『夜明けのすべて』はファーストシーン、雨の路上、バス停にリクルートスーツの女の子がひとり座って、バスに乗り込むこともなく、後ろを向いて座り込んでいる。饒舌すぎるほど饒舌なモノローグ中、顔の表情はほぼ映らない。ただ、そこには背中の表情がある。誰も寄せ付けない。投げないの、という警察の人の言葉が胸をさす。そうしたいわけじゃない、でもそうせずにいられない心身が痛いほどに伝わっているから。もうこの時点で「ああ、信頼されてるな」と思った。映画に信頼されているのは心地いい。
モノローグからダイアローグへ、やがて周りに語りかける声へ、そしてふたたびモノローグへ。優れた脚本構成に見事な音設計と画面の設計が乗って、信頼メーター上昇が加速する。まあこれもゴースト映画だしね!(またなんでもゴーストっていう)
前にも書いたことあるけど、わたしはやさしさとは「よくみる力」に裏付けられるものだと思っていて、この映画の人たちはみんな見る/知ることに救われてるとこがいいなあと思った。この映画の言葉少なな見守りあいと私の「やさしさ」の解釈が一致した、気がする。
藤沢さんのそうしたやさしさがある種のずうずうしさによって行動に紐付けられるのも誠実だと思った。線路沿いでみかんを食べながら歩く女子だからできることがあるよなー。
『夜明けのすべて』よかった。映画は光と影でできている。
メロディを美しいと思ってるのかわからないけど規則性が美しいと思うほうなのでこのへんになるかな https://www.youtube.com/watch?feature=shared&v=NPpRJoYISSQ
「ジャヌスとサムの酔っ払い道中」これNetflix映画だったんですね。と考えればこのくらいのどうでもよさでいいのかな…と思いつつ、2000年代かよという気持ちになってしまった。音楽も演出も今の時代にアリなんかねこれ。いや時代が一周しただけか?と中年っぽいことを思った。唯一今っぽかったのは「同意した?」天丼であそこは悪くなかったかな。
やっぱりナポレオンダイナマイト(好き)やスーパーパッド(好きではない)が今は作りにくい映画であることを強く感じた、のでフランスの田舎舞台でそういうのを見られるおかしさはある。でもなあ、アルコール依存はネタにすることじゃないよ…が前にきてしまうんだよ…好きな子の都合よさとかフォローなく投げっぱなして良い話っぽくしてることも気になるが、何よりこういうオフビートはド天然でやるよほどうまくないと見てられないのだよなあと。あざといロバ使い、しゃべらない弟の面白くなさには辟易。この種のコメディは誰もが撮れそうでいちばん難しいので舐めないでほしい。
と文句ばかり言っちゃうけど、別にそんな悪い映画でもないんだと思う。少なくともあの当時は男女の親友コンビでこういう映画は出てきにくかったわけでね。前には進んでいる。
『ビヨンド・ユートピア 脱北』は力作ではあるけど「いかにひどいか」の西欧への伝達、にとどまってしまってる気がした。スタッフには韓国の人たちもかなり関わってると思うんだけど……知らない人向け解説が多くてこれは「前提共有」の資料だよなあと。アメリカの映画である以上「資本主義陣営」が何をやってきたかを含めて我がこととしての切り結び方……そこまで望めずとも牧師さん密着に徹したものを見たかった気がする。
とはいえ実際の様子を密着ドキュメンタリーとして見せる点でやはりすごい。そもそもブローカーには一般ルートで売れない家族だから繋がれた、というのがもうなあ…(撮影クルーが一緒にいけないときはブローカーが撮る≒結局はこの映画が作れるような資本力…ということはソフトではあるが伝えられる範囲で伝えられていると思う)
そういう「よく撮ったな…」がきちんと撮れてるのと「いうても故郷なんだよ…」を残す余韻はよかった。過酷すぎる状況も断絶された社会ではユートピアと信じられていて、脱出する人たちも別にその地域を出たいと思っているわけではないが「身の危険からそうせざるをえなくなって」なのだ、ということをきちんと伝えてある。
でもここまで解説が必要なんだ…?ってことをどうしても思う。まあ、近い場所の話ってそうなんだよな…
myFFF『スペアキー』も良作で、感情を表に出さないタイプの15歳が他者を知り自分になる一歩の話としてそこまで大人ぶることだったり恋愛や性に比重が置かれてないとこがよかったな。全然ないわけではないあたりがそういうもんだよね、と。
主人公、年齢よりしっかりした子(であることを求められてきたから、と考えるとせつない)ではあるけど、ときどき年齢なりのこどもー!なとこが見えるので、それはそれでヒヤヒヤが増す。チャップリン映画にケラケラ笑い、プールからあがらない。
移動するとき(自転車のシーンの「このときはひとり」感がとてもいい)以外は画面内に存在する音楽以外をなるべく廃してたと思うんだけど、ストイックにはなりすぎてなくて、そのバランス感覚もよかったと思う。母親の描き方がダメな人一辺倒にはなってないのにも好感。まあダメではあるけど。そういうもんだよね(2回目)
家族がワチャワチャしてるのでいつも小間使いみたいな扱いをされてるが、別に家族が嫌いなのではなく、ひとりになれないストレスが…を一言も他人に打ち明けない、咥え煙草の15歳のハードボイルド。自分ひとりの部屋はなくても、ラストにはもう「わたしは1人であること」をわかって立っている、という構図も良かった。
「遠い声、静かな暮し」良かったな。良かったけどU-NEXTで見るとVHSっぽかったので(綺麗になってこれなのかもしれないが)小さい画面で見たほうがよかったかな…
とはいうものの、そんなにバキバキである必要はない、むしろそのガビガビっとしたところも断片で綴る「彼らはそこにいた」映画として気持ちが引き寄せられた理由になるかもしれない。擦り切れて折り目のついた色褪せた写真みたいな感覚で。
幸福な時間なんてほとんどない、暴力的な父と耐える母の間に育った3人のこどもたちの「父がいたとき」「いなくなってから」(タイトルの出し方すごく良かった)話が淡々と語られる、本当にそれだけなんだけど(この映画の女に威張り散らかす男たちは割と旧作邦画の男たちと似てるとこがあるのね、時代も40-50年代が舞台で私がよく見る映画の時代と近いしね)私たちはこうして生きてきた、が時系列バラバラに動いていくのが見事な移動撮影で「建物の記憶」として映されているのがとてもよく。人が映ってない声だけのシーンほど胸打たれるの。何を見ても何かを思い出す。
みんな何かと歌いまくるのはもちろん物語の進行上でもあるんだけど、実際そうだったんだろうなあ、という感覚がある。みんなそうやって生きてきた。
アイアンクローはショーンダーキンなのでまあ間違いなかろうという安心感があります この短編みたときはこんな怖いのよう撮るな…って震えた https://vimeo.com/87582861
勝手がわからない