(Twitter上で、誰か何かが"宗教右派"という語句の言葉狩りをしているみたいな印象操作として機能してる投稿があるな…。と思っての投稿です。)
少なくとも私は"宗教右派"という言葉だけをとってダメだと言っているわけではなくて、文脈を考慮して、問題のある言説について指摘してる。
本当にその文脈で、"宗教右派"として宗教と関連付ける必要はあるんですか?単に"右派"とするのは不適切な文脈なんでしょうか?それじゃ説明できない何かがあるんですか?ないなら不必要な紐付けをしているんじゃないですか?って話をしてる。
大きな括りの「宗教」に安易に紐付ける前に、その紐付けが本当に必要なものなのか一考してもらえませんか?という話。
それは個別の宗教団体の問題として語る事は不可能なのか。抽象化は優れた思考法だけれど、安易な、または不適切な抽象化は、物事の解像度を下げ、物事の適切な理解を阻むので危険ではないかという話をしてる。
宗教、信仰はそれに関わる者のアイデンティティ、生活、習慣、一生に関わる事であるので、それを雑に踏み荒らす事は、人権侵害になりかねないという話。
"悪い事""都合の悪い事"をすべて、何らかの宗教または「宗教」という大きすぎる括りに結びつける言説は、日本・日本語圏においては、"日本的無宗教"ではない何らかの信仰をもつ者を、言論の空間ひいては社会から排除し、その者がその者として何かを語る事を妨げ、抑圧する効果があります。
私はそうした"主流ではない""一般的でない"者達(マイノリティ)を排除・抑圧する構造、およびその構造を維持・強化・再生産する仕組みと言動を差別であると認識しています。
宗教は現地の文化・社会と相互に影響し合いながら発展してきています。
そこにある差別や暴力について、日本の文化・社会の構造の問題に言及せずに、宗教だけに原因があるように言い切るような態度には、合理性も正当性もないでしょう。
その態度は、「自分は無宗教(または異なる宗教・信仰)だから、自分とは関係のない悪い奴らが差別や暴力をするんだ」と社会にある問題を自分と切り離し、外部化する態度です。
私にはそうした態度が、この社会にある差別や暴力をなくしたり、その害を減らしたりする事に資するとは思えません。
同時に仮に問題のある宗教団体にまつわる信仰だとしても、その信仰を持つという理由だけで、個々の者の信仰を軽視したり侮辱したりする事はひどく暴力的で咎められるべき行いです。
(Twitterに投稿した内容なんだけど、こっちでも念の為投稿しとく。まんまなので文脈的には変だと思う。)
ここのところの投稿で私を見つけた方からすると、「お前は誰なんだよ。」
というところかと思うので、ここらで明確にしておきますね。
私は神道LGBTQ+連絡会の一員ではありません。
私の信仰について触れておくと、
日本または日本語圏におけるマジョリティである"日本的無宗教"と表現するのが一番近いと思います。
初詣に行ったり、お盆で親族・先祖代々の仏式のお墓参りに行ったり、思い立った時に縁のある神社やお寺にお参りしたりします。
八百万の神々の存在をふんわり信じているし、
それぞれの存在には、それぞれ踏み入ってはいけない領域(概念的、物理的)、してはいけない振る舞いがあるという感覚や、自分のした事はいずれ自分に返ってくるという感覚等々があります。
日本で一般的な方の感覚でいうと、少々"信心深い"部類でしょう。
私がしている事はすべて、私が私の責任の範囲において、私が実行に移す事を決めてやっている事です。
ほかの誰に責任が及ぶような事ではありません。
誤解のないよう、よろしくお願いいたします。
ちなみに❝排除されがちな属性を持った者へもなるべく対等に接する様❞ってのは、今の私の反差別のスタンスとはまた少し違いがあって、
とにかく「おかしい事にはおかしいと言う」「ほかの子への対応と同じようにする」っていう程度のもので、
そうやって接する私自身の特権性への無自覚さとか、私の中にある能力主義・知性主義の無自覚な発露とか、「大人や親から褒められたい・認められたい」という願望が行動の根源にあるとか、擁護・ケアされた相手へのアフターケアの不十分さとか、内心で攻撃してくる相手への人格否定をしていた(それを隠せていない)とかの落ち度は私にももちろんあった。(今も完全にないとは言えない)
当時の私には、社会の構造、権力勾配というものへの視点はなかったし、その構造に取り込まれた者達("加害者"も"被害者"も"傍観者"も"私"も)がどういった状況におかれるのか、どういう介入・ふるまいが多角的な視点から鑑みて適切なのか、どうしたら奪われたものを回復できるのかという事にも無頓着だった。
そういう私の落ち度への批判も中にはあったし、そういう批判を受け取れた事は本当に私にとってありがたい事だった。
補足すると、今の私の行動の根源にあるのは、「私だって生きたい」「私のために」だ。
ふと過去の記憶が呼び起こされて、苛立っている。
なんの流れだったかは忘れてしまったんだけど、昔(小中学生くらいの頃)、私の扱い(だったか、他者の扱いだったか)に対して不当だと思って抗議していた時に、
「そんな難しい言葉や抽象的な事ばかり言われても、何に怒っているのか分からないよこっちに分かるように言ってよ。」「難しい言葉ばかり使うのはバカにしてるんでしょ?」とか言われて、
丁寧に前提や、言葉の定義から話している時に、話の腰を折られたり(言葉の定義への揶揄とか)、全くの第三者から話を中断されたり(「こっちで話してるから」で避けられるような中断とか)、
「君の話は長すぎて聞く気にもならない」とか言われて話を一方的に終了されたのを思い出す。
そうやって長くなるから、短く済むように定義済みの言葉を使ってたんだよ!と思ったのも思い出す。
「後から文字に起こしたものを渡す」とこちらが提案すると、「そんなの読んでる時間ないよ」とかね。
(これ書いてて、何人かの顔がイメージされるから、多分何度もこういう事があったんだと思う)
今思い返してて思うけど、相手には端からまともにこちらを相手にする気がなかったし、全くもって対等な相手としてのリスペクトを私に対して持ってなかったのだなと。
【お知らせ】 筑摩書房発行の李琴峰氏の著書『言霊の幸う国で』における祝詞等の無断使用・改変について
本件について経緯書を作成しました。お読み頂ければ幸いです。
(画像が読みにくい際や、文中リンクのご確認は下記のリンクをご覧ください)
http://shintolgbtq.com/
・今後の正式な対応が確定次第、改めて結果のご報告を行います。 ・客観的な事実の記載を心がけてはおりますが、あくまで弊会側から見た経緯となることをお含みいただければ幸いです。 ・李氏個人への不当な批判や攻撃が生じることは本意ではありません。 [添付: 7 枚の画像]
自分が"正しい事"を主張しているという仮定に立たないと一歩も進めないという心情も理解できる(私もある種そうした心情があるからこうして発言できる)けれど、
それはあくまで仮定であることを忘れてはいけないと思うんですよ。
誰かに指摘された時には、立ち止まりませんか?
これだけミソジニー、ヘイトスピーチ、嫌がらせがあふれる状況で困難を極めるのは察しますが、私が念頭に置いて話している方々には、そうした事をする事が可能なくらいには周囲からのサポートがあるように見えます。
もちろん私から見えている範囲からの勝手な推測でしかないですから、実情は違うということであれば、捨て置いていただいて一向に構わない言葉ですが。
それから、学術・言論的に"正しい事"を普段話しているからと言って、その方が必ずしも"間違わない"、誰も何も傷つけないという事の証拠にはなりません。
私も含めて、全ての者がそうです。
日本のクィア系の学術または言論界隈で"主流"になっている方たちの記事とか投稿とか見てて改めて思ったんだけどさ、
日本よりも欧米とかの方がクィアの言論の蓄積って"先行"または"深化"していて、体系化されているからそれを日本の状況を表すのにも援用したりするじゃない。
それ自体は悪い事ではないと思うんだけどさ、やっぱり私たちは実在している者だからさ、言論または概念と、実存が合致しないってことあるじゃん。
日本国外または日本語圏外の文化の上で、蓄積されていった言論・概念なら尚更そういう事があってさ、その時に、
「私たちはそうじゃないよ」「私はそれに違和感を感じるよ」って表明すると、それに対して
「こっちの方が学術的に正しい」とか「こっちの方が蓄積があって、解像度高く分析できてる」とかって、「こっちが正しい」「そんな例外引っ張り出してくるなよ」って態度を返されるのは、やっぱり納得いかないんだよね。
今、学術的または言論的に"主流"とされている事が必ずしも"正しい"わけではないし、
学術や言論の蓄積の時に「本当にインターセクショナリティって顧みられてきたんだっけ」とか、「それは権威主義や能力主義や多数派の専制と隣り合わせなんじゃないの」とか色々思うわけですよ。
私はノンバイナリー(私の場合は基本、女性でも男性でもある)でジェンダーフルイド、パンセクシャル。法的な既婚者でパートナーはシスヘテロ男性。本来的にはポリアモリーだが、現在はモノガミーとして生活している。
反戦、反貧困、反差別、野良のフェミニスト。ベーシックインカム推し。
IT系の会社員。(福祉系大学卒、接客系・工場系勤務経験あり)
定型発達とは少しズレがあり、周期的に心身の調子を崩している(電車・人ごみ苦手)。元ひきこもりで、現在四分の一ひきこもり。
主にマンガのオタク(浅く広く)。
政治・社会・科学技術などのトピックスへの関心が高め。
祭り好き(祭祀ではなくイベントとしての)。
信じているもの・ことはたくさんあるけど、まだまとめて言語化できてない。
ヘッダーのALT、道端に咲いていた福寿草の花の写真
アイコンのALT、ハナミズキの花の写真