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片桐庸夫「渋沢栄一と朝鮮 その対朝鮮姿勢を中心として」(2008)読んだ。

koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/m

要約
私財を投じて先行開発してるし偉い(でも韓国側の民族感情への無理解が今や際立つ)、というのと、征韓論には反対だったが時局に対して積極的な反対せず追認者となった、ここは現在では評価は厳しい。

この二つは「日本の植民地主義は西洋と違うし優しいし開発もした」論を言う右派にも丸々引き継がれているので、右派は体制追随的な政商のマインドマップをなぞってるのかも

保守系しょぼサーヴェイだと思ってた論文は、著者自身がラトゥールとかアネマリー・モルとかを援用して「SNSで調べられる民藝の現在を考えようぜ」とやり出したあたりからちょっと面白くなった。単に世代のリアルを出しただけでもあるが。著者は民藝協会系の民藝論に飽き飽きしてたんか、とうっすらわかる。

あれこれ探してるうちに見つけた論文だが、完全に「SNSにおけるエッセイ」として自分が回収してた方面だわと思った。

“「SNSに投稿したつぶやき、写真、動画、音楽、絵文字などの多様な発信を「オートエスノグラフィ」を構成する「断片」とみなし、断片と断片が交錯して紡ぎだされる自己/自社会の物語の集合体を「彼ら(=被調査者たち)のオートエスノグラフィ」と捉え、その特徴を明らかにする」”

“インターネット時代に生じた変化とは、他者との文化的経験を内包する「自己の物語」を被調査者自身がSNSにおいて語り始めたことにある。”

小川さやか「SNSで紡がれる集合的なオートエスノグラフィ 香港のタンザニア人を事例として」(2019)
jstage.jst.go.jp/article/jjcan

民藝の英語圏での結合はこれか。菊池裕子の仕事を探ってたらシアスターゲイツの記事が出てきた。tokyoartbeat.com/articles/-/th

 70−90年代の3代目・柳宗理会長時代が長いんだが、インダストリアルデザインで名を馳せた宗理の時代には、民藝もそう悪いもんじゃないという気分がおそらくあって、日本繁栄気分とおそらく混ざっている。宗理みたいのが続くのなら安泰っぽいし、その前提で叛旗を翻す言説構築も生じていた、というのが90年代までのノリなんじゃないだろうか。いまだと、「(いろんな私設美術館や出版社が創業者死亡で潰れているのが現在なのに)なんでこれ残ってんだろ」という気分が付きまとう。もともとは柳宗悦コレクション財団程度なのに、これがよく残ったなと。建物が立派だし、けっこう頑丈なのか? と。

 柳宗悦再読以上の理論的革新は起きそうにないし、延々「柳宗悦の歴史的位置付け」をやってるような…英国現代工芸言説とかは全然別経路から日本に入るんだろうなあ…と予感させられる。そして国立工芸館とかもその手の革新ポテンシャルはなくて団体組織まがいの存在だと思われる。

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 民藝言説は他方で、「なんか商売で関わらせてもらってるから伝統とか気になるわ」というノリで出てくる。これは、職人が「日本の伝統」とか言うのと同じよな x.com/msh614kw/status/16241193 一方、「柳宗悦のテキストや審美眼」が好きなデザイナーは、民藝協会うぜえな…となる。x.com/nagaokakenmei/status/161

 こういう言説群の配置で、ブランディングとマーケット、コレクション形成、柳の歴史的位置付けなどの複数の座標がなんとなく見えてくる。

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 たとえば、この記事の無神経さひどくね? 「柳宗悦にとってどう沖縄が映ったか」から延々書く。沖縄戦の災禍を免れて物が残って良かったやろ?も透けて見える webchikuma.jp/articles/-/2832 民藝協会がどういう意識でやってるのかを、この記事でだいたい推測してしまう。
 朝鮮に作った美術館は今も名前を変えて存続してることになってる。ja.m.wikipedia.org/wiki/朝鮮民族美術 今ちょうど100年記念展がやってるんだけど、100年を日本で祝うようなものなのか?という疑問も。x.com/1121takka/status/1806892 たぶん、いろんな鈍感さがあるんだと思う。だから90年代のポスコロ的な批判はうざかったんだろうね

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 沖縄での柳や民藝についての言説を追いたいんだが、まだそれは把握しきれてない。だが、なんか目星もつけることができて、日本民藝館と民藝協会の沖縄支部で何をやっているか、沖縄でどう受け止められているか、に話を回収できそうにも思える。札幌支部が00年代に解散してるしこの30年間で各地域の支部の自然消滅や統廃合が起きてる様子がある。沖縄のも潰れて終わる未来もないわけではないのかも。ja.m.wikipedia.org/wiki/日本民芸協会 つまり、理論があるとか活動があるとか歴史的位置付けとかではなく、活動組織なんだから、開催物と現地でどう見られてるかの話に集約されそう。それ以外は「柳宗悦が収集してくれたおかげで残ったもの」の評価とか収集方針バイアス検証といった作業になるのか?

 柳自身は「沖縄人こそが純日本人だから沖縄方言残すべし」みたいなナショナリズムロジックで方言擁護だから、ダメやろで終わる。沖縄現地での柳高評価は、本土の思惑をこえて擁護した柳宗悦がえらいという論調なのかなと。柳えらい扱いは保守名士層におけるものなのか沖縄左派も混ざってるのかは気になるが…。

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石丸を10代支持層とつなげる言説が増えてるけど、真の背景は財界によるプッシュだと思う

白江幸司 さんがブースト

もう少しいけると期待したけど、まあ仕方ないでしょう。ひとり街宣が発動したのはラスト2週間で、長年の世論がそれで変われば苦労はしません。テレビは当日に嘘までついた。よって、運動した人が悪いという奴は全員嘘つきです。単純に敵が強いだけなので、味方の犯人探しはやめるべき。

小池当選確実か〜やだねえ。二位が石丸というのも地味に悪夢だな。

つまりこれはジェイムズクリフォードなどを退けてラトゥールを掲げる現在の人類学若手と同じで、世代バトルかと。
民藝理論内部でイノベーションは起きそうにない、という漠たる私の疑念が、そのままシネフィル内部はアーミッシュだから知は育たないとする認識と重なる。そして北欧系と結びついたニュー民藝みたいな流れもあって、「マーケットできてるから偉い」みたいな論調も生まれているんだけど、そういうふうに変動する状態がアニメのグローバル成功による地位変動と同じに映る。。かつて高度成長期に地方文化へのノスタルジーが生まれて起きた60-70年代民芸ブームは「真正・民藝組織」たる民藝協会の連中から怒りと焦りで受け止められたが、工芸品の売買や認定にも関与してる以上、結局は「あのブームで需要も湧いたからよし」と現在では解釈する向きがあるようで、外部経済で変動してる感が濃厚だなーとか。

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たまたま民藝言説と沖縄や韓国との緊張関係ってどうなってるんだ?と気になって基礎的な調べ物からはじめてるんだけど、当初の予定とは別のところで気になる論点が増えた。途中から「これって全部マネジメントやブランディングじゃねえの?」という疑念が浮かぶようになる。

保守系の人が書いた民藝論の現在みたいなちょろいサーベイ論文を読んでて、いろいろ示唆される。その論文自体はレベルが低いんだが、柳宗悦死去後の民藝におきたことがいまのシネフィルだなとか、これアニメでも起きてね?とかおもった。90年代の柄谷や小熊英二の柳宗悦論がポストコロニアルスタディーズ的批判であると位置付けつつ、書き手は「それらの柳の読み方が間違っているとする論者」にシンパシーがあるのが歴然としてる。なぜかというと著者が伝統工芸関連の職についてるからそのポジションのストレートな反映っぽい(まあ柄谷や小熊は柳のテキストを簡単に片付けるものではあるのは事実なんだろう)。

ラッセン論集は「いまの階級格差からどう考えるのか」が隠しイシューで、しかしそれに勘付いてる人が寄稿者の中でも少ない、と思われる

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中ザワはラッセンをヒロヤマガタ受容の延長で捉え、80年代におけるヒロヤマガタ受容を焦点に据えた方がイラストとアートの間の摩擦と対立がもっと表面化するのではないかと提起しているのだが、当時のヒロヤマガタが人気を博したイラスト文化では、他に山口はるみ、鈴木英人、永井博などが活躍していて、永井博といえばこれらのイラストゆえに音楽のジャケビジュアルとしても知られてる。

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中ザワがもともとバカCGの「イラスト」側から出てきたこともあり、「イラスト」がかつてアートから排除された場所だったこと、ヘタウマ路線がアート化だったこと、逆に非アートがハイパーリアリズムイラストだったこと、などを手際よくまとめていたのも印象的だった。「イラスト」も「アート」も「デザイン」も70−80年代ごろに浸透した言葉なんですよ、かつてイラストとペインティングの対比がポストモダンとモダニズムの対と重なってたんですよ、云々。

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現在では、80-90年代文化で語れた言説や対立軸はあまりに階級の問いが霧散しているように感じられる。たとえばヒップホップひとつとってもかつては出自や階級の問いが希薄だったが、いまでは前景化しており、階級闘争・階級格差の言葉はひしめいている。そういった座標軸の変動があるのだが、むしろ70年代以降の半世紀は当時の言説をそのままたどるのではなく、ロウブラウ・ミドルブラウ・ハイブラウの射程で位置付け直して整理した方が、見通しが良くなると考えられる。

昨日は、その再読の切り口にラッセンもありうることに気づき、増補版の『ラッセンとは何だったのか』を読んでいた。しばらく前にドミューンでやっていたラッセン論集増補版刊行記念イベントでは、ヒロヤマガタとラッセンが当時の西武の脱大衆路線とどういう距離感だったのかについて中ザワヒデキが話してて、その機微が示唆に富んでいた。

あとはマンガスペシフィックな蓄積である「手を描く」主題の展開が顕著で、このフェチと執念が隠れた原動力かも。

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『神田ごくら町職人ばなし』少し読む。漫画読みのなかで評判いいものの自分はピンときてなかったが、読み筋が見えてきた。桶職人、刀鍛冶、藍染意匠工の手仕事を前面に持ってくることで、形象描写の幅が広がってるのが重要なのだろう。各話の主人公は交代制で女性職工の回が多く、ジェンダー秩序をいじってるのも支持される理由か。
ただ、「マイクラなろうの上位版」かつ「青年誌お仕事もの」ゆえの評価であり、丁寧にかつ写実的にやってればホンモノというコードに従うものではありそう。私はむしろマイクラのまま質を上げるトライアルのほうに関心がある。
to-ti.in/product/gokuracho

白江幸司 さんがブースト

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