このサーヴェイ論文、面白かった。
モダニズム美学からだとエモーション論の路線が即反動に見えることとか、80−90年代日本脱政治モードからだとバカっぽく見えるものを価値反転させる手口なんだなと思わせる。
普通に読んだら、「アメリカの抽象表現主義がパトスと呼ばれて延々、内面性だと当時論じられたが、グリンバーグによる議論とポップとミニマリズムで揺さぶりをかけて過去にしたのに、元に戻るのか?」と反動的に見えるし、エモーション推し勢がそもそもエモーション/理性の対立を維持した上で、「理性と言語の偏重で不当に無視されたエモーションを」に持って行ってるのが微妙なんだけど、こういう議論もわりと新唯物論を押し出す時に使われがち。トラウト論で議論を切り開く時にも。
だが、ジャンマリー・シェフェールのフィクション論が、登場人物と行為を中心にすることで文学とゲームをまたがり、メディウムスペシフィシティを解除していたり、行動、感情、その道徳的側面を問う射程を提示していることを考えると、インターネット以後の暴力への感度と人称的次元の上昇に対応した議論趨勢として並行性があるというふうに考えられる。
フリーレンOP見てた。
OPで勇者とフリーレンの恋歌になって、関係が強化されたので、歌詞にある「この地に芽吹いた命」すべてが亡き勇者とフリーレンの義子になる構図が確立したわけね。話の大半は、勇者の死後の喪の作業になる。
異種族間の生殖と死に別れやエイジングの差が暗黙の操作主題だな。
生命全部は物語の構成要素として図体がでかいので、媒介として義理のな息子と娘のポジションが出てきて、一緒に旅をするという処理になる。
フーコー講義録は「新刊出るのに旧刊を増刷しない鬼畜」の可視化の方が目立つわ。
"【10月30日発売予定】
『ミシェル・フーコー講義集成2巻 刑罰の理論と制度 ――コレージュドフランス講義1971-1972年度』(ミシェル・フーコー著 筑摩書房)
【Amazon紹介文】「国家の抑圧装置としての司法はいかにして生まれたか。」" https://twitter.com/philo_shinkan/status/1710417145811603886?s=46&t=X2RUQ4Qbb8-DRqOgpyhdjg
これ見たかったんだけど、上映が一日限りという鬼スケジュールだったので無理だった。仙台まで行くのしんどい。https://x.com/nowsreel/status/1710260487475368268?s=20
ドクターストーンとけもフレは「陽の者」すぎてなろうコンテンツ上位ポジにこれないという問題があって、その層が無職転生やゴブリンスレイヤーなら乗れる、と闇っぽいアイデンティティを投影し、ゆえにポルノ的願望充足がこの枠にこびりついて取れない局面がある。
それでいうと、トリコは中途半端なのかも。刃牙っぽさ、冨樫っぽさをもちつつ、ジャンプのメインストリームである陽の者枠を目指すので。
普通に考えると「ドクターストーンの時点でなろうハックされとるやん」になるんだが、その認定が全く共有されない状況がある。その原因はオタクファンダムのアイデンティティの型ごとエリア認定が起きているからで、オタクファンダムって「自分みたいな闇の者には~~は愛せない」実存がすぐこびりつく。
自分がポスアポに関心を示してしまうのは、山行って山菜を刈り取るところから始める料理人みたいなものになりつつあるからじゃないか?と最近考えるようにあった。じゃあ次は山に行って鹿を狩ろうな、とか言ってる料理人、ぜったいやばいやつだろう。
「これが女性版スルメロックやでー」と言われて読んだが、たしかにそういうところある。
https://x.com/rawjellyfish/status/1709159654696304957?s=20
あまり書き物ができてない。