🎄明日はクリスマス🎄
クリスマス商戦で忘れられがちな「何かを待ちのぞむ」という、福音書にあるクリスマス像を書きました。
天には栄光、地には平和、Fediverseの羊飼いたちには平安と喜びがあるように!
QT: https://fedibird.com/@utan/113642343540852415 [参照]
メンヘラおせっせ沼から抜け出す方法を伝授しよう
・朝起きて夜寝る生活をする
・良い友だちを作る
・できれば良いパートナーもつくる
・適度に運動する
これじゃ(オーキド
通報フォームを通して鯖管に「いつもモデレーションありがとうございます。今年もお世話になりました。」って伝えてくるユーザー
Xが明らかにしたことは「不特定多数に開かれた議論の場では議論が成立せず戦争が起こる」と言うことだと思っている。
いわゆる「学級会議」のような全員参加型(不特定多数に開かれた場)では、思考のロジックより数や暴力や金銭のほうが強くなりがち。
議論や学びというのは非常に繊細なので、ある程度の限定と排除をどうしても必要とするというのが持論。
必要な限定や排除がない場は、暴力を惹起しやすい。
Fediverseの全羊たちよ、主の声を聞きなさい。そして脱ぐのです。
私がいわゆる「自己啓発」などに批判的な態度をとっているのは、どうもあのやり方はこの比喩における直線の農業用水路を強化し、素早く大量の水を短時間で流そうとするやり方に見えて仕方ないから。
精神的に強い人にはいいけど、私のようなメンがヘラりやすい人があれに手を出すと、危険すぎる。私の場合は直線水路を目指すと、すぐ暴力的になりやすく、死にやすくなる。
小説や絵画や思想や高等数学や文学や生物学などにシンパシーを感じるのは、思考や概念の流れをより複雑かつ着実かつゆっくりにしてくれるから。すぐ結果出ないこともわかるし(基礎研究大事)。
ノキさんのアドカレ記事の論旨とは違う視点においても、古典などを学ぶ意義を私も擁護している。
精神的な領域において、そういった複雑な豊かさがないと思考が荒び、メンタルの危機が起きやすくなり、社会も荒れると思っているから。
QT: https://fedibird.com/@utan/113655047961463376 [参照]
「首尾一貫性」に関して
人のメンタル関係のことを扱おうとする人にいつも説明することがある。いい機会なのでこちらでも共有。
まず二つのイメージを思い浮かべてもらう。一つは山の中の高低や湾曲などで複雑に流れる渓流。
もう一つはコンクリート舗装された直線の農業用水路。
人間の精神にもエネルギーがあって、過去から現在、現在から未来へ流れていると想定してしてもらう。
あなたが自分自身や相手のメンタルの状態の「良い」状態であるとするのは、複雑な流れや淀みがあり流れるのに時間がかかる渓流か、直線で淀みなく素早く流れる農業用水路か、どちらですか?と問う。
そこそこの人が直線の用水路が「良い」状態だと答える。
ここで「直線の用水路のような精神状態だと、その人が希死念慮をいだいた時、直線の最短距離で自殺既遂となりませんか?」と問う。
ここで「うっ」っとなってくれれば、私の伝えたいことは伝わったということ。
ある時は抑うつがあり、ある時は首尾一貫性がなく、ある時はいいかげんで、ある時はがんばり、ある時はゆったりとサボれるような、複雑さのある精神状態を周囲はサポートするべきであり、直線の流れにその人がはいったら警戒すべきだ、ということ。
変な首尾一貫性なんてないほうがよく、矛盾を受け入れられる柔軟性が大事だということだ
(承前)
マタイとルカの系図の違いについて、田川建三の解説を引用します。
「ここには、アダムは神の子であり、従ってアダムの子孫である全人類は神の子なのだ、という理念が表白されている。まさにストア派的な、人間は神から生まれた『神の一族』である(使徒行伝)十七・二八)。……まさにこの点がルカの系図とマタイの系図(アブラハムからはじめて、イエスを生粋のユダヤ人として描こうとしている)との根本的な相違なのである。」
『新約聖書 訳と註 2上 ルカ福音書 174頁』
ここらへんのおおらかさが、私がルカのほうを好きな理由ですね(マタイが好きな人、ごめんね)。
救いはユダヤ民族に限定されないのです。
事務職をしながら本を読んだりオンライン読書会を開催したり
大学時代の専攻は哲学。
現在の関心は多元論や宗教思想における他律/自律概念、ウィリアム・ジェイムズのプラグマティズムなど。
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