"悪い事""都合の悪い事"をすべて、何らかの宗教または「宗教」という大きすぎる括りに結びつける言説は、日本・日本語圏においては、"日本的無宗教"ではない何らかの信仰をもつ者を、言論の空間ひいては社会から排除し、その者がその者として何かを語る事を妨げ、抑圧する効果があります。
私はそうした"主流ではない""一般的でない"者達(マイノリティ)を排除・抑圧する構造、およびその構造を維持・強化・再生産する仕組みと言動を差別であると認識しています。
宗教は現地の文化・社会と相互に影響し合いながら発展してきています。
そこにある差別や暴力について、日本の文化・社会の構造の問題に言及せずに、宗教だけに原因があるように言い切るような態度には、合理性も正当性もないでしょう。
その態度は、「自分は無宗教(または異なる宗教・信仰)だから、自分とは関係のない悪い奴らが差別や暴力をするんだ」と社会にある問題を自分と切り離し、外部化する態度です。
私にはそうした態度が、この社会にある差別や暴力をなくしたり、その害を減らしたりする事に資するとは思えません。
同時に仮に問題のある宗教団体にまつわる信仰だとしても、その信仰を持つという理由だけで、個々の者の信仰を軽視したり侮辱したりする事はひどく暴力的で咎められるべき行いです。
都合の良いように、
ある時は「宗教・信仰の影響は絶大だ(だから危険だ)」とし、
またある時は「宗教・信仰なんて取るに足らない(だから軽視して良い)」とする。
この態度のどこが対等に接しようとする相手および集団に取る態度なんですか?