まさにこれは、ケイン樹里安さんが仰っていたマジョリティの特権性なのだと思います。
https://note.com/julinote/n/n1e83b80755cc
”マジョリティとは、気付かずにいられる人/気にしないでいられる人”
数日待ってみましたが、やはりというかなんというか、訂正も追記もないようですね。
”マジョリティとは、気付かずにいられる人/気にしないでいられる人”という事はどういうことか、を身をもって教えてくれている奇特な方々がいらっしゃったので、張っておきます。
どうぞご査収ください。
一般論として、マイノリティというのは、お行儀を良くしていないと折角できたallyが逃げていってしまうのではないか、という怯え、というか、不安が常に付きまとうものではないでしょうか。
まあ私なんかはエスニックマイノリティとはいえ、ほぼほぼマジョリティかのように擬態する事もできなくもないので、もっと辛い立場に置かれている方々と比べるべくもないかもしれませんが。
一番上のTootは、そういうally、もしくはally to beに向けての一般化したプロテストのつもりだったのですが、それを自分に向けての攻撃だと受け取った方々がいたのが興味深い現象でした。
ヘイトスピーチではない限り、言論の自由は担保されていると思います。
が、こちらから見れば、あのような遠くから石を投げてくるような行為は、正直ネトウヨと変わりません。
今朝になって、Allyを失うのではないか、という恐怖感があったのをはっきりと認識したためウダウダ書いているのですが。
こちらが言いたいことを言って失うようなallyのようなものであれば、それは最初から私のallyではなかったということではないかと。
つまり、私は私として既に存在するのであり、私の存在を条件付けで認める人々は、私のallyではない、と。
周囲の顔色すら伺う必要はないんだと。
一連のTootは、ピンと来ない人々には雑音にしか映らないでしょうが、46のオッサンが子供の頃から感じてきた生き辛さを言語化しているプロセスでもあります。
私としては結構大事な事を書いたつもりですが、どうなんでしょう、自分でも一度落ち着いてリフレクトしてみる必要があると思います。
いずれにせよ、今後ネトウヨも更に多く流入してくるでしょうし、そうなるとこのように思いの丈を気軽に排泄することもできなくなるでしょうから、その前に言いたいこと言っといた、という程度のものです。
引っかかってしまった人は、とりあえず書いていないことを曲解せず、反論したくなったらまずケイン樹里安さんの"マジョリティとは"のエントリを100回読んで、私の書いてることも読んで、考えて、それでも言いたいことがあるのならばどうぞ直接私に書いてください。
それでは皆さん、よい一日を。
ど真ん中のヘイトスピーチならわかりやすいのですが、ハラスメントやマイクロアグレッションになるとどんどん可視化するのも難しくなりますからね。
それに連帯する、というのもどんどん難しくなるのだろうな、というのも理解はできます。
まあでもそういう”お行儀のいい”態度で”いつかいい世の中になるといいな”とかやってるといつまでも良くならないので、負担を強いられながらも声を挙げざるを得ないのですよね。
ツイッターという空間では難しそうだった連携も、マストドンでは少し期待できるのかな、と思った面もあったのですが、残念ながらどのような仮想空間であれ、この日本語圏の同調圧力というか、見て見ぬふりの文化というか、そういう呪縛からは逃れられないようですね。
”条件付けて受け入れてやるというようなAllyならばいらない”とは言ったものの、この不親切な文化圏ではそれを言っていたらallyなど永遠に得られないのかもしれません。
まあ、それはそれで、日本という文化圏は不親切、不寛容がデフォルトであると喧伝しているわけで…
そうなるとマイノリティは滅びるか同化を強いられるかの二択になってしまうわけですが、まあこんなところに来てしまったわが身の不運を嘆くほかないですね。
私はまあいいのですが、ほかの不運な人々が気の毒だなと。
ぶっちゃけいうと、日本のプログレッシブには期待していません。
私は、この日本語の文を、日本語を理解するあなたに、届けと書いているわけです。
控えめですが、性質としては剥き出しの刃物だという自覚があります。
「で、これを見たお前はどうすんのよ?」
ということを突きつけているわけです。
時間のかかることでしょう。
あなたがこの一連のTootを見たことが、数年後にフラッシュバックするかもしれません。
臨終の間際に思い出すかもしれません。
そして多くの人々には、刺さりも響きもせず雑音として消え去ってゆくことでしょう。
また本当に正直にいうと、響いたけれど何も行動しないあなたを軽蔑してもいます。
まあでも、時間のかかることでしょう。
期待はしていませんが。
私の行為は監獄の壁に私の名前を彫っているようなものだと思っています。
自分の生爪で、血を滲ませながら。
まあ、重いですよね。
見たくないでしょう。
理解します。
でも軽蔑します。
同時に、それでも、あなたが幸せであるようにと、望んでもいます。
カウチポテトしながら「あー痩せたい」と願っても無理なように、あなたが世界に変わってほしければあなたが変えなければならないのですが、まあ通じないでしょう。
方法を知り、いつかは幸せになってください。
@upasampada マイノリティという立場を選べるものとお考えなんですかね…。くしくも私はここで自分がマイノリティであることを再確認しましたが。
@ruriazami
選べませんよね。
誰しもある種のマイノリティ性とマジョリティ性を有していると思うのです。
私としては自分のマイノリティ性を自覚することにより、他人のマイノリティ性に共感し連携していければと思うんですが。
まあ、何なんでしょうねえ。
いろんな人がいますねえ。
@upasampada 自分がマジョリティである事を認めたくない人、マジョリティありながらマイノリティ側に立とうとする自分が好きな人、実生活でもたくさん居ますね。
先程自分でもtootしましたが、やらかしてしまった時に素直にそれを認めて考え直せるかどうか?が大事なのではないかと。
日頃モヤモヤと思っていた事を的確に言語化してくださって、ありがとうございます。
@110 孔子も論語で「過ちて改めざる是を過ちと謂う」と残し、これが金言になっているわけですが。
まあでもこれ、自分が間違えた場合、確かに容易ではないから金言になってるわけですよね。
他人のフリ見て我がフリ直せというか、自戒として受け止めたいなあと。
@upasampada 「自戒として」
本当にその通りなんですよね!
「自分が攻撃されたと感じる=自分の言動を振り返るべし」と思うし、自分も聖人君子とは到底言えないので、今現在の自分はどうなんだ?と客観視する視点を常に根っこに持っていないと…と思います。
@110 客観視大事ですね。
我々は鏡を持ってないので、大変ですよね。
自分が嘲笑してた人間が気が付いてみれば自分の鏡像だった、なんてことはザラに起こりますし。
ということで本来ならば他人様を批判したくはないんです。
諸刃の剣どころか、自分を容易に切り刻めるわけですからね。
@upasampada 首が折れそうな程に頷いております。
「自分はこう思う」を批判と受け取られてしまう事があるように、自分もそうなってしまう時がある(自覚済み)。
だからこそカッと感情的に書き殴ったり言葉を発するのではなく、出来るだけ伝わるように言葉を使いたいですし、願わくば相手もそうであって欲しいと思います。
それが対話でコミュニケーションだし、言葉の真っ当な使い方じゃないだろうか?と。
@110 話の通じないネトウヨならこんな面倒くさい事しないんですけどね。
ブロックして終わりです。
しかし今回、私は誰もブロックしていないのですが、誰からも何の便りもなく。
少しは話の通じる方々かな、という淡い期待があったのですが。
コミュニケーション、難しいですね。
まあ、私は教師でもカウンセラーでもありませんし。
縁がなかったというところでしょうか。
@upasampada 「マストドンでは対話を大事にしたい」と仰っていた方々が極めてTwitter的な(直接やり取りをせず、物陰から観察、揶揄するような)やり取りをされているのが、個人的には非常に興味深かったです。
「時差や距離を超えて対話できる」事がSNSの良さである筈なのに、それを使わないのは勿体無いし、何よりご自身が対話を拒んでいるのでは…?とも。
考え方が違ったり誤解があったりしても、それを紐解いて行こうとする事=対話なんじゃないのかな?と。
自分の考え方や意見を如何に相手に伝わるように言語化する事、先ず相手の意見を真っ直ぐ聞く事、どちらも凄くいい勉強だと思うし、何よりこんなに丁寧な返信を下さる方なのに、凄く勿体無いと感じます。
人間関係=ベン図だと私は思っているので、重なり合う部分がある者同士、もっとシンプルに向き合えるといいのになぁ…。
@110 仰る通りかと思います。
また勿体ないお言葉ありがとうございます。
なんでしょうね。
よく右翼はファシズム的に結束できるけど、左翼は個々の主張が強い上に信義もそれぞれなので仲間割れしやすい、という話がありますが。
私も上の方で”そんなallyはいらない”といったものの、やはりゆるい連携は必要だと思うのですよね。
なんなんでしょう。
ネトウヨ的な知性を否定する存在とは相対する方々で、少なくとも基礎的な素養はある方々だと思ってはいますが、向こうは向こうで譲れない個々の事情があるのかもしれません。
流石にそこまで汲むことはできないので、まあ、しょうがないのですかね。
こういう問題の際いつも思うのは、この写真の中に自分がいたとすれば、さてどこにいるのだろうかと。
さてもし傍観者だとしたら、もうこれは加害者に他ならないのではないか、と。