自分でもうんざりするほど繰り返してますけど、戦時中の差別の主体例すら他国に求めてしまう親愛なる普通の日本人のみなさん、伊丹万作の"戦争責任の問題"くらいは最低限100回くらいは読んでみられることをオススメします。
https://www.aozora.gr.jp/cards/000231/files/43873_23111.html
以前紹介した際には、反差別で一家言然な方が誇らしげに読んでないと宣っていて驚きましたが。
日本人だからそんなことは読まずともわかってる、と仰りたかったんでしょうかね。
だから同じ過ちを何度も何度も繰り返すんだよ。
いい加減学べ。
結局は、”自分は差別をする主体である”という自覚が必要なのかどうかだよな、と。
日本に住む人が呪いのように馴染んでしまっている”社会はいい人を望んでおり、私はいい人である”という文化は、日本だけでなく、例えばミャンマーで出会ったヨーロッパ人もそういう傾向はあったなと。
で、”私はいい人”というフレームの中では差別する人というのは悪い人なので、自分の中のそういう側面をまるっと無視する、向き合わない、という事をするんだよなと。
これは日本の皆さんを観察していて気付いたことですが、私の中にもそういう側面は普通にあって。
ただそういうのも、視界には入っていたものの、向き合う必要もないかと無意識的に意識に登らせないようにしていたというか。
そういうものに仏教修行したりして向き合わざるを得なくなって、気付いたりもするものの、今までの習慣は恐ろしいもので、気が付けば自分はいい人であり、悪い事をするはずがない、というトラップに自ら陥っているというか。
だから、意図的に自分を啓蒙する必要があるわけですね。
毎日垢は出るのだから。
https://fedibird.com/@upasampada/110709124896337249
そういった意味で、リンクの文はそういう”私は差別する主体である”という自覚を日本の皆さんも持ってくださいね、という文面なんですけど。
何度も書いてますけど、私も別に誰もかれも無差別にケンカ売りたいわけではなく。
たとえば最近はアウトドアで飲み水を得るのに、携帯浄水器みたいなのがあるようで。
ただ、あんまりひどい状態、泥水とかだと、まずは泥と上澄みを分離する必要があるようで。
そうしないと浄水器がすぐ目詰まりしちゃうから。
それと同じように、ネトウヨとかは泥みたいなもんで、それはそれでカウンターしてかなきゃいけないわけですが。
一間キレイな上澄みに見えても、顕微鏡で覗いてみれば微生物や有害物質が混ざってるわけで、そのまま飲めば有害なわけですよ。
何が言いたいのかというと、差別の主体を自分や自分の属性ではなく他者化した何かに投影するのは、結局は差別の再生産に加担してる事になるんじゃないですかね、頑張りましょうね、という事です。 [参照]