結局は、”自分は差別をする主体である”という自覚が必要なのかどうかだよな、と。

日本に住む人が呪いのように馴染んでしまっている”社会はいい人を望んでおり、私はいい人である”という文化は、日本だけでなく、例えばミャンマーで出会ったヨーロッパ人もそういう傾向はあったなと。
で、”私はいい人”というフレームの中では差別する人というのは悪い人なので、自分の中のそういう側面をまるっと無視する、向き合わない、という事をするんだよなと。

これは日本の皆さんを観察していて気付いたことですが、私の中にもそういう側面は普通にあって。
ただそういうのも、視界には入っていたものの、向き合う必要もないかと無意識的に意識に登らせないようにしていたというか。
そういうものに仏教修行したりして向き合わざるを得なくなって、気付いたりもするものの、今までの習慣は恐ろしいもので、気が付けば自分はいい人であり、悪い事をするはずがない、というトラップに自ら陥っているというか。

だから、意図的に自分を啓蒙する必要があるわけですね。
毎日垢は出るのだから。

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色々と内省してるところなんですが。
まず初めにぶっちゃけると、私の中に性的マイノリティに対する偏見の芽があるかないかでいうと、あります。
ありました。
コレジャナイ感があったのです。
更にいうと、これは私の中の
「心が落ち着いていたいのに、私の環境は既に落ち着ける環境ではない。そこに更に他人の心配までして心に波風を立たせたくない」
という、ケチな心から発してるものなのかなと。

だから俺は差別していい、みたいな話をしたいのではなく。
差別してはいけないし、差別したくないので、その芽がどのように生まれて大きくなってゆくのか、そのプロセスを明らかにしてみたいと。
間違ってるかもしれませんが、そういう心の機序があるのだなと理解することで、対処できるものがあるのかと。
現代心理学的には、例えば心理的ホメオスタシスとかで理論付けできるかと思いますが。
ちょっと独自の路線でいきます。

まずは道理や真理を知らないが故に誤解があり、その誤解のもとに欲求が生まれ、それが満たされないと「これじゃない」と思う。
そしてそのコレジャナイ感が増大することで怒りになる。
という心理メカニズムを我々が持っていると仮定して話をしていきます。 [参照]

とはいえまだ整理しきれてないので、頭の中のいろんなのを出していきます。
なので行ったり来たりします。

まずは一般論として。
ニュージーランドで同性婚が可決する際、ウィリアムソン議員が行った有名なスピーチで、「(法案が成立しても)明日も太陽は昇る。あなたの十代の娘は何でも分かっているように口答えするだろう。あなたの住宅ローンは増えない。世界はそのまま続いていく。だから大ごとにしないで」と指摘したのは、普遍的な心理的ホメオスタシスへの不安を見事に表現したものだなと。

実際には不可視化してただけなのに、いざ同性婚などが議論の俎上に上がると、いかにも「性的マイノリティという”異物”が我々性的マジョリティを侵襲してくる」みたいな強迫観念を抱いたりするわけで。
これは”気にしなくても良かったものを気にしなければならなくなった”という心理的負荷をどうにか追い出そう、という心の働きなのかと。

いままで知らなくてもよかった関東大震災の虐殺問題が俎上に上がると徹底的に無視したり拒絶するのも、同様な心理的機序が働いているのかと。

世の中にはいろいろなタイプの人がいるので。
根本的には、マイノリティが脅威だと思う事自体が妄想なのですが。
「あなたは脅威ですけど、私は大丈夫ですよ」
みたいな歪んだ受け入れのしかたをしている人を時折見かけるのですが、そりゃ違うだろうと。

なんというか、知らないままで過ごせるならば、”ignorant is bliss” という言葉もあるくらいですから、それはそれでそういう人にはいいのかもしれません。
私はイヤですが。

さらには、為政者がこの無知と偏見による恒常性の維持を利用する、というのも大問題だなと。
「トランス女性がトイレを、風呂を」というのは「外国人が犯罪を」とか「障碍者や高齢者が社会補助を」とかと同じく、為政者が自分たちの権力を維持するために引き起こす分断統治の一環なんでしょうね、という。

理想的な社会では、個々人の心理的恒常性を求めるという、人間として生まれてしまった限り持っていて当たり前の、良くも悪くもないものながら、容易に偏見の芽になりうるものに対して、「これは扱いに注意が必要なんですよ、容易に悪意の人から利用されやすいものなんですよ」という教育を施さなければならないと思うんですが。

残念ながら我々の生きる世界というのは、こういうものを利用して分断を生み、自分たちに利するように使っている残念な社会なのだなと。

だからこそ、己を知り、環境を知る必要があるのかな、という。

さて、気にしなくても良かった時には快適に過ごせていたマジョリティがマイノリティの声を知ってしまったときの感情は、ちょうど五月のハエのように感じるのでしょう。
不快だ、と。

しかし”良い人”であるはずの私が他人のプロテストの声を聴いて煩わしくなるのは認知的不協和を起こす原因になり。
結果、”私”に問題があるのに、”声を挙げているマイノリティ”に問題がある、という投影をするのでしょう。

「問題は私にあるのではない。あいつだ」と。

私はここで他人を観察して非難することで溜飲を下げたいのではなく。
こういう心理的機序がわたしの中で働いているかどうか、常に気を付けなければならないのだなと。

とはいえ、こういう事は訓練が必要ですし。
更には面倒なプロセスなので、自分に時間や精神的な余裕がなければできるものでもないですし。

だからこそ、社会というものが誰にとっても余裕のあるものである必要があるのかなと。

地獄の窯の底でペックナンバーよろしく突きあって、そのうち力の強いもの弱いものの序列が生まれ、弱いものがなんの救済もなく死んでいく。
残念ながら、ここはそういう社会なので。
ちょっとマシかもしれませんが。

しかしそれには、個々人の加担というものがなければ成り立たないので。
少なくとも”私は加担しない”、できれば”私は反対する”というスタンスを、私はとりたいなと。
そのためにも自覚が必要なのかなと。

そして、一定の人々が”加担しない”、”反対する”というスタンスを取ることができれば、ドブのような社会でも少しはマシになるのかなと。
そして社会も変えることができれば、どうなるだろう、と。

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