CEDECに「ゲームとセクシュアルマイノリティの表現の過去と未来」というタイトルで応募したら採択していただけたので講演させていただきます。セクシュアルマイノリティの歴史から、インディでの表現や手法や理論、AAAタイトルでの表現、そしてクィア・ゲーム・スタディーズの現実。みたいな内容です。
研究者もCEDECに応募しよう〜!
https://cedec.cesa.or.jp/2024/session/detail/s6608f5484f4a7/
女性アーティストたちの功績に光を当てる「AWARE」に日本語セクションが開設! 日本の研究推進に期待
https://artnewsjapan.com/article/2524
わいもヒロヒトパンかぶりつきたい、とか思いながら『家父長制を食べる』(2022年)見てた。
小学校の頃で聞いた戦争に関する加害体験の記憶(私がしていいか分からないが、私も毎年思い出すほど記憶に残ったので)
そのお話に来てくれた方が一番記憶に残ってて今も夢に見ると仰ってたのが、2名の中国人男性を上官に銃剣で刺して殺すように命令されて磔にされた同僚と2人で1人1人ずつ刺して殺した、その人達は民間人だった、という話だった。同僚が刺す方の方は泣いて必死で中国語で「何もしていない」と言っていた、と(話者の方は中国語が分かる人)。自分が刺す方の方はじっとただこちらを見て睨むわけでもなく呆然とするわけでもなく「今から自分を殺す私の顔をしっかり覚えていようとしている」と思った、と仰っていた。その後2人とも簀巻きにして川に流し、その遺体が包まれた簀巻きがぷかぷか流れていく様子が目に焼き付いていると、最後の方は涙を押し殺しているような声でお話されてたのを覚えてる。戦争体験を話す機会には必ずこれを絶対に話す、今もきっと彼は私を見ている、私のする事をじっと見ていると思ったら絶対に話さなければいけない、話さずにはいられない、と仰っていた。
私も戦争の被害体験は教科書や資料集、毎年のニュース等で観ていたが、加害体験を話す人に出会ったのは当時初めてだった。夏に限らずよく思い出す。
ものすごくバズってる(なんで?)わりにはそれほど凄い意見でもないんだけど、私的空間と公共圏の線引きの動揺からも考えられるんだろうな。
"公で活動している人の名や作者名は敬称をつけないっていう基本ルールが失われて、敬称つけないと失礼と言い出す人がいて、これまでつけなくてよかった敬称をつけないといけなくなってる感。はもう戻れないのかなー。だろうなー。"
https://twitter.com/yonemitsu/status/1824768941706924215
ツリーの途中にあった、この箇所でなるほどとなった。>「アインシュタインは偉人だがさんづけしない。私的な関係性がないからだ。学校の先生は偉いと思ってなくても先生と呼ぶ。故人や歴史的人物にさんづけしないことが多いのはたいていの場合私的な関係性がないから、つけてない。」
「私的関係がない」と言い切れるバッファが薄弱化した、というふうに整理できそう。
中上論としては、亀有碧「中上健次の〈アジア〉思想」(2023)が久保の議論を引き継ぐものと言えそうだった。
(pdf注意) https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/record/2007580/files/lis2108.pdf
どこかで見た名前だなと思っていたら、編集者として伝説的に有名な久保覚なのか。60-70年代の(ポスト)戦後思想史の潮流で、現代思潮社〜せりか書房の話題が触れられるときには、久保はキーパーソンとしてしばしば語られる。
“日本は併合の直後から朝鮮の村祭りを禁止した。また、村祭りにともなう綱引き、石戦、車戦、木牛戦などの民俗戯も、それに仮面劇の上演も禁止した。金淑子さんの体験を一例にして示したように、朝鮮民俗芸能の中心的保持者であるムーダンたちのことも抑圧し、各地を放浪するとくに一般民衆との交流のつよい下級パンソリ演唱者たちに阿片をのませ、芸ができないようにした。さらに村祭りと共に民俗芸能の空間でもある市場も弾圧した。一時は、民謡の「アリラン」でさえも、その歌唱を禁止した。そしてこうした直接的禁圧の一方で、初等学校をはじめとする教育機関、警察、行政機関、ジャーナリズムを総動員して、朝鮮の民俗文化、民俗芸術を、迷信的であり、劣等な後進的なものだとする植民地史観、文化観を朝鮮人にたいして植えつけていった。すなわち、日本の植民地支配は、外部と内部の両方から朝鮮の民俗文化、民俗芸術を解体し、歪曲し、断種しようとしたのである。”
読ませる記事だった。
久保覚「中上健次は軽蔑に値する」(1982)
この時期になるとTwitterで「おじいちゃんが戦争で心を病んだ、だから戦争はだめだと言ってたし私もそう思う」的な漫画が流れてきて、それはまあいいことなんかもしれんけど、正直言うと、そういうの見るたびに「あなたのおじいちゃんはきっと、ご自分がやった本当にひどい行為のことは話していない」と思うようになってしまった
ご家族の個人的なことを他人みんなに話す必要はないから漫画に書かなくていいんやけどさ、結局、「おじいちゃんを含む日帝軍の人たちがやったこと」が矮小化された中途半端な反戦漫画になってしまってるよな
だから個人の語りに任せたらあかん、公的機関がちゃんと認めて振り返り続けなあかんと思う
あまり書き物ができてない。