差別主義者って何も知らないんじゃなくて、間違った知識で頭の中を満たしてて、それで満足してるんですよね。
で、その間違った認識から醸成される色眼鏡で物事を見るから、偏ったフィードバックをインプットして、その間違った知識を強化する。
それをグルグル続けてるもんだから、その偏見が"私の意見"となり、"私だけの意見"となり、ついには"私"そのものになる。
だからその間違った認識をいつまでも正せない。
間違った認識こそが自分だから、それがなくなれば自分が無くなってしまう、と恐れてる。
アップデートはするけれど、それは常に自分の心地よい情報を提供するwillやhanada、そのほかクソ極右youtubeチャンネルやSNSアカウントからだったりするので、更に更に偏見を強化してゆく。
極右じゃない普通の日本人でも、テレビはそういう偏見強化装置になってるから、程度はマイルドであれ、ほぼ同じことが起こる。
だから暇空とかああいうスカムに簡単に持ってゆかれる。
自民公明維新とかのもっとシットなスカムに持ってゆかれるのも同じロジックかなと。
関連して思い出した私の好きなエピソードがありまして。
記憶が曖昧であれなんですけど。
明治か大正のころ、鎌倉かどこかの、禅宗かどこかの寺に立ち寄ったキリスト教の宣教師が「仏教とはなんぞや」と質問したと。
これこれこういうもので、と説明すると、宣教師は「いやそれは違う。それは間違っている」と批判ばかりする。
そこで住職は「とりあえずお茶にしましょう」と、お盆に急須と湯呑を持ってくる。
茶は湯呑になみなみと注がれるが、住職はそのまま注ぎ続け、ついには湯呑から溢れてしまう。
宣教師が驚いて「何をしているんですか」と問うと、「これがあなたです。私に教わりに来たのに、あなたは既に注がれたお茶で満たされている」と言うと、宣教師も理解した、というエピソード。
って書きながら思い出したんですけど、ウヨっぽい道にハマった友人にこのエピソードを話したことがあって。
そのレスポンスが「左翼のお前がまず偏見を捨てろよ」的なアレだったな、というオチ。