リメイク版で消えた要素「コメットさん」だが、これは「ヤクザの女」モチーフからの改造とみられる。
コメットさん呼びすることで(コメットさんというのは60年代の魔法使いドラマが元ネタで、いささか古いポピュラーカルチャー用語)、身体障害者女性に奇妙な効果を付与しているのだが、当時目立っていた北野映画を意識しつつヤクザ映画文法を外したことで、コメットさんを中心とした擬似家族っぽさが強める作戦があったんだろう。
これはリメイク版で消えてはいないが、方向性はちょっと別物になっている。
旧版の90年代後半時点で、ヤクザ&Vシネの延長に擬似家族を見出すルートがすでに見えるのが収穫だった。ソナチネだと「ヤクザ、女、舎弟」だけど、もっと水平感がある。
「やっぱりエッセイ漫画ってプロパガンダ手法てんこ盛りなんだなあ」と、自己紹介になってしまっているケースだなこりゃ。
部分的にドラマ実写化の情勢に関して正確なところもあるんだろうけど、話法がプロパガンダ。
読者なり聴衆は、作家にシャーマンを期待して、その振る舞いを押し付けるんだけど、他方で、作家は作家で技能と実存の混濁のなかに生きているので自らシャーマンっぽい振る舞いを自分の礎にしてしまう。そうして相互に強化された循環のなかで一定の「素朴なことしか言わないがそれで熱烈に歓迎される」秩序が確立される。
が、なんかこういうのって勤め人が自傷的な消費行動に依存するとか、ホストや風俗に異様に金を使って実存が絡まってしまっている人と、私の中では完全に横並びに見えてしまい、作家ー聴衆だけが特別に思われていることの方が歪みに思えている。
たいていの作家って、しゃべるとわかってしまうけど、単に職人性とセンスと実存の複合体だよなとか・・
私は作家が素朴なことをいくら言っても許される状況って薄気味悪く見えてしまうというか、「作家」という特殊言説空間があってそこに知的に隔離されている結果に思えて、そういうふうに追いやられていることでどういう秩序が生まれているかの方が気になってしまう。
あー、『VRおじさんの初恋』けっこう攻めてるなあ。禿げた中年おじさんと初老じいさんがVRでバ美肉になって恋をする話。早々に男同士であることがバレるが、関係が続く。これ書いてる人女性漫画家かー
文フリ以外にも、こういうアクティビズムとカルチャーを交差させるイベントも出てきているし、今後多元化するのでは。
https://x.com/osonodoyo/status/1797500509097701695?s=61&t=GC7VSa4PcXnbn5H8qsel2w
あまり書き物ができてない。