び級的に気に入られる弟分に対して明確に嫉妬する先輩とかもだけど、センチメントの形や切実さの捉え方が似ているのだ。
捌かれるまな板の上の魚。そのアラ煮(おいしそうなんだあれ)を手づかみで食べる。魚の食べ方で目をつけられる。やがて釣人と釣り針のエピソードへ。と魚の使い方がよかったな。裁かれるではなく捌かれる日がくるまでまだ死んでないだけ。
ソン・ジュンギがこの役をやるにはやや整った風貌すぎる(&幼く見える瞬間があるけど実年齢は30代後半)なのも「劇映画」にする上では効果的だったのではないだろうか。と思ったら18歳設定のヨンギュ役だったホン・サビンも今27歳なのか。義妹のキム・ヒョンソ(生身の人間として描かれた妹像、とてもよかった。「行け」の言い方素晴らしい)も、そのひとつ下くらい!へー!皆さん若々しい
勝手がわからない