日本のクィア系の学術または言論界隈で"主流"になっている方たちの記事とか投稿とか見てて改めて思ったんだけどさ、
日本よりも欧米とかの方がクィアの言論の蓄積って"先行"または"深化"していて、体系化されているからそれを日本の状況を表すのにも援用したりするじゃない。
それ自体は悪い事ではないと思うんだけどさ、やっぱり私たちは実在している者だからさ、言論または概念と、実存が合致しないってことあるじゃん。
日本国外または日本語圏外の文化の上で、蓄積されていった言論・概念なら尚更そういう事があってさ、その時に、
「私たちはそうじゃないよ」「私はそれに違和感を感じるよ」って表明すると、それに対して
「こっちの方が学術的に正しい」とか「こっちの方が蓄積があって、解像度高く分析できてる」とかって、「こっちが正しい」「そんな例外引っ張り出してくるなよ」って態度を返されるのは、やっぱり納得いかないんだよね。
今、学術的または言論的に"主流"とされている事が必ずしも"正しい"わけではないし、
学術や言論の蓄積の時に「本当にインターセクショナリティって顧みられてきたんだっけ」とか、「それは権威主義や能力主義や多数派の専制と隣り合わせなんじゃないの」とか色々思うわけですよ。
自分が"正しい事"を主張しているという仮定に立たないと一歩も進めないという心情も理解できる(私もある種そうした心情があるからこうして発言できる)けれど、
それはあくまで仮定であることを忘れてはいけないと思うんですよ。
誰かに指摘された時には、立ち止まりませんか?
これだけミソジニー、ヘイトスピーチ、嫌がらせがあふれる状況で困難を極めるのは察しますが、私が念頭に置いて話している方々には、そうした事をする事が可能なくらいには周囲からのサポートがあるように見えます。
もちろん私から見えている範囲からの勝手な推測でしかないですから、実情は違うということであれば、捨て置いていただいて一向に構わない言葉ですが。
それから、学術・言論的に"正しい事"を普段話しているからと言って、その方が必ずしも"間違わない"、誰も何も傷つけないという事の証拠にはなりません。
私も含めて、全ての者がそうです。