新しいものを表示

@imdkm Bootheでこの誌面探すと、すでに「アフター藤本タツキ世代」というワードがあってですね。そういう意味でも吉野マト読むと、面白いんだよ。あ〜リアルティーンが注目した箇所、ここか〜ってなった。

どう即にかんしては数年前にざくっと把握完了してあるんだが(その後の追跡してないからちょっと変化してるかもしれない)、彼のダメなところは、「違和感なく読めるコラムやエッセイだけを読む・それ以外の書き物は“いけすかない専門的なもの”なので俺には関係ない」と選別と遮断をやることで、そうするのが「自然」であり、無垢な自分を守ることができる、という保守的なイデオロギーが貫かれていることにある。

そういう人間が「こいつは聞くに値する、こっちは戯言だ」とかソムリエ的言動をすること自体がものすごく傲慢で、「俺は大衆だ」を攻撃の道具に使ってる。

私はむしろああいうのを見て、読まれないように工夫をする側だな…。

保守性、かつ主観的には「いやいや公正の側ですから」と思ってそうな配分において、別饅頭とよく似てる。

スレッドを表示

@imdkm ルックバックで絶対に受験生ふえるよ。。

白江幸司 さんがブースト

「トー横」 都の施設でわいせつ行為か 子どもを守る場所で何が | NHK www3.nhk.or.jp/news/html/20240
------

x.com/colabo_yumeno/status/183
仁藤夢乃さんのこの記事へのXでのコメント:

「… この事件が公表されることになったからなのか、9/3から『きみまも』利用には身分証が必要となり、性搾取の被害に遭っているような少女が利用できる場ではますますなくなりましたが、
これまでも、『きみまも』では少女に売春させることで生活している男たちが快適に過ごし、その間に少女たちに売春させ.『きみまも』が閉まってから、少女が体を売って確保した宿に向かうということが続いていました。
東京都はこれを放置してきました…」

関連YouTube:
youtube.com/watch?v=RQb5PtKqh4

#Colabo #東京都

吉野マトのめちゃくちゃ藤本タツキファンなことを考えると(作品だけではなく東北芸工大藤本タツキ特集で呼ばれて対談までしている…)、『六年目の浦島太郎』は『ルックバック』改造として読める。「もう小学校も卒業するのにいつまでマンガ描いてるの?」のあたりの要素を膨らませたんだろうなと。

初期2作も、チェンソーマン第一部中期に並行して描かれている気配があり、新鮮な思いでチェンソーマンを読み返すことができて、示唆が多かった

スレッドを表示

寝転がってベネット『震える物質』読んでる。

怒りのツイートは「作者は運送の仕事をどうせ知らないしで描いてる」と予断を持ってるわけだが、「何人かインフォーマントがいた」「つか実際働いてた」「風俗に誘う場面見た」とか作者が言い出したらどうなるんだろう?とか思った。誰しも現場なんて個別的にしか知りようがないんだから、「そういう現場もあった」というまとめになるおそれもある。

「ファンタジー世界でホモソーシャル現場を批判する」みたいな技こそが暗黙に望まれてるんだろうなあ、と思う。「俺、そこで働いてるから。むかつく」を潰すならこれよ。でもそれってなあ…

荒いところはあるかもしれないが、そもそも異を唱える際にコンフリクトと不満が生じるのは避けられないよ。

で、じゃあ「ホモソーシャルな職場ってこういう所なのね〜」という要約の可能性をあらゆる手を使って除去するのが正解か?という問いが生じる。
たぶんそれをやると「具体的シチュエーションを無しにする」という荒技にならない? つまり言葉だけ、想像上の現場だけを言葉の上で語るような処理にして、あらゆる個別性を除去すると「ムカつく」はかなり回避できる。

読解を挟んでることをあたかも不動の真実みたいに語られると、この解釈者がまさに欺瞞吹聴してね?と思うんだが…

作品受容を作品がそこまでコントロールできる?

これ、受容へと作品を還元してるんだよ

「ホモソーシャルな職場ってこういう所なのね〜」という、要約がすでに「一面的」な読解では。

とはいえ違和感への疑問も強調の度合いを間違えると単なる抑圧になるという。

私は「違和感」を掲げる批判そのものにかなり疑念がある。それは「自然さ」の維持の推奨と表裏だから。違和感?他人が書き、他人の認識を通すものに違和感がなくなるわけないだろう。怒りと異議申し立ては大事ではあるんだが、違和感の提示には疑問を持つことの方が多い。

キレてる連中が公平かというと、かなり疑いをもつ。

古いものを表示
Fedibird

様々な目的に使える、日本の汎用マストドンサーバーです。安定した利用環境と、多数の独自機能を提供しています。